紅茶に添える手
学園の片隅にある、静かなカフェの個室。
午後の光が、薄いカーテン越しに揺れていた。
向かいに座るアイナは、両手を膝の上で固く組み、視線を落としている。
その仕草だけで、答えを聞く前から胸が重くなった。
「……やっぱり、手遅れでしたか……」
アイナの声は、小さく、かすれていた。
カレンは、唇を噛みしめてから、ゆっくりと問い返す。
「ここまで来てからでも……覆すことは、できないの?」
縋るような言葉だった。
自分でも、情けないと思うほど。
アイナは一度だけ深く息を吸い、首を横に振った。
「……ごめんなさい。リセットボタンは……」
そこで言葉が途切れる。
カレンは、その先を理解していた。
だから、続きを促さなかった。
「……そうよね」
視線を伏せたまま、静かに呟く。
「現実、だから……」
“ゲームだったら”。
“選択肢だったら”。
“やり直せたら”。
そんな言葉は、ここにはない。
重い沈黙が、二人の間に落ちた。
カップの中の紅茶だけが、かすかに湯気を立てている。
しばらくして、アイナが意を決したように顔を上げた。
「……あの」
迷いを含んだ声音。
「レオンは……溺愛ルートでも、あるんです」
その言葉に、カレンは瞬きをした。
「溺愛……?」
思わず、復唱する。
アイナは頷いた。
「はい。ヒロインだけを可愛がるというか……強く求めてくれて、離さなくて……」
言葉を選びながら、続ける。
「大切に、されるんです。彼なりのやり方で……」
カレンは、膝の上で指を絡めた。
レオンの顔が、脳裏に浮かぶ。
距離を詰める速さ。
迷いのない手。
選択を与えない言葉。
確かに、彼は一直線だった。
欲しいものを欲しいと言い、触れ、囲い込む。
ベルンハルトとは、正反対だ。
(……溺愛って、なんだろう)
胸の奥で、問いが静かに広がる。
守るように待つ愛。
相手の意思を尊重する愛。
それとも――奪い、抱え込み、逃がさない愛。
レオンの愛し方は、強引で、息が詰まるほど近い。
けれど、そこには迷いがなかった。
自分を選ぶと決めた瞬間から、世界を動かした。
家も、国も、立場も使って。
(……乙女ゲームの世界、なら)
心の中で、そう思う。
奪い合われて。
執着されて。
溺れるほどに愛されて。
レオンと結ばれるエンディングは、
間違いなく“ハッピーエンド”と呼ばれるだろう。
ヒロインは選ばれ、
彼は満たされ、
物語は美しく閉じる。
「……確かに」
カレンは、ぽつりと呟いた。
「ハッピーエンド、ね……」
でも。
胸の奥が、少しも温かくならない。
ベルンハルトの顔が、浮かぶ。
一歩踏み込めなかった夜。
手を伸ばして、躊躇したあの一瞬。
(……あの人は)
優しすぎた。
慎重すぎた。
そして――間に合わなかった。
「アイナ」
カレンは、ゆっくりと顔を上げた。
「溺愛されることと、幸せになることって……同じなのかな」
アイナは、答えられなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
カレンは、静かに目を閉じる。
選ばれる未来。
囲われる未来。
守られる代わりに、奪われる自由。
それが、ハッピーエンドだとしても。
(……私は)
まだ、決めきれずにいた。
この物語が、本当に終わっていいのか。
それとも――まだ、抗う余地があるのか。
カップの中で、紅茶の表面が小さく揺れた。
それは、今のカレンの心そのものだった。




