終章 煌帝・インジュの矜持
『はあ………………』
『辛気くさーい。なぁによぉ?』
『インジュにやられたぜ……』
『ンフフフフ。勝てると思ってるのぉ?もぉお、意地張るのやめればいいんじゃないのぉ?』
『意地じゃねぇ。元に戻しただけだ』
『へぇえ?元っていうけどぉ、インジュ、変わっちゃったわよぉ?ほぉうら、お呼びだわぁ』
『わかってる。だが、オレは、どっちかじゃなくて、あいつらが好きなんだよ』
アジャラは、インジュの要請を受けて人格を交代させた。
何してたっけ?とアジャラがゆっくり瞬きすると、前で気配が動いた。
「アジャラ、申し訳ありませんわ」
途端に隣から申し訳なさそうなリャリスの声がした。
「リャリスちゃん?ああ、あれぇ、ヤレばいいわけぇ?」
アジャラは顎をしゃくった。
樹木の生えていない荒涼とした大地の、平らな谷底にいるアジャラとリャリスは上を見上げていた。先端を鋭利な刃物で切り取ったかのようなテーブルマウンテンの上に、巨大な猿がいた。アジャラはリャリスの前にさりげなく進み出て、背に庇う。どうやら、風の領域に現れた魔物狩りに来ていたようだ。
「インジュ!……アジャラか?」
「あんた、なんですぐわかるのよぉ?」
嫌そうにアジャラは、偵察にでも行っていたのか戻ってきたノインに「なぁんだ、リャリスちゃんとデートじゃなかったのねぇ」とのたまわった。
「おまえ達3人を見間違うわけがない」
話さずに一目で見抜くのは、あんただけよぉ?とアジャラは思ったが口に出さなかった。もちろん、リャリスは特別だ。彼女は、無条件で3人がわかる。
まあ、そのうち慣れれば、リティル、インファ、ラスくらいはわかるようになるだろうと思う。そうすれば、ノインが特別ではなくなる。どうにもアジャラは、ノインへの反発心が消えなかった。もう、いきなり襲いかかったりはしないが。
「それより状況だが、小猿を多数従えている。小猿をオレが抑えている間に、おまえは大物を無力化しろ」
「ふーん?小猿、ねぇ。インティちゃん、シェレラちゃん」
アジャラが名を呼ぶと、両脇にインティとシェレラが現れた。
「ノイン、あんたと飛ぶなんてご・め・んよぉ!オーホホホホホ!そこで指くわえて見てなさーい!」
バッと翼を広げたアジャラは、2人の守護妖精を従えて、雄々しく飛び立っていった。
「……そうだろうな」
あれしき、彼なら1人で十分だと、ノインは涼やかに微笑んでいた。しかし、すぐに笑みを収め、ジッとアジャラ達の動きを観察していた。
これは、インジュに依頼されたことだった。アジャラの戦い方を分析してくれと、ノインは頼まれたのだ。ノインは、戦闘を分析する能力が高い。内側からしかアジャラの動きを見ることのできないインジュは、今後の戦略のためにノインを頼ったのだ。だが、ノインはそれは建前だと思っている。
インジュは旧時代の暴君の事案が終わった後、風四天王に戻ってきた。
そして、ノインを戦術指南役に引っ張り込んだ。ノインは風の仕事に口出しできないと難色を示したが、もの凄くいい笑顔で「そうですかぁ。じゃあボク、殺しまくって壊しまくって、毎回死ぬことにします。殺す快感知っちゃったんで、止まれないんですよねぇ」と脅した。
インジュが倒れれば、一家は血の呪いの脅威にさらされる。王妃・シェラも血の呪いを払えるが、そこまで強力ではないのだった。
困るノインに、リティルが苦笑交じりに言った。
「はは、もう、いいんじゃねーか?オレ達は、生き残るためには手段選んでられねーんだよ。兄貴の真面目さはわかってるけどな。インジュの事、助けてやってくれねーか?」
「お願いしますよぉ。ボク、3人になっちゃったんで、心細いんですよぉ!」
最後は泣き落としだった。風の補佐官を戦術指南しろと?とノインはかなり困惑していたのだが、折れざるを得ない空気で、半ば強引に承諾させられていた。
知れば知るほど、恐ろしい男だな。
だが、インジュのくれた居場所は、悪くない。ノインは、リティルの兄として風の城にいるが、客人感がぬけていなかった。将軍という肩書きをもらっていたが、具体的な仕事があるわけではなく、風の城での立ち位置は微妙だった。それをインジュは、救ったのだ。
インジュの指南役なら、堂々と中核に関われる。発言を遠慮しなくていい。インファやリティルに気を使われなくて済むのだ。
ノインは、風の城の中で落ち着ける場所を与えられたのだ。今は、彼の好意に甘えよう。
ノインは実は、ロミスの門に決着が付いたこのあと、風の城を去ろうかと思っていた。インジュがますます頼もしくなり、リティルは風四天王がいれば心配いらない。世界最強の力を持つノインは、盤石な風四天王にヒビを入れないために今まで以上に、息を潜めなくてはならなくなっていたからだ。
インジュが守ろうとしてくれた。もうしばらく、憂いのなくなった弟・リティルの傍にいよう。
「どうかしましたの?」
アジャラの戦闘を見ていたノインが、フッと微笑んだ。それをリャリスが少し心配そうに見やった。
「いや。インジュは、すべてを救わねば気が済まないのだなと、思っただけだ。そんなインジュを、助けてやりたいと思う」
「そうですわね。私も、支えたいと思っていますわ」
「やはり、おまえとの腐れ縁は切れそうにないな」
「いいじゃありませんこと。原初の風と風の王を守ることを、誓った仲ですもの」
憂いなく笑うリャリスに、ノインはフッと微笑み返した。
荒涼とした風の領域に、魔物の死がまき散らした風が吹き抜けた。
悠々と戻ってきたアジャラは、きちんとトドメは守護妖精に任せていた。
「殺してしまう」そう言っていたが、あの戦い以降、インジュもアジャラも1つの命も奪ってはいない。
「あー、楽しかったぁ!ねえねえ、見てたぁ?リャリスちゃん!」
ズイッと気安い間合いでリャリスの顔に顔を近づけたアジャラは、この上ないほど上機嫌だった。インジュと同じ顔なのに、彼のことは女性に見える。そこが危険だとリャリスは認識していた。
「ええ、鮮やかな連携ですわね」
リャリスは、柔らかく妖艶に微笑んだ。「でしょう?」と嬉しそうなアジャラの瞳が、スッと得物を狙う猛禽のような鋭さを持って、リャリスを見据えた。極上の得物を前にした、捕食者の笑みだった。リャリスは小首を傾げた。恐れない彼女を、アジャラは無防備ねぇと更に微笑みを深くした。
「リャリスちゃん、アタシとも婚姻結んでくれないかしらぁ?」
「………………え?」
え?婚姻?ですの?アジャラと、ということですのよね?アジャラは、女性にしか……たまに身の危険は感じますけれど、ええ?そういう?はっ!インジュ!インジュは許可していますの?エンドとは婚姻を解消したばかりですのに……ああ、どう答えればいいのですの!?
