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三章 アジャラの進軍

『このバカ!』

エンドに怒鳴られるのは毎度のことだが、インジュはじーんっと胸が詰まって答えられなかった。

『キレるにしても、あいつを呼ぶことねぇだろ!てめぇが行けよ!てめぇが!おい、聞いてるのかよ!インジュ!』

『ええ?あははは。エンド君の怒声、久しぶりでちょっと浸ってました』

『おまえ……男に怒られて喜ぶとか、そこまで変態加速してたのか……蛇女に本気で愛想尽かされるぜ?』

『エンド君まで落としちゃうなんて、ビックリしましたよぉ』

あっけらかんと笑うインジュに、目の前にいるエンドは押し黙った。しかし、低く口を開く。

『……おまえ、怒ってねぇのか?』

『どうして怒るんです?ボクは、エンド君と2人で1人ですからねぇ。ただ、エンド君は殆ど出られませんけど、それでいいんです?』

『今まで通りでいいに決まってるだろ!もうなあ、いちいちおまえならどう体動かしてたかって考えながらってのは、疲れるんだよ!そのせいで、親父殿を吸い尽くしちまうし、おまえがいない間、散々だったんだからな!もう2度と、いなくなるなよな!』

『ホントにホントですかぁ?遠慮してません?何なら、1日おきに体使います?』

『いらねぇよ!バーカ!それよりあいつだよ。アジャラ』

『あの人知らないんですけど、誰なんです?もの凄い勢いで殺しまくってますけど、あれ、旧時代の粒子製じゃなかったら、殺さずの戒めのせいでかなり痛い目みてますよぉ?』

『ああ。おまえに負担がかからねぇから、嬉々として殺ってるな。まあ、おまえに負担がかかっても、あいつは殺すけどな』

『いいですねぇ。気分爽快で』

危機感のないインジュに、エンドはハアとため息を付いた。

『いいか?あいつはオレと違って、独立した人格だぜ?満足するまで、おまえに体返さねぇ。陛下にだって何するかわからねぇ。危ねぇヤツだぜ?』

『ああ、大丈夫ですよぉ。そういうときは、主人格の本領発揮するんで、問題ないです』

『……ホントに大丈夫かよ?……』

エンドは呆れたが、エンドでは手も足も出ない。

だが、あれは、優しい存在ではない。アジャラが出てきたのは、ヤツが、エンドとインジュの僅かな溝を感じ取ったからだ。アジャラは、エンドが言えなかったリャリスとのことを切っ掛けに出てきたのだ。インジュが体の主導権を主張しても、エンドとリャリスの不貞を持ち出してインジュの精神を揺さぶり、主導権を返さないかもしれないと、エンドは危機感を持っていた。

『エンド君、気になってることあるんですけど』

『なんだよ?』

リャリスとのことを根掘り葉掘り聞かれるのか?とエンドは身構えた。インジュに聞かれれば、洗いざらい話そうと思っているが、そんなことをして、いいのか?とも思っている。インジュが心穏やかでいられないなら、いっそ。とも思っている。

『どうしてあの人、あんな言葉遣いなんです?ボク、あそこまで壊れてないつもりなんですけど』

エンドはガクッと頭と垂れた。すると、インジュは「大丈夫です?」と心配そうに伺ってきた。

『おまえ、そんなどうでもいいことより、蛇女とのこと気にならねぇのかよ!』

『気になりますけど、どうせキスしかしてないですよねぇ?ボクより真面目なエンド君が、ボクを差し置いて触っちゃうなんて、絶対あり得ないですから!なのでエンド君!堂々としててくださいよぉ』

『おま――』

『それより、3年なんて長い間、体預けちゃってすみませんでした。リャリスにはホントに、感謝しなくちゃですよねぇ……大事なエンド君を、ボクは、失っちゃうところでしたよぉ!』

『うわっ!バカ!抱きつくな!』

『いいじゃないですかぁ。エンド君とこうやって会えるのって、ないんですからぁ!』

エンドはしばらくジタバタ藻掻いていたが、大人しくなった。胡坐を掻いて座り込む彼の首に、後ろから抱きついたインジュは囁いた。

『ボクを見捨てないでくれて、ありがとうございます』

エンドは男らしい仕草で、インジュと同じ手で、抱きしめている腕を叩いた。

『おまえってホント、バカだな。ただ、ホント五感ってヤツは懲り懲りだぜ』

そう言ってエンドは笑った。


 ジュールはインジュを、面白いヤツだと思っている。

見ていて飽きない。インジュの精神を心配したエンドの頼みで、一時的に自分の元へ連れてきたが、面白すぎて、本当に自分のモノにしたいくらいだ。

フフと思い出して笑っていると、彼に咎められた。

『笑っている場合なのか?インジュは暴走中で、智の精霊は捕まっているのだろう?』

「ああ、失敬。暴走しているとはいえ、インジュに任せておけばよいとは思うのだがな。おまえ、それじゃあ収まらないのではないか?」

ジュールの目の前には、ロミスの門が開き、影のような姿のオリュミスがいる。

『しかし、ボクは出られない』

「それを、覆してやろうというのだ。体を得たら、リャリスを救い出してもらう」

『インジュを信じるのではないのか?』

「暴走中の男をどう信用しろと?どうする?わたしの悪巧みに乗るか?」

さっきは任せておけばいいと言ったのに?オリュミスは目の前の、異様に色気のある甘い瞳で笑う男を、警戒気味に見やった。だが、対話を重ねたところで、本心など見えはしないなと早々に諦めた。

