9話
精霊樹とは、この世界を統べる神が一つの国につき一株だけお与えになるという、精霊が生まれる聖なる樹木の事で、精霊樹が枯れた国は精霊が全く寄りつかなくなって、例外なく滅びてしまう。
「へえ。そうだったのかい。前の大司教だったトルト様がご存命だった時は、精霊樹は礼拝堂にあって、教会に行けばいつでも見られたんだけどねえ。ギュント様が大司教になってからは、精霊樹を傷つけようとした不心得者が出たって理由で、奥の間に移されちまったんだよ」
「そうだったのですね」
「まあでも、あの難しい試験を首席で合格したあんたなら、きっと大丈夫さ!」
ミルパがアイカの肩を叩いて太鼓判を押す。
「もし精霊樹が見る事ができたら、どんな様子だったかあたしたちにも教えておくれ」
「わかりました。じゃあミルパさんとのお約束が守れるように、もっと頑張りますね」
アイカがそう答えた途端、何故かビンデルが顔を顰めた。
「あのなあ、嬢ちゃん。頑張るのは構わねえが、あんまり頑張りすぎるんじゃねえぞ?それでなくとも、学院では辛い目に遭わされているんだろ?根を詰めすぎたら心が折れちまうぞ」
「そんなことは‥‥‥」
「いいや。あまり自覚がないようだが、俺から見りゃあ嬢ちゃんは色々と我慢しすぎだ。いいか、嬢ちゃん。もし辛い事に我慢しきれなくなったら、遠慮なんかせずに、心がポッキリいっちまう前に俺やミルパを頼るんだぞ?」
「でも、お二人にご迷惑をおかけするわけにはいきませんし」
戸惑うアイカに、ミルパが笑いかける。
「あははは!何言ってるんだい!迷惑なんかであるものかい。それに、困った時に人を頼るのは当然の事じゃないか!」
「おう。その通りだ。それとも嬢ちゃんは、頼るほど俺らが信用できねえか?」
「そ、そんな事はありません!」
「がはは!なら素直に俺らの言う事を聞いておきな!」
「わ、わかりました」
ビンデルはアイカが頷いたのを見て満足そうに笑うと、とりとめのない世間話や新しい魔道具の構想についてひとしきり話した後、そろそろ仕事に戻ると言いながら去って行った。
「結局ビンデルさんは、街灯の開発者申請の件を確かめるために、わざわざ私に会いに来てくれたのでしょうか?」
「あの頑固おやじは、変なところで照れるからわかりにくいんだよねえ」
困惑するアイカを見ながら、ミルパが苦笑いをしている。
「多分あいつは、困った時は自分を頼れって、あんたに言いたかったんだと思うよ」
「え?」
思いがけない答えを聞いて固まっているうちに、ミルパは後片付けのために厨房に引っ込んでしまった。
『あいかー、驚いてるのー?』
「ええ、そうね。そうかもしれないわ」
母国では、打算なしで親身になって彼女を案じてくれるような者は、家族以外にはいなかった。だから、まさか遠い異国の地で、そんな得難い存在に出会えるとは思ってもみなかったのだ。
『でも、あいか、嬉しそうねー』
『よかったねー』
アイカの乏しい表情からは、喜びの感情は読み取れない。だが、彼女の心の中は今、確かに喜びでいっぱいになっていた。心で通じ合える精霊たちは、その事がよくわかっている。
一生懸命に笑顔を作り、自分を気にかけてくれた事に対してアイカが礼を言いに行くと、ミルパはその歪な笑い顔を見るなり吹き出した。
「あんたも自然に笑えるようになれば、もっと可愛らしく見えると思うんだけどねえ」
「すみません‥‥‥」
「いいよいいよ。いつも不愛想だけど、あんたが心根の優しい素直な子だって事ことは、よーくわかってるいるからね!」
この気性のさっぱりした女店主に、いつもアイカは頭が上がらない。
(私、ミルパさんやビンデルさんたちと出会えて、本当に良かった)
アイカを妬む魔導士たちがどんな悪評をばらまいても、彼らは信じずに笑い飛ばしてくれるのだ。
(いつか、ちゃんと笑ってお礼が言えたらいいな)
そう思いながら、アイカは窓に映った自分の顔を見ながら笑顔の練習をする。
だが、店先を通りかかった客がギョッとして固まっているの見る限り、そんな日が来るのはまだ当分先の事になりそうだった。