リャリスは瞠目して、固まっていた。
アジャラは見越していたようで、口角をニイッと引き上げてパッとリャリスから距離を取った。
「お返事はぁ、急がないわぁ!ジックリ、悩んでちょうだいねぇ?」
じゃあね!と踊るように華麗なターンを決めると、インジュに戻っていた。
「あ、終わりましたぁ?……どうしたんです?アジャラ、やりすぎちゃいましたぁ?」
インジュは今の会話を聞いていなかったようだ。リャリスは複雑な表情で、インジュを縋るように見ていたが、結局何も言わなかった。
どういうつもりだ?ノインは仮面の奥の瞳で、大混乱中のリャリスを盗み見ていた。
早朝、欠伸をしながら応接間への扉を開いたリティルは、ソファーにこちらに背を向けて座っているインジュを見つけた。
ソファーまで飛び、背後に舞い降りると同時に声をかける。
「おはよう、インジュ」
インジュは振り向いた。その顔を見たリティルは、彼の第一声を手で制した。
「待て!………………エンド……か?」
「ああ。よくわかったな、陛下」
エンドは野性味を帯びた切れ長の瞳に、笑みを浮かべた。
「ちょっとずつ、わかるようになってきたんだ。ノインみてーに、後ろ姿で誰かわかるようにはならねーとは思うけどな。なんであいつ、わかるんだろうな?」
リティルは婚姻の証を持つリャリスはわかるが、なぜノインが3人の見分けが付くのか不思議で仕方ないらしかった。
「兄者は、オレ達の微妙な霊力の違いを見てるんだよ」
人はそれを雰囲気とか気配という。
「あー、それ、大雑把なオレには一生無理だな」
「かまわねぇ。顔見てわかる陛下だってすげぇ。……なあ、陛下」
リティルはヒョイッとソファーを飛び越えると、エンドの隣にポスンッと座った。
「オレは、必要なのか?」
エンドは、リティルの瞳を真っ直ぐ見つめながら、そんな後ろ向きな言葉を口にした。
「インジュは主人格だ、アジャラの戦闘センスは、陛下に匹敵する。インジュを支える役にしても、本来の殺戮の衝動のアジャラがいれば、インジュの精神は安定する。オレには、もう何もねぇ」
インジュがこなしていたデスクワークも、エンドにはできない。インジュの代わりにリャリスを守っていたが、それもインジュが戻ってきた今必要ない。自由に人格交代できるようになったインジュは、魔物狩りにノインを引き連れて、アジャラを使い倒している。そしてエンドは、殆ど表には出ていなかった。
「そうか?オレ、おまえに会えるようになって楽しいけどな。なあ、エンド、これどう思う?」
リティルはハトを呼び寄せた。ハトは1枚の紙を咥えていた。受け取った紙をエンドに渡すと、エンドは眉根を潜めて、しばらく考え込んでいたが、羽根ペンを取ると、余白の部分に何事か書いていった。
しばらくすると、書き上がったそれをリティルに無言で手渡した。紙の上に、魔物の姿が立体的に立ち上がっていた。
「こいつは、ウニじゃねぇ。亀だ」
リティルが見せたのは、新種の魔物の絵姿だった。これを狩りに行かねばならないが、インファでさえ「これは、対峙してみるしかありませんね」と誰が行くか考えあぐねていた。
報告書に書かれている絵は、どう見てもウニで。しかし、出現場所が海ではなく、沼だった。水属性だということはわかるが、見た目通りではないだろうなーと思うに留まり、怪我覚悟で、インジュとインファが行くことに決まっていた。
「亀?じゃあ、頭とか足が生えるってことだよな?」
「ああ、多分な。生えるなら、こことここと――」
エンドは作り出した立体映像に手を加えて、足と頭を仮に付け足していった。
「逆さまか?マジか……」
リティルが唸る。顔を上げたリティルは水晶球に触れた。
「インファ、起きてるよな?応接間に来てくれよ」
『おはようございます。了解しました。すぐ行きます』
この背景はピアノホールか?とエンドはボンヤリ水晶球を眺めていた。
「エンド、インファどこにいるんだ?すぐこれると思うか?」
「はあ?すぐ来るんじゃねぇ?親父殿は、ピアノホールだ」
エンドは躊躇いなくそう口にした。「そうか」とリティルは信じたようだった。エンドは、なぜこんなことを聞かれるんだ?と首を傾げながら、リティルがハトから取り寄せた、亀形以外の魔物の姿絵に視線を落としていた。
インファが来るまでの短い時間、エンドは何気なく姿絵を立体にして、確かこう動いたよな?こいつ。と思いながら、立体映像を何気なく動かしていた。そんなエンドの様子を、リティルはジッと見守っていた。
「おはようございます。どうしました?」
城の奥へ続く扉からインファが姿を現し、すぐさま飛んでくる。
「インファ!あの暫定ウニ型、実は亀だったぜ?」
ほい、とリティルはエンドが立体映像にした絵姿を、インファに渡した。
「亀?………………ああ、なるほど……フフ、しかも逆さまとは……」
どう動くんですかねとインファは、思わず笑っていた。しかしすぐに笑みを収め、ジッとその立体映像い見入り始めた。ところでこれはなんだ?そんな顔だった。
「インファ、おまえ、今までどこにいたんだよ?」
「はい?ピアノホールですが、何か?」
「おまえ、水晶球で話してる相手がどこにいるのか、わかるか?」
「さすがにわかりません。わかると便利なんですけどね。周りの状況がわかれば、的確な指示が出せますから」
水晶球に映し出されるのは、通信相手の肩までが精々だ。後ろの様子など曲線に沈んで殆ど見えない。
「エンド、わかるらしいぜ?あとこれ、エンドが作ったんだよ」
リティルは、机の上の魔物の絵姿を指さした。インファは、亀に見入っていて、机の上には気がついていなかった。
「エンド君?……まさか、これを全部エンド君が作ったんですか?」
「ああ、動いてて、面白れーよな」