 彼も気になるが、オリュミスの視線は自然と、ジュールの背後に向いてしまった。ジュールの後ろには、今し方作ったばかりの物体が置いてある。

『わかった。ボクとてインジュの役に立てるのならば、そんないい話はない。貴殿の申し出に乗ろう』

「そうこなくてはな。では、この体に入れ」

オリュミスは言われるがまま、ジュールの後ろにある物体に同化する。

「どうだ?」

『自分とあまりに体格差があるモノを操るのは、違和感しかないが、無様な姿を晒すつもりはない』

ジュールの目の前で起きあがってきたのは、上半身は2本の角がある闇色の肌の少年だが、下半身はトカゲ型のドラゴンという怪物だった。

オリュミスが、下半身の背中にある、コウモリのような皮膜のある翼を羽ばたかせると、4本爪の手足が地を離れて浮かび上がった。長い尾も問題なく動くようだ。

上半身の人と同じ腕も、問題なさそうだった。

オリュミスは、瞳だけ白い真っ黒な目で、ジュールを見た。

「敵の牙城は、ロミス城だそうだ。内部構造は、おまえのほうが詳しかろう?」

『そうか。ならば、智の精霊の居場所も知れる』

オリュミスは、暗い森の枝葉に遮られた空に向かい、翼をはためかせた。

「インジュによろしく」

『賜った。花の王、かたじけない』

そうして、オリュミスは体を手に入れ、ロミス城を目指したのだった。


 ロミス城に近づくことは容易かった。というのは、自分と同じ姿形ではないが、化け物どもがウジャウジャいて、紛れて……とは思っていたが、こんなにすんなりたどり着いてしまうとは思わなかった。

城の反対側では、侵入者があり、それがもの凄く強くて、化け物どもが駆り出されているのも幸運だった。その侵入者とは、インジュの事だろうと、オリュミスは確信していた。

フワリと、舞い降り、オリュミスはその先を伺った。

「――強情な。フフフフ、しかし……いい眺めよ」

ゾワッとした。この声は祖父だ。しばらく伺っていると、気配がこちらにくるのを感じ、このあたりをウロウロしている化け物のフリをした。

部屋を出て行った祖父は、反魂の儀式で見たそのままで、衰えた様子も肉が戻った様子もなかった。

祖父が行ってしまうのを待って、オリュミスは部屋に侵入した。

祖父は、出て行き際「忌々しい」と呟いていたが、何のことだろう。

 部屋の中には、見慣れた装置があった。

机に置かれた注射器を見て、ヒヤッとしたが、使われた形跡はなかった。見れば、2点に置かれた、ブリリアントカットされた宝石がはまった円柱から照射される魔方陣の中に、リャリスが倒れていた。

どうして彼女は、祖父に触れられなかったのだろうか。どうやら、過去の幻覚を見せられているようだが、それは祖父の性格を思うと生ぬるすぎる。

オリュミスは宝石を叩き割り、倒れているリャリスに近づいた。

屈んで顔を近づけると、苦しそうに眉根を潜めていたうつ伏せのリャリスの瞳が、パッと開いた。オリュミスは咄嗟に飛び退くと、彼がいた場所に白い光で魔方陣が描かれた所だった。

『待て!ボクは助けに――』

「化け物の戯れ言を信じるほど、私おめでたくはないのですのよ?」

蹂躙されているフリをしていたのか?オリュミスは体を起こし、片方の膝を立てて座ったリャリスの、まったく翳りのない瞳を見つめていた。

これなら、ボクの助けはいらない。

ジュールが智の精霊の救出を急がせたのは、拷問で乱れた彼女の姿をインジュに見せないためだと思っていたが、思惑は別にあったのだろうか?いや、いかにジュールとて、彼女の状態まで正しく把握してはいなかっただろうと思い直す。

オリュミスは、襲いかかってくる魔方陣から産まれる槍を避けながら、顔を上げた。

『城の西側へ行くんだ。インジュが暴れている』

「戯れ言を言わないでくださいまし」

今、信じる必要はない。城の西側で戦闘が起こっていることは、この部屋を出れば、おのずと知ることになる。ここで、この体が壊されても、インジュは彼女を救い出すだろう。

 オリュミスは、展開された魔方陣に囲まれていたが、抵抗を止めた。リャリスは、目の前の化け物を仕留めなければ部屋を出られない。ここでマゴマゴしていては、いつまた祖父が戻ってきてしまうかもしれないのだ。

『――なぜ、攻撃を止めた?』

覚悟を決めたオリュミスは、周りにあった魔方陣が突如消失するのを見た。

「それは、こちらの台詞でしてよ?なぜ、死のうとなさるの?」

『ボクを仕留めなければ、あなたは部屋から出られないと思ったのだ』

「あなたは誰ですの?」

『ただの化け物だ。ただ、オリュミスという名がある。さあ、ここを出ろ。いつまた、あの暴君が戻ってくるかしれない』

リャリスは警戒を完全には解いていなかったが、オリュミスの言葉に頷いてくれた。しかし、歩き出そうとしたリャリスは、足をもつれさせて転んだ。すぐに立ち上がろうとするが、足に力が入らない様子だった。

