帰りの馬車。
授業の終わりを告げる鐘が、学園の石造りの回廊に低く響いた。
夕暮れの光が差し込み、長い影が床に伸びていく。
教室を出る生徒たちのざわめきの中で、ベルンハルトは一歩だけ前に出た。
その動きは控えめで、それでも迷いを含まない。
「一緒に……帰るか?」
その声は低く、静かだった。
けれど、確かにカレンだけに向けられている。
カレンは一瞬、呼吸を忘れた。
胸の奥がきゅっと縮む。
ここ数日、誰かと「一緒に帰る」という言葉が、これほど重く、そして温かく響いたことはなかった。
「……ありがとう」
小さく頷きながら答えた声は、思っていたより震えていなかった。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどける。
並んで歩き出す二人の距離は、以前よりも慎重だった。
近づきすぎれば壊れてしまいそうで、離れればもう戻れない気がして。
学園の門を出ると、夕方の風が制服の裾を揺らした。
馬車乗り場にはすでに何台か停まっていて、御者たちが手綱を整えている。
アイゼン家の馬車が見えた瞬間、カレンの肩がわずかに強張った。
その変化を、ベルンハルトは見逃さなかった。
「……大丈夫だ」
そう言って差し出された手は、強くもなく、急かすこともない。
選ぶ余地を残したまま、ただそこに在る。
カレンは一瞬だけ迷ってから、その手に自分の指を重ねた。
触れた瞬間、熱が伝わる。
確かに、ここにいると実感できる温度だった。
馬車の中は静かだった。
車輪が石畳を転がる規則正しい音だけが、二人の間を満たしていく。
向かい合うのではなく、並んで腰掛ける。
肩が触れそうで触れない距離。
「……無理は、していないか」
ベルンハルトの問いは、探るようでも責めるようでもなかった。
ただ、確認するための言葉だった。
カレンは窓の外に視線を向けたまま、ゆっくりと息を吐く。
「……正直に言うと、少しだけ……怖いです」
言葉にした途端、胸の奥がひりついた。
けれど、続ける。
「でも……ベルンハルトが声をかけてくれて……今は、ちゃんと息ができます」
沈黙が落ちた。
その静けさの中で、ベルンハルトは一度だけ目を伏せる。
「……そうか」
それ以上、踏み込まない。
代わりに、カレンの手に重ねられた指が、ほんのわずかに力を込めた。
逃げない。
離さない。
そう言葉にせずとも伝わる意思。
馬車はゆっくりと街を進んでいく。
夕焼けが空を染め、窓越しに赤と金の光が流れ込んだ。
カレンはその光の中で、隣にいる人の横顔をそっと見つめる。
強張った表情の奥にある決意を、今はまだ言葉にしなくていい。
「……今日は」
カレンが口を開く。
「……一緒に帰れて、よかったです」
ベルンハルトは小さく息を吸い、短く答えた。
「ああ。俺もだ」
馬車は、静かに進み続けていた。
それぞれが抱える不安も、迷いも、その揺れの中に預けながら。