リティルは机の上の絵姿をつまみ上げると、インファの前でこれ見よがしに振った。
「……父さん、知っていて黙っていましたね?」
バッと奪い取ったインファは、絵姿をジッと穴が空くんじゃないか?と思うほど見つめてから、リティルの顔にゆっくりと視線を向けた。なんとも恨めしそうだ。
「ハハ。エンドなかなか出てきてくれねーからな。たまにこうやって遊んでたんだよ」
「それで、新種の魔物を知っているかのような戦い方をしていたんですか……」
唸るようにインファは呟いた。
「ハハ、バレたか。今回もこれ踏まえて、オレが行くつもりだったんだけどな。おまえと」
リティルはインファを見つめてニヤニヤ笑っていた。
魔物達も日々進化する。新種も生まれる。
新種と戦うことは、いつでも危険を伴う。しかし、データがなくとも戦うしかない。インファは、姿からだいたいの攻撃を想定し、四天王と魔物と相性のよさそうな者を選んで組ませているが、読みが当たるかどうかは賭けだった。時には大外れをかまし、派遣された者では対処できなくて、さらに派遣してもらう羽目になる。
そんな中、リティルが不可解な行動を取るようになっていた。
新種の魔物の行動に、まるで知っているかのように的確に対処するのだ。それは、いつもではない。リティルが、いきなり「オレが行く」と言い出すときに限ってそうなのだった。何かあるとは思っていたが、新種の魔物もそうそう産まれるものでもない。気のせいかとも思っていた。
それはいつからだ?3ヶ月くらい前だったか?とインファは記憶を遡る。それはインジュが、人格交代を自在にできるようになった時期と一致していた。
「エンド君、その力、オレの為に使いませんか?風の王より上手く使いますよ?あなたが、表に出たがらないことは知っています。人目を忍びたいならば、早朝、深夜、あなたに合わせますよ?オレを助けてくれませんか?」
「……はあ?」
インファがソファーに座るエンドの隣に膝を折った。低い位置からジッと見上げられて、エンドは何が起こったのかわからずに動揺していた。
「エンド君、他に条件があるなら、言ってください。最大限譲歩します」
「いや、待ってくれ、親父殿!こんな遊びでよけりゃ、いくらでもやるけどよ。なんでそんな前のめりなんだよ?」
「あなたは、この能力の価値がわかっていないんですか?父さん!笑っている場合ではありませんよ!インジュ!あなたも知っていて、黙っていたんですか?」
インファが怒りだして、エンドは慌ててとにかく立てよ!と促し、弁解した。なぜ、言い訳しているのかもよくわからない。
「待てって!インジュは寝てるぜ?あいつも知らねぇ。オレは、陛下とたまに遊んでただけだ。遊びなんだよ!」
インジュが起きていない状態で、寝ているリャリスの隣にいるわけにはいかず、エンドはすることなく早朝の応接間で時間を潰していた。それをリティルに見つかって、面白いからもっと見せろよ!と人懐っこい笑顔を浮かべるリティルに請われて、この時間に遊ぶようになっていたのだ。エンドにとっては、たったそれだけだった。
「ああ、立体人形作って遊ぶ、人形遊びだな。これの動き、本物も面白いように同じ動きしてくれたぜ?おまえ、どうしてわかったんだよ?」
「どうしてって……霊力の量、筋肉の付き方、形とか、全部組み合わせてったら、行動パターンくらい読めるぜ?」
「それな、オレもインファも、ノインもできないぜ?おまえだけの特殊能力なんだよ。おまえ、自分に価値がねーって言ったよな?価値ならあるぜ?オレ達にとって、都合がいい能力を、おまえは持ってるんだよ」
特殊能力だとは思っていなかったエンドは、言葉を失った。そんなエンドを、リティルは楽しそうに見つめていた。
「父さん、いつ気がついたんですか?」
「ん?ずっと前から知ってるぜ?だってなぁ、エンド、おまえ、インジュにずっと教えてただろ?こういう攻撃来るぞ!とか、こういう能力持ってるぞ!とかな。インジュが戦ってきたのは、魔物だけじゃねーからな。相手を殺さずに無力化して切り抜けさせてたのは、おまえの手腕だぜ?」
立体化できるとは思わなかったけどなと、リティルは笑った。微笑みを浮かべたままリティルはジッと、隣のエンドを見やった。
「いなくなるなよ?おまえがいねーと、インジュは死ぬぜ?」
「はい?いなくなる気だったんですか?エンド君!インジュを見限ったなら、オレの心に来なさい。オレはあなたがほしいですよ」
「ハハハハ!どうする?オレの副官、マジだぜ?おまえが落ち込んでると、魔法作って無理矢理引き抜いちゃうぜ?」
「ダーメーでーすぅ!」
呆けるような顔で固まっていたエンドの瞳が、キッとインファを睨んだ。どうやらインジュが起きたらしい。
「エンド君はあげませんよぉ!どうしてそんな話ししてるんですかぁ!ただでさえ、最近話しかけても答えてくれないのにぃ!」
インジュが立ち上がって、インファに強気に詰め寄った。
「嫌われたんですか?エンド君を蔑ろにするなら、オレがもらいますよ?エンド君、出てきてください。この亀型はどう動くと推測しているんですか?まだそれを聞いていません」
ガシッと両肩を掴んで、必死に問いかけるインファの気迫に、インジュはさすがに狼狽えた。
「ええ?ちょっと、お父さん!エンド君!ちょっ!エンド君?あ、あのぉ……」
「何ですか?エンド君を出しなさい!」
詰め寄るインファに、インジュはタジタジしながら、だが言わなければいけないことを言った。
「あ、あのですねぇ!エンド君が嫌だって!」
「!」
衝撃でインファはインジュから手を離し、蹌踉めいた。
あんなインファの顔、見たの初めてかもなーとリティルは、遠慮なく大笑いした。エンドは、インファを親父殿と呼ぶほど敬愛している。インファも、エンドを息子だと言い切っている。そんなエンドの拒絶に、インファは信じられないと言いたげだった。