『拷問の影響か?他には?』

「拷問?何のことですの?疲れているだけですわ。……ここに結界を張って、籠城することにしますわ。インジュが来てくれているのなら、その間の時間稼ぎくらい、できますもの」

気丈で頭のいい人だ。オリュミスは頷いたが、四肢を下り、身を低くした。

『乗れ。インジュのもとへ連れて行く』

早く会わせてやりたいと思った。早く、インジュと仲直りしてほしいと思った。現在インジュは暴走中らしいが、その原因はリャリスが拷問されていると聞いたかららしい。彼女も、インジュが来てくれると信じている。2人はやり直せると、オリュミスは確信していた。

「なぜそこまでなさるの?」

『インジュとは少し、関わりがあるだけだ』

リャリスは少し考える素振りを見せたが、乗ってくれた。

 オリュミスは、リャリスに手を貸し背に乗せると、翼をはためかせ舞い上がると部屋を飛びだした。

 この部屋は3階の奥まった場所にある。インジュは4階から侵入しているらしい。ともかく、上を目指さなければならない。

リャリスを連れているためか、先ほどまでは見向きもされなかった化け物どもが、オリュミスに襲いかかってくるようになっていた。

『よくもこれだけ用意したものだな』

ここにいる化け物の中になる旧時代の粒子は微々たるモノだが、これだけの数だ。そのすべてを殲滅したら、この世界に、多少なりとも影響が出るだろう。今は門番のオリュミスが不在の状態だ。ジュールが風の王に粒子を導かせると言っていたが、風の王にとっては猛毒にも等しい。

彼女をインジュに引き渡して、早く戻らなければと化け物を屠りながら考えていた。背後から覆い被さるような気配に、慌てて首を巡らせると、リャリスの魔方陣が白い槍を突き出して化け物を元の粒子に返していた。

「オリュミス!冷静におなりになって。隙は私が埋めますけれど、限度がありましてよ?」

元の体よりも大柄となってしまったこともあり、オリュミスは魔法中心の攻撃を余儀なくされていた。これでも生前は黄昏の大剣仕込みで、剣の腕はそこそこあったのだ。

『あなたは冷静だな』

「ことを急いては、し損じますわ。聞いてもよろしくって?あなたは、どこでインジュと知り合いましたの?」

チラリとオリュミスは、黒白が真逆の瞳でリャリスを1度だけ振り返り、再び前へ視線を向けた。

『門だ。ロミスの門で会った』

オリュミスの右手が閃いて、指の間に現れた小さな銀色の刃が放たれていた。正面から襲いかかってきた女性の顔を持つ黒い鳥が、旧時代の粒子となって霧散する。

「……私に、後ろから殺されるとは思いませんでしたの?」

聡い人だ。これだけの情報で、彼女はオリュミスが何者か見抜いた。

『やりたければやるがいい。あなたには、その権利がある』

「あなたがここへ来たのは、その為だと言うのですの?」

侮蔑が込められているが、彼女に殺害の意思はないらしい。しかし、蛇のようにねちっこく探られている視線を後頭部に感じた。

『いや。インジュに会わせてやる代わりに、あなたを助けろと、ジュールから依頼されたのだ』

「お父様が!?」

お父様、だと?

『!そうか、事態はボクが思っている以上に深刻らしい』

オリュミスは右から突進してきた頭だけが牛の大男を、それからすれば華奢な右腕で殴りつけると、頭上を越える瞬間後ろ足のかぎ爪でその頭を砕いた。

「何が起こっていますの?」

『説明は受けていないが、この高笑いと関係あるかもしれない』

高笑い?とリャリスは耳を澄ませた。窓のない長方形の味気ない廊下を、化け物達の咆哮に混じって、かすかに人の笑い声のようなモノが聞こえるような気がする。

『インジュは二重人格だと言っていた。暴走とは、それに乗っ取られているということか?』

「あり得ませんわ!エンドはそんなことをしなくってよ!インジュ……本当にインジュなのですの?」

リャリスが初めて声を荒げた。『エンド』という名を、オリュミスは何度も聞いた。インジュがその名を呼ぶとき、とても信頼しているような声をしていた。彼ではないのなら、インジュが?だが、とオリュミスは思った。

リャリスに祖父が淫らに触れようとしたその直後、恐ろしいほどに変貌したインジュを目の当たりにしている。

『役者か……。煌帝・インジュは隠すことが好きらしい』

花の王・ジュール。オリュミスでは太刀打ちできそうにない、底知れなさを感じた。だから、オリュミスは素直に従ったのだ。しかし、ジュールがリャリスの父親だとは思わなかった。リャリスが口に出すのもおぞましいやり方で拷問されていると知って、怒りに暴走しているらしいインジュと同等かそれ以上に、彼の心は怒り狂っていたことだろう。

