82話
今のアイカはシェリーが近くにいても逃げだしたり隠れたりする事はない。
何故なら、この屋敷の使用人たちはみな、公爵邸にいた使用人たちとは違って自分に好意を寄せてくれている事がわかったからだ。そのため、アイカは自分からも彼らに少しずつ歩み寄ろうと心に決めていた。
──とは言っても、やはり咄嗟に彼らに出くわしたりすると反射的に逃げてしまうのだが、その時の相手の悲しそうな顔を見てからは、極力逃げずに踏み留まろうと努力している。
しばらくして、マリーナが昼食を終えたのを見届けたアイカは、自分からマリーナのそばに近寄ると、彼女の体内の魔力循環に問題がないかどうかを確かめた。
(よかった。特に異常な所は無いみたいね)
その後は、病で弱った内臓に自然治癒を促進する魔法をかける。初めて出会った時よりも、だいぶふっくらとしてきたマリーナだが、一般の女性に比べるとまだまだ痩せている。
(夕食はもうすこしお肉を増やしたほうがいいかもしれないわ)
名残惜しそうな二人に見送られて窓から外に出たアイカは、献立を考えながら庭をとてとてと歩いて厨房の裏手へと向かう。そしてほどなくして到着すると、風魔法で洗い場の脇にある窓の上に乗って厨房の中をそっと覗き込んだ。
『きゃっ!』
その瞬間、複数の視線がこちらに向けられていたのに驚き、悲鳴を上げる。
厨房の中では、強面の料理長や料理人たちが、洗い場の反対側にある厨房の入口に一列に並び、窓から顔を出した彼女をじっと見つめていたのだ。
怯えて悲鳴を上げた子猫に気づいた彼らが、慌てて目をそらす。おそらくアイカを怖がらせないよう配慮しているつもりなのだろう。
『──びっくりして心臓が止まるかと‥‥‥。わざわざ整列なんてせずに普段通りにしていてくれればいいのだけれど』
『毎日見てるけど、あれは確かにびっくりするよねー』
『でも悪気はないんだよねー』
きっちり並んだ強面顔によるお出迎えは、彼らがアイカに敬意を表して行っている事なのだが、毎回驚いて息が止まりそうになるのでできればやめて欲しい、とアイカは思う。
深呼吸してようやく落ち着きを取り戻した彼女は、風魔法で厨房の中にふわりと下り立つと、持参した食材を精霊たちに並べてもらい、夕食の準備に取りかかった。
精霊たちに指示しながら食材の下ごしらえをはじめると、宙に浮かんだ野菜が適度な大きさに分解され、何もない空間から熱湯が現れて鍋に注ぎ込まれていく。
その不思議な光景を見るたびに、料理人たちから「おおっ!」と野太い歓声が上がる。
アイカがこうして料理人たちの前で調理して見せるようになったのは、マリーナが彼女の正体を使用人たちに共有してからというもの、食事を作るために真夜中の厨房を訪れるたび、冷えきった厨房の床で土下座して頼み込んでくる彼らに根負けしたからである。
「アイカ様!あんたが人を恐れているって事は知っているが、どうしてもあんたの作る料理を、俺らでも作れるようになりたいんだ!だから頼む、俺たちに料理を教えてくれねえかっ?!」
強面で大柄な男たちが、鬼気迫る様子でそう言って頼み込んで来た時は、思わず全身の毛が逆立ち、恐怖で腰が抜けそうになったものだ。
もちろんこの時、「調理中は近づかないという約束を破った」と精霊たちは大層激怒したが、料理長たちが見た目や味だけでなく、口にする人の健康をも考えて作られているアイカの料理に感銘をうけた事を熱く語り、これまで食べた中で一番美味しいと感じたそれらの料理を、自分たちの手で主に振る舞いたい、と切々と訴えてくると、優しい彼女はその申し出を突っぱねる事ができなかった。
「なるほど。あらかじめ出汁をとって、キイユ草をつけておくのか。おお?!テザックの実はこうやって凍らせておけば綺麗に皮がむけて、柔らかい実を崩さずに調理できるのか!」
最初のうちは、料理人たちから距離を取り、遠くから調理を見せるだけだったが、彼らに一切害意はなく、その言葉通り、美味しい料理を主人に食べさせたいと願っているだけだと知った今では、こうしてある程度まで近くまで来ることを許し、作り方を見せるだけでなく、実際に調理を手伝ってもらっている。