「ハハハハ!インファ、フラれたなー」
「……わかりました。インジュ、実践で見せてもらいます。父さん、新種狩りに行ってきます」
諦めねーよな?リティルはニヤニヤしながら、事の成り行きを見守っていた。
「ええ?あ、ちょっと待!お、お父さん!」
息子の手首を掴むと、インファはズルズルと引きずるようにして城を出て行ってしまった。そんな息子達の姿を見送って、リティルは見守る者の瞳で微笑んでいた。
「エンド、インジュは知ってるぜ?おまえのそれ、使えるか見てくれって言ったの、インジュなんだからな」
インジュは知っていたのだ。エンドが存在理由を見失っていることを。
インジュは、早朝に起きるように仕向けるから、エンド君と遊んでほしいと依頼されたのだ。しかし、悟られないように不定期で、いつエンドが早朝いるかわからない。早起きするのが苦ではないリティルは、依頼を受けてからほぼ毎日早起きしていたのだった。リティルとしては、3人のうち誰がいてもやることはあるわけで、無駄ではない。
エンドの能力を目の当たりにしたものの、リティルも最初は半信半疑だった。そこで、エンドが推理した新種と、彼に言われた通りに戦ってみたのだ。結果は百発百中の精度で当たっていた。
使えると確信したときに、インファに話そうかと思ってはいたが、エンドはどこか自信を失っていた。インファが知れば、目の色を変えることをわかっていたが為に、もう少し様子を見ようと思っていた。
だが、今回のこれは、そのまま黙って行くにはリスクが大きすぎる。
なぜなら、形状から間違っていたのだから。ウニと亀では、その動きはまるで違うものになる。巻き込まれるのがインファだとしても、事前に話しておかねばインフに怪我を負わせかねなかった。
結局、事前には動きの推理を聞けなかったが、インファとインジュだ。上手くやるだろう。
「楽しかったんだけどな。オレの出番は終わったな」
エンドがどうするかはわからない。だが、インファはエンドが何か問題を抱えていることに気がついたろう。
インファは過保護な父親だ。エンドはたぶん、逃がしてもらえない。だが、無理強いはしないだろう。あいつは、優しいから。だとしても、エンドが追い詰められたら助けてやるか。と、リティルは、インファに任せて手を引くことを決めたが、まだまだ早起きはやめないでおこうと思った。
ふわあと、リティルは大きな欠伸をして、伸びをしたのだった。
インジュは、ドサッとベッドに突っ伏した。
「お疲れですのね?」
先にベッドにいて、本を読んでいたリャリスが、フフと微笑んだ。
普段は暗い色ワンピースだが、寝間着は淡い色を選び、肩にストールを掛けている。こんなリャリスを見られる特権は、夫であるインジュにのみ与えられている。顔を上げたインジュは、昼間とは違う雰囲気の妻に、和んだ笑みを向けた。そんなインジュも、寝間着に着替えている。
「新種狩りに行ってきたんです。そしたら、ウニみたいなトゲトゲの亀だったんです。甲羅でスピンして走り回るんですよぉ?想像できますぅ?」
「エンドがいますもの。何とかなりましたでしょう?」
リャリスの言うとおり、エンドがすべての攻撃を見切ってくれ、対処が遅れたモノ以外は切り抜けられた。命の危険に関しては皆無だ。
「はい。データ取るからしばらく遊べって、お父さんが鬼畜でしたけど!狩りは、アジャラが1人でやりましたよ」
そうですの。とリャリスは、腰に抱きついてきたインジュの頭を撫でた。
穏やかな時間だ。インジュは他の風の精霊と比べて、比較的に妻のそばにいるが、2人っきりというのは、他の夫婦にとっても、かけがえのない時間だと思う。だが、リャリスは自分達が普通の夫婦でないことを、インジュの手で思い出させられた。
「リャリス、アジャラのこと、どうするんです?」
ピキッと空気が凍り付いた。不自然に手の止まったリャリスを、インジュは見上げた。可哀想なくらいに、動揺していた。
「この部屋に入ると、2人とも遠慮するんですよねぇ。朝、ボクより先に目が覚めると、即部屋出ちゃうくらいなんですよねぇ。なので、今、ボクしか聞いてませんよぉ?」
本音、言っていいですよ?と促され、リャリスは小さくため息を付いた。
「あなたも含めて、どこまでのことを求めているのか、聞いてもよろしくって?」
体を起こし、リャリスの隣に座り直したインジュは、質問の意味がわからなくて小首を傾げたが、言葉を紡げないリャリスの様子に、しばし考えた。
「ああ、そういうことです?アジャラもエンド君も、リャリスを裸にしようとは思ってないですよぉ?」
裸にと言われて、リャリスは思わずストールを掻き合わせた。
「あのぉ、ボクはどこまでいいんです?」
我ながら意地悪だと思ったが、聞かずにはいられなかった。
キスして抱きしめはするが、リャリスの肌に触れたことはない。不能だが、両思いの夫婦ではある。欲望もある。リャリスがどこまで許す気があるのか、聞いてみたいと思っていたが、いきなり突きつけるわけにもいかず、今まで避けていた。リャリスは、うっと押し黙って、両手で胸を庇うようにストールを体の前できつく掴んだ。その仕草を見て、うーん、今のまま進まない方がよさそうだなとインジュは思った。
それでもインジュは、まったくかまわない。元々、蛇のイチジクに引き寄せられる有象無象から、リャリスを守るための婚姻で、リャリスも苦手なことはわかっているのだから。
話題を変えようかな?とインジュが思って口を開こうとすると、リャリスがキッと睨むような視線を向けてきた。
「あなたが望むなら、何もかも捧げますわ!」
……無闇に藪は突くモノじゃないな。インジュは猛省する羽目になった。