 助け出せてよかったが、しかし、何の障害もなかったことが今更気になった。

「オリュミス!」

漂っていた粒子が、意志を持ってある場所に集まっていく。巨大な牛頭・ミノタウロスの影。オリュミスは空を蹴ると、そのまだ不確かな形しかない化け物の脇をすり抜けた。

『逃げ切る。しっかり掴まっていろ!』

リャリスが、躊躇いがちに、しかし仕方なくオリュミスの上半身と下半身の継ぎ目あたり、人型なら腰のあたりに腕を回してきた。

「ブオオオオオオオ!」

今、粒子を収納する門は機能不全だ。この城に漂う粒子は彷徨い、結合し、新たな生を得ようと蠢いている。

大暴れしているというインジュは、無事だろうか。オリュミスはそんなことが過って、背後の大物を引き連れて上を目指して飛ぶ。あと少しで、上階への階段だ。

直角の廊下の窓を曲、左手に見えた階段へ急いだが、ミノタウロスはそれを許さなかった。

背後から風を切って飛んできた巨大な斧が、2人を追い越して階段を破壊していた。

『……』

威嚇するように上げられる咆哮。ゆっくり振り返ったオリュミスは、煩わしそうに苛立った瞳を向けた。


 インジュは楽しそうに鼻歌を歌いながら、広い廊下をスキップしながら徘徊していた。

インジュ――いや怒りに心を塗りつぶされ、諫めるエンドの声さえ吹き消そうとしたインジュに代わり、体を乗っ取ったアジャラは、最高に気分がよかった。

襲いかかってくる異形の者を、片手1本でまるで顔にたかってきた、小さな虫を払うかのようになぎ倒していた。

「ンフフフフ。あぁら、この世界の要素でできてる肉体だから、血も赤いのねぇ。オーホホホホホ!鬼さんこちらぁ!」

群がってきた異形を「おらぁ!」と先ほどとはうって変わって、野太い声を発して力任せに腕を振り、アジャラは一撃で数体を仕留める。

「あは、あは、あは。ううん……足りないわぁ……もっと、もっと、いらっしゃーい……?」

仄暗い光の揺らめく、白に青と緑を溶かしたかのような宝石のような瞳を歪め、低く足を張ったアジャラは両腕を鋭く振るった。鋭く吹き荒れた嵐のような強風に、長い廊下の曲がり角まで1人残らず化け物達が巻き込まれる。

黒い粒子の立ち上る、生きている者のいなくなった廊下を、アジャラは踊るような軽やかな足取りで、階下を目指して進んでいくのだった。

 アジャラはふと足を止めた。そして、角を曲がる寸前で振り返る。

「ふーん?死ねないって、お互い不便ねぇ。でもぉ、アタシ、もう飽きちゃったのよ、ねぇ?」

アジャラは蘇ってくる化け物達を見つめ、前方からも迫ってくる化け物達を無視して、ニイッと両の口角を引き揚げた。

押しつぶそうと押しかかってくる大量の化け物達に、しばしアジャラの姿が消える。

――――――

どこからともなく聞こえてくる歌声。

アジャラを押しつぶした化け物達が膨れ上がるようにして、弾き飛ばされていた。

──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない

──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに

──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに――……

女性の様に繊細で、男性のように力強い歌声だった。

歌うアジャラを守るように、半透明な2人が宙に浮かんでいた。

1人は、大剣を携えた細いが体のガッシリした青年。彼の背にはオオタカと思われる翼が生えていた。

もう1人は、ミニスカートから惜しげもなく太ももを晒した、髪の長い女性。その背にはモルフォチョウと思われる羽根が生えていた。

呼び出された2人は、フワッと歌うアジャラの周りを移動すると、襲いかかってくる化け物達を、顔色1つ変えずに屠った。

「フウ。じゃ、行きましょっかぁ?インティちゃん、シェレラちゃん?」

2人は答えず、アジャラの言葉に従った。

 アジャラはインティとシェレラに戦闘を任せて、自分は悠々と廊下をスキップしていた。

『――おい』

心の中で、苛立つような声がしたが、アジャラはンフフと笑うと、それを無視した。

『おい!聞こえてるんだろ?アジャラ!』

「なぁにぃ?今、とおってもいいところよぉ?」

声はエンドだった。インジュとの話し合いは終わったようだ。はあ、世話の焼ける主人格だこと!とアジャラは口角を引き揚げた。

『インジュに体を返せ!』

「嫌ぁよぉ。こんな機会、もうないものぉ」

わかってるでしょう?と囁けば、エンドはため息を付いた。

『……おまえ、ぶち壊す気か?』

「なぁんのことぉ?アジャラわっかんないん」

『くねるな!気持ち悪りぃ』

「まあ、見てなさい。ショータイムは、これからよぉ?」

『おい!アジャラ!』

ンフフと笑って、アジャラはエンドを無視した。

 階下へ通じる階段の前で、インティとシェレラがアジャラを振り返る。

「?」

どうやら、問題があるようだ。

「誰だかしらないけど、アタシの行く手を、阻むモノがいるのねぇ……」

スウッとアジャラの切れ長の瞳が、更に細くなる。アジャラは先に階段を下りる。しかし、途中で階段は崩れ、瓦礫に埋まっていた。

その先から、振動と争う声が聞こえてくる。

やぁっと見つけた!アジャラは、ニヤリと微笑むと、呟いた。

『インジュ、アタシの好きにしても、いいわよねぇ?』

『ボクがダメですって言っても、聞く気なんてないくせにぃ。いいですよぉ?ただし、余計なモノまで壊しちゃダメですよぉ?』

エンドが騒いでいるが、主人格から了承を得たのだ。構うものか。アジャラは、口角を引き上げて笑った。

「了かーい。ンフフフフ」

ウズウズして思わず笑いが漏れてしまう。一頻り笑った後、アジャラは冷たい瞳で瓦礫を見据えると、フッと息を吐きながら回し蹴りを放っていた。その威力に瓦礫は吹き飛んでいた。背後に控えていたインティがすかさず風を放ち、穴をこじ開ける。それが崩れてこないように、シェレラが植物の根を張り巡らせた。