「ひいい!すみません!もう意地悪なこと言いません!肩の力抜いてくださいいい!ボク、捧げられても受け取れませんからぁ!」
「……そうですわね……どうかしていましたわ……」
あからさまにガッカリするリャリスに、え?期待してた?とインジュは、実りはないけど襲ってよかったんです!?とドキドキした。しかしすぐに、いやいや勢いで本気じゃないから!絶対!と、思い上がるな!と動悸を無理矢理抑え込んだ。
「あの、えっと……アジャラのあれは、たぶん、エンド君絡みですねぇ」
その名を聞いて、リャリスは寂しそうに瞳を伏せた。
無理もない。あれ以来、エンドはリャリスの前に出てきていないのだから。
リャリスだけではない。早朝に会っていたリティル以外、エンドとまともに顔を合わせた者は、一家の誰もいないだろう。今まであれだけ話しをしていたエンドは、インジュにさえあまり話しかけなくなってしまった。話しかければ答えてくれるが、会話が続かないのだ。アジャラはそれを、離婚したせいだと思っているようだった。
「肉食なアジャラが迫れば、エンド君が阻止しに出てくるんじゃないかって思ってるみたいです」
「実際、どうなのですの?」
「望みは薄いですねぇ。リャリスに何かあれば、ボクが黙ってないですし。ただ、婚姻状態ってそれだけで恩恵あるんですよねぇ。正面切って戦う事が多いアジャラも、今弱ってるエンド君も、あると守られますよぉ?ただ、やっぱり夫婦になるってことなんで……」
「触れることを許しますという、意思表示になるということですわね」
「はい。リャリスがいいなら、ボクは見て見ぬ振りしますけど?」
伺うような控えめなインジュの様子に、リャリスは小さく微笑んだ。
「あなたと他のお2人では、想いに温度差がありますわ。アジャラのことも好きですけれど、そういう想いではないのですの。エンドは……」
「言わなくていいですよぉ?」
リャリスは首を横に振った。
「エンドに許せるのは、唇までですわ。婚姻を結びましたけれど、あなたには敵わないのですのよ?」
「ボクは、離れてる間、いろいろ酷いこと考えてましたよぉ?誠実さなら、エンド君が1番だと思いますよぉ?」
「それでも私、あなたを諦められませんのよ?インジュ、ふさわしくないと思うことは、やめてくださいまし。不能の魔法を解いて、この体を差し出せばわかってくださいますかしら?」
「そんなに……なんです?」
予想外だった。両思いなことはわかっているが、リャリスが、快楽方面で嫌な目にしかあっていない彼女が、インジュが触れることを許しているなんて、思ってもみなかった。
「そんなに、お慕いしていますのよ?」
「いきなり襲いかかるような、猛禽ですよぉ?」
「問題がありまして?」
こちらを見ない、髪留めを外している為に、顔が流れ落ちた髪の影になって見えないインジュの頬に、リャリスはそっと指で触れた。
こちらをやっと向いてくれたインジュの唇に、リャリスは唇を重ねようとした。
「リャリス、ボク、嘘つきました」
触れそうだったリャリスの唇に、インジュは人差し指を当てて拒んでいた。
「リャリスの気持ち、2人に聞いてもらったんです」
え?とリャリスが距離を取ると、慌てた様子で布団を胸の前まで引き上げて縮こまった。寝間着は薄いとはいえ、肌が透けることはないが、リャリスは就寝時胸を覆う下着をつけない。ああ、ホントにボクだけなんですねぇ。インジュは3人とも好きだといいながら、しっかり線引きしているらしいリャリスの態度に、心が悦ぶのを感じた。
「け、けれど、私の気持ちを尊重してくださるなら、婚姻の証をお渡ししてもいいと思っていますのよ?アジャラもエンドも、私にとっても大切ですのよ?」
そう言った途端だった。
「大丈夫よぉリャリスちゃん!アタシぃ、可愛いあなたをたま~にハグできたら、それでいいのぉ!」
わーい!と聞こえてきそうな満面の笑みで「きょあ!」と身構えたリャリスにお構いなしに、アジャラが覆い被さった。
「安心してぇ?リャリスちゃんは恋愛対象ぉっていうよりぃ、愛でる対象なのぉ。これからもよろしくねぇ?リャリスちゃん!」
ぎゅうっと抱きしめて、頭に頬ずりするアジャラの仕草は、本当に甘くなくて、動物を可愛がるのに似ていた。
「え、ええ。アジャラ、これからもよろしくお願いしますわ」
それでも、アジャラを、女性に見える男性だと認識しているリャリスの心臓には悪かった。
やっと解放されて、上がった心拍数を落ち着かせながら、リャリスは気を取り直してアジャラの両耳にイヤリングを贈っていた。飾りは、ティアドロップ型の透明なガラスだ。就寝前の仄かな明かりを受けて、キラキラと内側から煌めいていた。
「あらぁ、お揃ーい。ありがと~!じゃあ、エンドに変わるわねぇ」
エンドと聞いて、リャリスは身構えてしまった。
インジュと共謀したとはいえ、エンドを騙したことは事実で、それで傷つけてしまったために避けられていると思っていたからだ。そんなリャリスの様子に、アジャラは苦笑した。こんなきつい見た目なのに、中身はホンット可愛いわねぇと、思ってしまった。
「大丈夫。エンドはぁ怒ってるわけでも、傷ついてるわけでもないのよぉ。誤解しないであげて」
アジャラはリャリスから距離を取ると「じゃあ、変わるわ」と断って、瞳を閉じた。
あれから、エンドとはどれくらい会っていないだろう。
五感が苦手だと言っていた彼は、滅多に出てこない。エンドの存在確認ができているのは、リティルと、たまたま会ったというラスだけだった。元気がないと聞いていたから、ずっと心配していた。だが、インジュには聞けなかった。それは、インジュの中からエンドに聞かれるということで、リャリスのせいで恋敵になってしまったインジュにも、エンドにも気まずい思いをさせたくなかった。
煌帝・インジュの、雰囲気が荒々しく変わった。
リャリスは、スッと表情を改めた。
「お久しぶりですわ。エンド」
エンドは、やはり視線をそらした。そして、無言を貫くつもりだと、リャリスにはわかった。ツキンッと胸が痛む。この胸の痛みは、1人だけを愛することこそ本物というこの世界の常識では、罪となるものだ。しかし、芽生えてしまったモノはどうしようもない。
私は確かにエンドのことを好きなのですのね。偽ることのできない心だった。
インジュが多重人格でなければ、双子を好きになってしまった状態。というのだろうか。どちらにしろ、褒められたものではない。
「お兄様があなたに避けられたと、凹んでいましてよ?おじ様はまだあなたを独り占めできると、喜んでいましたけれど」
噂になっていますわよ。リャリスはフフといつも通り妖艶に微笑んだ。
「あれは、遊びなんだよ」
エンドは視線をそらしたまま、困ったように頭をガシガシと掻いた。
「私のせいなのですの?」
「違う。言っただろう?オレは五感が苦手なんだよ。インジュと以外との会話も、今じゃ億劫だ。ああ、うるせぇなぁおまえとなんて、もっと話したくねぇ!」
どうやら、アジャラが「アタシはぁ!」とでも言ったのだろう。強い口調で、一刀両断するエンドの声に、リャリスの心は震えた。エンドの強い口調。優しい声色で喋るインジュとは違っていて、声がインジュと同じである為に、リャリスには新鮮で、この強さも好きだったことに気がついてしまった。
「インジュも聞いていますわよね?」
「ああ。蛇女、ハッキリ言うぜ?オレは、インジュとおまえを天秤にかけたら、迷いなくインジュを選ぶ。おまえが死ぬとしても、オレはインジュを守る。おまえのそばにいたのは、インジュの為だ。インジュが守りたいモノを、守りたかっただけだ。おまえを!好きだったからじゃねぇ!」
射殺すような瞳を、リャリスは受け止めた。
「……惑わせて悪かった」
そらされる瞳から、エンドがこれっきりだと言いたいことがわかった。
「私にとって、あなたはインジュの身代わりでしたわ。インジュの行動をなぞるあなたに、癒やされていましたのよ。私が見ていたのは、あなたではなく、インジュでしたわ」
『身代わりでいいと言ってくれたあなたを見ているうちに、インジュとは違う不器用さで守ろうとしてくれるあなたに惹かれてしまいましたわ。インジュを忘れられない私の心に寄り添って、自分を殺し続けるあなたに、絆されてしまいましたわ。虚像だから、あなたもインジュだと思って割り切ろうとしましたのよ?けれども、できませんでしたわ』
エンドを否定する言葉を吐く心の中、真逆な想いが渦巻いた。エンドは、言葉通りにしか受け取ってはくれないだろう。例え、インジュがリャリスの心を読んでしまったとしても。
「そうか。よかった。オレは消えねぇ。元に戻るだけだ。気にするなよ?」
『好きですわよ?エンド。インジュの次ぎに。浅ましいですわね』
野性味を帯びた瞳で笑ったエンドの笑みが消える。
丸い暖かな気配がその体を支配し、それはインジュが戻ったことを意味していた。
「我慢しなくていいですよぉ?もう、ボクだけです」
「インジュ……」
縋ってはいけないのに、堪えきれずに溢れ出した涙をどうすることもできずに、リャリスはインジュに抱きしめられた。
「はあ……2人とも頑固ですねぇ。ボクの前じゃ言いづらいのはわかりますけど、言ってよかったんですよぉ?隠したって、ボクもアジャラも知ってる事なんですからねぇ」
「言えるわけありませんでしょう!」
「グロウタースには、一夫多妻制なところだってありますよぉ?ボクは多重人格です。聞かない見ないことだって簡単にできます。隠されたことを、他の人格は知らないでいられます。今も、2人は寝てるようなものなんです。リャリスがエンド君と寝たって、ボクとアジャラは知らずにいられるんです。ボクが嫉妬するのがダメなんです?大丈夫ですよぉ。嫉妬したって、エンド君よりリャリスに好かれてる自信ありますからねぇ。それが逆転しないように、頑張るだけですよぉ?」
「インジュ……私、エンドのことが、好きですわ……!ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「あああもおおお!良いんですって!エンド君もアジャラも煌帝・インジュですから、かけてくださいよぉ!股!好きなままでいいんです。好きなまま、いてあげてくださいよぉ?リャリス、ブレスレットにもう少し霊力ください」
「?」
涙の止まらないまま、リャリスは顔を上げた。
嫉妬心は確かにある。だが、半身のためにこれだけ泣いてくれることが、インジュには嫉妬心を上回って嬉しかった。インジュにとっても、エンドは、特別な存在なのだから。諦めてほしくなかった。大切な2人に。
体を離したインジュはブレスレットを外して、裏側、肌に触れる方を上にして膝の上に置いた。
「エンド君には、暗い色のガラス使ってましたよねぇ?それ、裏側にください。それで、エンド君が表に出てるときは、色が入れ替わるようにしちゃうんです」
「けれども……」
「頑固なエンド君に嫌がらせです。いつ気がつくか、楽しみですねぇ。大丈夫ですって。ボクのイタズラだって、エンド君ちゃんとわかりますからぁ。だから、リャリス、好きなままでいいんですよぉ?」
開き直ってくださいよぉ。そう言って笑うインジュが、エンドとリャリスの心を守ろうとしてくれていることを、リャリスは受け取っていた。
「妖艶に弄ぶ魔女なんですから、ボク達のこと侍らせておけばいいんですよぉ?」
もう、頷くしかなかった。インジュの手がリャリスの手を導き、ブレスレットの裏側にガラスが足された。
インジュはそれを右手首に戻した。そして、涙を拭いているリャリスを見た。