 開通した穴から、戦闘の音がドッと押し寄せる。

「あらあらぁ?化け物が化け物と戦ってるわぁ?」

階下では、牛の頭を持つ大男と、少年の上半身にトカゲ型のドラゴンの体を持つ化け物が戦っていた。階段の瓦礫が吹き飛ぶ音に、一斉に彼等以外の化け物達もこちらを見て、しばし固まっている。

『アジャラ』

「はいはーい!わかってまーす。余計なモノは、壊さないわぁ。オーホホホホホ!」

『いや、壊れるだろ!これ!』

アジャラにも見えているのだ。中から見ているエンドとインジュにも見えているだろう。

現にエンドは頭を抱えている。

それなのに、人格交代を要求しないインジュに、アジャラは逃げたのか、それとも、何か考えているのか?と瞬間勘ぐった。

しかし、彼がいいというのだ。思う存分、見せつけてやるか!と高笑いと共に戦場へ躍り込んだのだった。


 エンドはやけに絡んでくるが、インジュを害するとでも思っているのだろうか。

アジャラは、インジュの殺戮の衝動だ。殺戮の衝動は、主人たる風の精霊を守るためにいる特別な闘志だ。インジュの、許可なく不利益なことはしない。だから、代われ!と言われると思っていた。

インジュの心が、怒りにすべてを焼き尽くされる前に、アジャラは強制的に乗っ取った。そうしなければ、またインジュは固有魔法・千両役者でイケない人格を作り出したかもしれない。エンドは、肝心なときに役に立たないのだから。

――汚れ役は、アタシがやってあげるわよぉ?ねえ?愛しいインジュ……?

鋭く飛んだアジャラは、手始めにミノタウロスの頭に風穴を開けた。対峙していた竜の体に少年の上半身の化け物が、驚きに目を見張っていた。

「オーホホホホホ!ああ、呆けてんじゃないわよぉ!」

ミノタウロスと対峙していた彼は、何か他のとは違うとアジャラは見抜いていた。インジュもあれは殺すなと警告してきていた。

瞬時に敵味方を見抜く目を持っているくせに、なんで殺さずの戒めなんかを大事にしているのか、そんな矛盾を抱えているインジュがゾクゾクするほど愛しい。

異常?それは、殺戮の衝動には褒め言葉だ。

 それにしても、インティとシェレラは良い動きをする。彼等はちょっと前に手に入れた、13代目風の王・インティーガと13代目花の姫・シェレラの霊力だ。傷ついたインジュを癒やすために最後の命を使ってくれた彼等の霊力を、アジャラは秘密裏にインジュの体内に封じていた。婚姻状態でない精霊の霊力は、やがて抜けてしまうモノだが、そこは、いろいろと規格外な精霊だ。アジャラは、その霊力を固有魔法・想像の創造で作った器に入れて、使役しているのだ。言葉も意志も持たない人形だが、戦闘能力に申し分はない。

「シェレラちゃーん!結界よろしくねぇ!」

さて、あらかた片付いた。アジャラは邪魔が入らないように、風を操って旧時代の粒子をこの場から追い出すと、結界を頼む。シェレラはすぐさま結界を張ってくれた。

ううん、優・秀!彼等が殺す分には、殺さずの戒めに触れない。召喚方法をインジュに教えてあげようかしら?とアジャラはふと思った。

 さあて、そんなことより……アジャラはオリュミスに攻撃を仕掛けてみた。

どれくらい戦えるのかと思っていたが、ここまでリャリスを守って逃亡できたことだけはありそうだ。手加減して放った拳を、オリュミスは腕を手の平で弾いてやり過ごした。

「へえ?ヤリ甲斐ありそう」

『……インジュをどうした?』

「寝てるわよぉ?」

『寝てないですけど?』

すかさず茶々を入れてくるインジュが、うざったくて可愛い。

「あなた、オリュミスちゃんねぇ?インジュのお姫様と何してるのぉ?」

返答次第じゃ殺しちゃうわよ?と凄んでみたが、彼は顔色1つ変えなかった。旧時代最後の王と聞いているが、お飾りではなかったようだなと見直した。

『ジュールに頼まれて、インジュの元へ送り届ける途中だ。インジュを出せ』

「ンフフフフ。嫌ぁよぉ。アタシ、欲求不満なの!鎮めてくれないかしらぁ?」

『ちょっ!言い方!安定のおネエさんなんですねぇ』

インジュが変なところを感心してくる。面白くて、思わず笑ってしまった。それが不愉快に映ったようだ。オリュミスが眉根を潜めて至近距離から、指の間に現れた銀色の刃を投げてきた。アジャラは笑いながら距離を取りながら、風でそれを叩き落とす。さあて『彼』が来るまで、保つかしらねぇ?アジャラは、適当にオリュミスの攻撃を避けながら、そんなことを考えていた。

まあ、こなくても、風の城に乗り込めば、いつでも会えるか。と気持ちを切り替える。アジャラはインジュの為にここへ来たが、アジャラ自身の目的は別にあるのだ。

 壁際にいるリャリスには、刺激が強かっただろう。こちらを凝視して、固まっている。

よかったんだろうか。こうなることくらい、インジュはわかっていたと思うのだが。インジュは、何も言わないが、本当はエンドが彼女から婚姻の証を贈られたことを怒っているのだろうか。怒っているから、けったいな人格であるアジャラの姿を、リャリスの前に晒したのだろうか。

「オーホホホホホ!インジュに会いたいんだったらぁ、アタシを服従させてみなさーい?ちなみにぃ、アタシはぁアジャラ。よぉ?」

オリュミスの目つきが変わった。

あら、可愛い~!友達に義理立てするために、アタシを倒すの?とアジャラは健気なオリュミスに好感を持った。

じゃあ、本気でお相手しないと、失礼よねぇ?

ゾッとするくらい暗い笑みを浮かべて、アジャラはオリュミスを見据えた。技量の差をわかっているだろうに、オリュミスは怯まなかった。そんな一触即発の場面で、インジュから釘を刺された。

『アジャラ、理性強く持ってくださいねぇ?』

「はい。ああん、つまんなーい!」

ちょっとくらい壊しても――と思った事を、インジュに見透かされた。伊達に、エンドと会話しながら戦ってないなと、インジュのツッコミに思った。

ちっ仕方ない。アジャラはオリュミスの懐に入り込むと、腹に拳を叩き込んだ。このまま手加減して遊んでいると、ついつい壊してしまいたくなる。アジャラは床に頽れて動かなくなったオリュミスの見張りを、インティに任せて、壁際のリャリスに、スイッと視線を向けた。

ハッと、リャリスが身構えるのが見える。

あんなに怯えて、可愛いわねぇ……。

アジャラは、舌なめずりすると、リャリスにゆっくりと近づいた。


 アジャラは、ドンッとリャリスの顔の隣に手をついた。背が殆ど同じなのが、格好つかないわねと、思ってしまった。

見開かれたサファイアブルーの瞳が、僅かに揺れていた。

「……インジュ……見ていますわよね?」

あら?とアジャラはリャリスの言葉に僅かに瞳を見開いた。

「出てきてくださらないのは、私に怒っているからですの?」

「ちょっと、待ちなさいよぉ?リャリスちゃん、怒られるようなことしたの、インジュだと思うわよぉ?」

嫌われたと絶望したような瞳をされて、アジャラは予想外なことに慌ててしまった。

「確かに、インジュは、おじ様に無断で行方不明になりましたけれど、オリュミスを改心させていますわ。お咎めはありませんわよ」

「そこじゃないわよ!うんもお!リャリスちゃん、アタシに質問はないわけぇ?」

リャリスは、何でも答えるわよ?というような瞳の女性に、やっと視線を向けた。

女性……仕草を女性的にするだけで、インジュは性別さえも偽ってしまうのかと、リャリスはボンヤリ思った。

見つめていると、アジャラは、クスリと笑い、リャリスの髪の毛を1房掬い、弄び始めた。そんな彼の左手の手首で、チャラリとエンドに贈ったブレスレットが鳴った。このブレスレットのことを、インジュに説明するつもりだった。エンドと何かあって、この人に支配されてしまったのだろうか。

「アタシのことが、怖いのかしらぁ?」 

恐ろしく綺麗な、捕食者の瞳だった。インジュも、エンドも見せたことのない瞳だ。このまま顔が近づいてきたら、逃げられない……。

「なぁんにも、しないわよぉ!ただねぇ、アタシとしては、インジュとエンド、どっちが好きなの?って思うワケよぉ」

パッとアジャラは顔を背けて明るく言った。その切り替えが、インジュを思わせて、違うようでいて、この人もインジュに似ているところがあるのかと、リャリスは思った。

「エンドに言った通りですわ。私、2股だと言われても、インジュもエンドも2人とも好きですわ」

「2股、ねぇ……」

アジャラは、どこかをチラッと見やった。そして、面白がるようにリャリスに視線を戻して来た。

「ンフフフフ。そんなこという女の子を、インジュが見初めるとは思わなかったわ!ただねぇ、エンドは、ねぇ……」

思わせぶりにアジャラは笑った。

「インジュが戻れば、殆ど出てきませんわね。あの方、五感に翻弄されていましたもの。エンドが望むのでしたら、話しだけでもできる魔法を構築しましてよ?インジュと揉めてしまいまして?」

「揉めてるわねぇ。って言ったら、どっちを選ぶぅ?」

リャリスは初めて視線をアジャラから外した。

「どちらも選びませんわ。婚姻の証を壊して、私、身を引きましてよ?恋愛とは、いっときの気の迷いですわ。そんな不確かなモノより、インジュはエンドを、エンドはインジュを選ぶべきなのですわ。あなたは、言えない2人に代わって、それを告げに来たのですの?」