「ボクがどこまでリャリスを求めてるのか、知りたいって言いましたよねぇ?」
え?とリャリスが瞳を瞬いた。そして、恐る恐る伺ってくる。自分で聞いておいて、今更緊張します?可愛い!とインジュは笑うことを止められなかった。
インジュはリャリスの隣に片手をつくと、その耳元に囁いた。
「――――」
「え?」とリャリスは瞳を丸くした。
「許してくれますぅ?」
口元に微笑みを浮かべたまま問えば、リャリスの頬に朱がさした。
「もちろんですわ」
フフと瞳を細めて笑ったインジュのその、男性にしか見えないその表情を知っているのは、私だけだとリャリスは感じている。
リャリスは抱きしめられ、インジュに唇を奪われながら、柔らかなベッドに沈んだ。たとえ、インジュがこの身に証を刻むことができないのだとしても、愛し合うことはできる。
リャリスは、ゆっくりと瞳を閉じると、インジュにその身を任せた。
心の中は嵐だとしても、この世界の天気が連動することはない。
煌帝・インジュは、ガラス窓のそばに立って右手首のブレスレットに視線を落としていた。時間は早朝。朝日のまだ届かない部屋の中は、まだ暗いが、晴れ渡った空は夜を押しやり、青く変わっていっていた。
「おはようございます。……どうしました?エンド君」
エンドは、結局インファに口説き落とされて、人形遊びを遊びではなく使う羽目になっていた。早朝、誰もない時間に、エンドはインファとたまに会うことを決めたのだった。
「いや、何でもねぇ」
一気に隣まで飛んできたインファに、動揺を隠しきれないままエンドは顔を上げていた。
「なるほど。インジュの仕業ですか?」
インファは、エンドの手元を見て、すぐに察したようだった。
「重荷なら、きちんとインジュに伝えた方がいいですよ?」
「……蛇女の霊力を感じるんだ。インジュが丸め込んだんだろうが、これをやったのは蛇女だ」
鮮やかな色ガラスだったはずのブレスレットのガラスの色が、シックに変わっていた。それは、左手首に数ヶ月前まであったブレスレットのガラスの色と同じだった。
「余計な事しやがって……。諦められねぇじゃねぇか」
「諦めなくていいという、インジュのメッセージですね」
「いや、あり得ねぇ」
「そうですか?あなた方の中で納得しているのならば、問題ないと思いますよ?あなた方は、3人で1つですから。それに、1人を愛さなければならないという理もありません。精霊の婚姻は霊力の交換の為に結ばれるモノですから、必要な力の為に、婚姻を結び直しながらという者もいますよ?」
この城にはいねぇじゃねぇか!というツッコミは、この雷帝には通用しない。
自分は妃にすべてを捧げているくせに、精霊の恋愛には否定的なのだ。人は人、自分は自分。相手を傷つけたり猟奇的でなければ、眉1つ動かさずに、何でもアリだと言ってのける。たぶん、一家の誰かが他重婚しても、心から祝福するだろう。こんな常識外れなインファに、恋愛相談はしてはいけない。エンドは身をもって知っている。まして、丸め込まれるなんてもっての外だ。
「いや、インジュはそれの為に、蛇女と婚姻結んでるわけじゃねぇだろう?」
「智の精霊の虫除けですね。では、尚更問題ないのではないんですか?アジャラはリャリスにもらったと、そのイヤリングを見せびらかしていましたよ?そして、インジュ以上にベタベタ可愛がっていますね。あなたは、どう愛すんですか?」
「ど、どうって……」
「愛情を返さないんですか?インジュはどうやら、越えられる一線は越えたようですね。アジャラは、とにかく甘やかしていますね。あなたが見せられる誠意は何ですか?」
「誠意……?」
「リャリスの想いに答える行動です。リャリスは婚姻魔法を使って、あなた方に霊力を与えてくれますよね?ああ、そういえば、あなたは3人の中で唯一、リャリスに婚姻魔法が使えるはずですね」
思い出したように、エンドは固まった。そんなエンドに苦笑し、インファは続けた。
「エンド君、自発的に行動できないというのなら、すべてを救いたいインジュの為に求めるのだと、思えばいいんですよ。それでインジュと衝突するとしても、いいではありませんか」
インジュと衝突?あり得ねぇ。あり得ないと思って、エンドははたと気がついた。
「はは、馬鹿にしやがって」
「そうですね。インジュはあなたが、裏切らないことを知っていますからね。ということです。あなた方3人で、愛してあげてください。あなた方は3人で――」
「オレ達は3人で、煌帝・インジュだからな。ハハ、スッキリした。親父殿、やるか?人形遊び」
「ええ、お願いします。はあ、あなたが出張してくれれば、オレ一人で何とかなるんですけどね」
「インジュを前線に出せばいいだろう?あいつ、アジャラに頼りっぱなしで、怠けてるんだぜ?」
「指南役のノインも、甘やかしていますからね」
2人は苦笑し合いながら、ソファーへと足を向けたのだった。
彼女の心も、嵐なのだろうか。
だとしたら、悪いことをしたと、心から思う。インジュが固執しなかったら、何とも思わなかっただろう。
オレはインジュだ。インジュはオレだ。だが、違う人格。
エンドがリャリスを好きになってしまうのは、抗いようのないことだった。
『やっと、戻ってきてくれましたねぇ。長いんですよぉ!旅行』
インジュは、リャリスの採取に付き合って、大地の領域に来ていた。春の森。梅、桃、桜を筆頭に、レンギョウや菜の花、春という季節に咲く花々が咲いていた。
『悪かった』
リャリスは採取に熱中していて、背後のインジュが、エンドと心の中で会話していることに気がついていない。リャリスは、インジュだけ2人と会話できて狡いと言って、半径1メートル以内に煌帝・インジュがいる場合、会話が聞こえるように婚姻の証に仕込んだのだった。インジュは今、その境界のギリギリでリャリスの後を追っていた。