リャリスの瞳が、震えていた。けれども、気丈に見返してくる彼女に、アジャラは微笑んだ。彼女の表情からはリャリスの得たい答えは得られなかった。

 フッと微笑んだアジャラが、突然リャリスの目の前から飛び退いた。そして、代わりに艶やかな黒が鋭く舞い降りてきた。

力の精霊・ノインだった。

ノインに爛々と輝く瞳を向け、アジャラは、リャリスを庇い立った者に仕掛けていた。

「なぜだ!インジュ!」

アジャラの拳は、ノインの大剣に阻まれていた。ビリビリと大剣を通して衝撃がノインの体に伝わってきた。彼は本気だ。

「ふん!ゴチャゴチャ言ってないで……ヤろう?ア・タ・シぃ、そういう気分なの!」

ドンッと、アジャラはノインの腹を蹴り、反動を使って空へ舞い上がった。「ぐっ!」と腹を押さえて、ノインが片膝をつく。

「あぁら、もう終わり?最強の精霊サン?」

「インジュ……」

ノインが、苦渋の表情で天井スレスレにいる、見下すように微笑むアジャラを見上げる。ノインの、アジャラの中にインジュを探す視線にイライラが募る。アジャラのイライラを感じ取ったインジュが、心配そうに声をかけてきた。

『アジャラ?どうしたんです?厳しいならエンド君が代わりますよぉ?』

『おい!てめぇが行け!オレに振ってんじゃねぇ』

インジュに心配されるなんて、恥もいいとこね!と、アジャラはハアと1度息を吐いた。

「その名前、気安く呼ぶんじゃないわよ!アタシのインジュを殺しておいて……その上、捨てておいてええええええ!」

『ええっ?ボク、ノインの恋人だったことないですよぉ!?』

インジュの驚愕の声に、間髪入れずにエンドが否定の声を上げた。

『違げぇ!バカ!そういう意味じゃねぇ!』

ああ、心の中がうるさい!だが、冷静にはなった。

アジャラは、左手を腰に、右手を胸に背筋を伸ばした。

「アタシはアジャラ。煌帝・インジュの殺戮の衝動よぉ!インジュを殺してくれたことには感謝してるけどぉ、捨てたことはぁ……許さないわぁ!」

『ボク……生きてると思うんですけど……』

『はあ……ややこしいこといいやがって……面倒くせぇ』

あまりインジュを刺激したくないが、アジャラには、ノインに言いたいことがあった。

ノインのおかげで、インジュのかけた力の封印が解け、インジュの精神は1度崩壊したが、そのせいで、アジャラは目覚め、固有魔法・千両役者で、エンドの元になるモノと、インジュの心を再構築できた。それから、不具合が出るたびに少しずつ治し、エンドに自ら人格を与えたインジュは、やっと落ち着いた。主人を守る殺戮の衝動であるアジャラにしてみれば、ヤレヤレである。

そんなインジュを、ノインはいきなり手放した。転成したノインの代わりにと、インジュはこれまで努力を重ねてきたが、アジャラにはインジュの無理が見えていた。エンドが無意識に千両役者を使わないようにと頑張っていたが、時間の問題となりつつあった。

アジャラは、インジュとエンドとは切り離された存在だ。自身が傷ついても殺せる人格であることで、アジャラは2人と一線を引いていたのだ。

 出てきた今、ノインを叩きのめさなければ気が済まなかった。

その言動がどんなに理不尽でも、殺戮の衝動にとって、主人はひな鳥のようなモノなのだ。雛の敵は殺戮の衝動の敵なのだった。

「ノイン~!ここでぇ――会ったがぁ――百年目ぇ!」

アジャラの姿が変貌する。

透明な力の流れを、ノインは感じた。このまま変身を許せば、こちらの身が危ない。わかるのだが、あまりの美しさに目が離せなかった。

アジャラの背には、6色6枚の翼が生えていた。キラキラ輝く金色の風が彼の長い髪を緩やかに広げ、女性とも男性とも取れるその美貌を際立たせていた。

「ンフフフフ……オーホホホホホ!旧時代の騎士如き、このアタシが捻り殺してやるわ!」

『あ、殺すのはマズいです!半殺し、半殺しで止めてくださいよぉ!』

『止める方向性が違うだろう!なんで、兄者と戦う話しになってんだよ!』

焦るインジュと頭を抱えるエンド。アジャラは2人を無視した。

 恍惚とした表情で、アジャラは右手を振るった。その手の中に、金色の刃を持つ槍が握られていた。心の中で、インジュが怯えたのがわかった。そんなインジュを庇うようにエンドが寄り添う。そして、エンドから抗議の声が上がった。エンドが怒るのには、理由がある。自身の拳を血に染めて戦うインジュだが、それは、武器の類いに一切触れられないからだ。未だに、インジュは触れただけで拒絶反応を起こすのだ。

「怯えないでぇ?インジュ。あなたの恐怖するすべて、アタシが取り去ってあげるわぁ……」

アジャラは毒を含んだ微笑みで、ノインを見下ろした。

ノインはインジュにとって、目の上のたんこぶだ。それを取り去ること。それが、アジャラの目的だった。ノインを殺す事。それがアジャラの目的だったのだ。

リャリスを救出し、旧時代の暴君を倒すことは彼にとってはオマケだ。

異常?それは殺戮の衝動にとっては褒め言葉だ。

愛しいインジュがここで解き放たれるなら、アタシは――死んでもいいのよぉ


 力と力がぶつかり合うその余波が、波動となって体を揺さぶった。

目が覚めたのは、幸運だった。意識を取り戻したオリュミスは、6枚の翼を生やしたインジュが、ノインと戦う様を見た。まだ高笑いしているところをみると、インジュは未だ乗っ取られたままのようだ。視線を巡らせると、リャリスはオリュミスが意識を失う前にいた位置から動いていなかった。もしや動けない?