『で、どうするんです?2回も振ってるんですよぉ?あの後宥めるの、結構大変だったんですよぉ?』
『美味しく頂いたくせして、よく言うぜ』
『味見しかできませんよぉ!羨ましいですかぁ?』
『ハハ、羨ましくねぇよ。けど、いいんだな?婚姻魔法のこと』
『いいですよぉ?むしろ、エンド君がアッサリ引いちゃうんで困りましたよぉ。リャリスを守るためには、煌帝・インジュの霊力、あった方がいいですからねぇ』
智の精霊は、魅惑の果実だ。甘美な知識を求めて、有象無象が寄ってくる。
自衛できる精霊だが、インジュ的には気が気ではない。リティルも同じようで、インジュが仕事でリャリスのお守りができないときは、城を閉じてでもリャリスに付き合っているくらいの過保護っぷりだった。
リャリスは、それなら自重しますわと言うのだが、リティル的にはノンビリ散歩しているような時間で、これはこれで楽しいらしい。最近では、リティルの気晴らしにシェラやナシャも加わって、賑やかに散歩しているらしい。
「インジュ、手を貸してくださいまし」
リャリスがインジュを呼んだ。
見れば、リャリスが木の下で立ち止まっていた。
『イチゴって、蔓だったか?』
桜の幹に、蔓が這い上り、枝から垂れたそこに、赤いイチゴが鈴生りに実っていた。
「ああ、あれ、鈴鳴りイチゴです。振ると鈴の音がするんですよぉ?実が潰れやすいんで、実に触れないようにして収穫するんです。やります?」
『ああ。ついでに話す』
「お願いしますよぉ?ついでに、婚姻魔法もお願いします」
「わかった」
アッサリ人格交代したインジュは、心の中から消えた。拗れても手伝わない。そういう意思表示だなと、エンドは思った。
リャリスは、インジュが来てくれるまでどのイチゴを収穫しようか吟味していたようで、こちらに背を向けていた。
「あの1番左のイチゴを取ってくださる?エンド」
リャリスは、振り返らずに名を呼んだ。
乱暴なエンドは、繊細な採取には向かない。たぶん、このイチゴも台無しにする自信があった。最初は距離を取られて、険悪ですらあったのだが、徐々にリャリスは近寄ってきた。そして、インジュと違って繊細さに欠けるエンドを認めてくれた。
「好きだ」と言ったその心まで、受け取ってくれるとは思わなかった。
「泣くなよ」
エンドはそっと、後ろからリャリスを抱きすくめた。
「泣いていませんわ!」
「しょうがねぇ魔女だな。インジュがいるじゃねぇか」
「あなたもインジュですわよ!」
「ハハ、ワイルドなインジュか?いいぜ?おまえがそう言うなら、そういう風に愛してやるよ。インジュの次ぎにな」
エンドはそう言うと、クルリとリャリスをこちらに向けた。
「好きだ。だから、オレから霊力を受け取ってくれ」
「っ!はい……!」
こんな喜んでいいのかよ?インジュ、あいつも大概だな。とエンドは思ってしまった。だがもう、観念するしかない。婚姻魔法はエンドにしか使えず、書き換える力があるだろう主人格のインジュは、エンドとリャリスの恋愛を推奨してしまっている。ならば、エンドはエンドの拙い愛で、リャリスを愛するしかない。煌帝・インジュという狭い世界の中で、主人格のインジュは神なのだから、逆らうことは許されない。
エンドの伸ばした手を、リャリスは拒まなかった。すんなり抱き寄せられて、エンドの鋭い瞳が細められる。リャリスは、自然と瞳を閉じた。
「――嫌そうじゃなくなったな」
触れるだけの口づけが終わると、エンドは遠慮なく言った。
「台無しですわね。私も慣れるのですのよ!エンド、持ち上げてくださいまし。あなたにお任せしたら、せっかくの鈴鳴りイチゴがジュースになってしまいますわ」
「ハハ!違いねぇ。もう、おまえを避けたりしねぇ。だから、インジュに代わるぜ」
リャリスが止めるよりも早く、エンドはインジュと交代していた。しかも、まだリャリスは腕の中だ。インジュが見ていなかったとしても、いい雰囲気だったことは誤魔化しようがなかった。
「あー……すみません。何も聞かないんで、エンド君のこと許してくれます?」
苦笑しつつ、誤魔化すように苦笑するインジュに、リャリスの罪悪感は急激に増していく。
「イ、インジュ……わ、私……」
エンドのプロポーズを心から喜んだあげく、キスして霊力まで!リャリスの顔色が、見る間に蒼白になっていく。
「わああああ!いいですいいです!キスも、それ以上でも、相手がエンド君ならいいですから!」
「そ、それ以上……?無理ですわ!インジュと以外、無理ですわ!エンドとアジャラに迫られたら、私、殺す気で抵抗しますわよ!?」
蒼白から一気に真っ赤になって、リャリスの口から過激な殺し文句が飛び出していた。
「わかりましたわかりました!血を見る前にボクが止めますから!これ以上可愛いこと言わないでくださいよぉ!ああああもおおおおお!可愛いっ!」
羞恥心と罪悪感で混乱するリャリスをインジュが抱きしめると、心の中でアジャラが笑った。
『ンフフフフ。よかったわねぇ。アタシぃ、襲ったりしないから安心してねぇ?』
リャリスの心を乱す元凶となったエンドは、他人事のように言い放つ。
『オレもしねぇ。これ以上五感が刺激されることすると、人格が壊れるかもしれねぇしな』
「はあ、あのぉ、こんなボク達ですけど、捨てないでくださいねぇ?」
「捨てませんわ。今後、私の愛を疑う発言をした方には、ナシャと共同開発した薬の実験台になってもらいますわ」
「ひい!それ、洒落になりませんよぉ!」
青ざめるインジュに、アジャラとエンドの笑いが重なる。
森を吹き抜ける風に、鈴鳴りイチゴの奏でる鈴の音が溶けていた。
これにて、ワイウイ15閉幕です
楽しんでいただけたなら幸いです