リャリスは、歩けなくてオリュミスの背に乗ってここまできたのだ。あり得るが、彼女ほどの精霊が、未だ不調のままというのも気にかかる。せめて彼女のところへ。そう思ったが、体を起こしたオリュミスの前に、半透明な風の精霊が舞い降りてきた。

――13代目風の王・インティーガ!

オリュミスは彼を知っている。

彼はいっとき、門の中にいたのだ。それを、15代目風の王率いる部隊に奪い返された。

反魂の儀式が、この世界で成功した唯一の例だ。

彼が、あのときに旧時代の粒子に極限まで冒されて虫の息だったインジュを、恋人とともに命を賭して救ってくれたのだと、救われたインジュ自身から聞いていた。

今のオリュミスに、彼とやり合える力はない。風の王、それも英雄王の異名を持つ彼の戦闘能力は、15人の風の王達の中でもトップクラスだったのだから。

『貴殿に、いや、インジュに対して敵対の意志はない。智の精霊を守りたいだけだ』

そう告げるも、インティの瞳は無表情で感情も思考も読み取れなかった。彼等はやっと輪廻の輪に帰れたというし、思考も感情も与えられていないのかもしれない。

これで動くのは、得策ではない。智の精霊はと見ると、ノインとインジュ――アジャラの死闘を食い入るように見つめている。立ってはいるが、背を壁にもたれかからせ、自力で動くことは難しいように思われた。

 その時だった。

「シェレラちゃん結界を解きなさい!インティちゃん援護して!」

彼の突然の号令。見れば、シェレラの張った結界に、ヒビが入っていた。結界を支える彼女の様子も、どこか無理が見えた。

「ノイン一時休戦よ!」

そう言って、彼はリャリス目掛けて手にした槍を投げていた。身動きできないリャリスは、ただその飛んでくる槍を食い入るように見つめている。

ドッと槍が貫き通したのは、今まさにリャリスに手を伸ばさんとしていた、白いつるりとした猿のような化け物だった。

「え?」

リャリスが目を見張る。そして、あり得ない人物から、苦痛の声が漏れた。

「が……はっ……!ちょっと、舐めて、たわぁ……」

苦悶の表情を浮かべ、アジャラは、6枚の翼を散らしながら落下していた。激突はしなかったものの、翼は元の2枚に戻り、すぐに立ち上がれないほどのダメージを受けているようだ。

「リャリス!」

ノインが声とともに飛ぶ。オリュミスも地を蹴っていた。

しかし、リャリスの動きは鈍かった。彼女の背後の壁を破壊し、生えた白い腕が、壁とともに弾き飛ばされるリャリスの体を捕らえていた。

「うっ……!」

だが、リャリスもただ捕らえられるのを待つ、か弱い乙女ではない。咄嗟に魔方陣を自身に展開し、球体の中に逃げ込んでいた。

「待――なさい!」

床に膝を折りながら、アジャラが手の平から風を放っていた。リャリスを閉じ込めた球体を掲げるように持った、毛のないつるりとした大猿は、その一撃で屠られていた。

「アジャラ!おやめになって!これは、旧時代製ではありませんわ!」

再び苦悶の表情を浮かべて、手を床についたアジャラに、ドンッと床に落ちた球体の中からリャリスが叫んだ。彼女ももう、立ってはいられないらしい球体の壁に手をつき、両膝を折っていた。

「たとえそうだったとしてもねぇ……アタシはぁ!退けないのよぉ!」

ヨロリと立ち上がったアジャラは、叫んでいた。

――ああ、インジュ……

キッと睨むようなアジャラの瞳は、真っ直ぐリャリスを射貫いていた。リャリスはその瞳を知っている。大丈夫だというのに、採取に出掛けて魔物に遭遇したリャリスを、血相変えて助けに来てくれたとき、彼はそんな荒々しい目をしていた。

変わらず想ってくださっているのですのね?逢ってくれないインジュを、リャリスは信じた。その確信があれば、怖いモノなど何もない。

 結界のなくなったこの場所は、新たに現れた白い猿の化け物に占拠されつつあった。槍を手に、突き進んでくるアジャラは、化け物を屠る度に顔を歪めたが、それでもリャリスに迫った。共に飛んでいたインティとシェレラが、白猿の猛攻に体を金色の風に返した。

「――出直してきてくださいまし」

「!」

リャリスは、妖艶に微笑んだ。手を伸ばしたアジャラは、自身の足下に魔方陣が描かれたのを見た。

「リャリスちゃん!」

「待っていましてよ?旦那様」

気高く妖艶な微笑み。リャリスはアジャラを見据え、そう言った。

アジャラの視界は白に埋め尽くされ、伸ばした手はリャリスに届かなかった。


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