二章 ボクのいない3年間
二章 ボクのいない3年間
心と魂が、何度も犯される。
意識は短く、何度も浮上するものの、すぐに襲ってくるどす黒く甘い毒のような感覚が、心と魂を蹂躙する。
もう、抵抗できない……。正体はすでになくなっているのに、心と魂を犯す感覚が終わらない。
『好きです。リャリス』
声が、一瞬で覆い被さっていた甘い毒を吹き飛ばした。
『離れてても、守ります。ボクのぬくもり覚えててくださいよぉ?いつでも、包んであげますからねぇ?』
そうでしたわね。リャリスは、瞳を開かないまま、心を取り戻した。
どんなに蛇のイチジクの記憶を呼び覚まそうとも、それは『リャリス』の体験したことではない。冷静に見定めれば、ただ、いかがわしい映像を、永遠見せられているだけだ。心と体が反応しても、これを実際されたら体がどうなるのか、知らないリャリスは溺れようもなく、飲まれようがなかった。さすがに後学のためと言って、楽しむ気にはなれないが。
リャリスが知っているのは、インジュのくれた声、ぬくもり、甘い口づけ――そして、霊力強奪術で与えられた快楽だけ。この体は、直接的な快楽を知らない。
――私は、あなたしかしらないですわ
心を取り戻したリャリスは、蹂躙されたフリをして機会を窺うことにした。
来てくれる。インジュは、必ず迎えに来てくれる。それまで、この心と魂を守ろう。
あの人のもとへ、帰るために。
時は、2年半前に遡る。
リャリスは、行方不明のインジュを捜し続けていた。
しかし、見つからなかった。3年経った今ならわかる。ロミスの門にいたインジュを、普通に捜したのでは見つかるはずはなかったのだ。
それでもあの時は、必死だった。この世界のどこかにいると信じて、脇目も振らずに捜し回った。半年間、心をすり減らしながら。
それは、インジュがいなくなって半年後のある夜のことだった。
なぜ、こんなことになったのですの?リャリスは、寝室のベッドの上に押し倒されていた。
2人で寝るには狭いだろ?そう言われて、リャリスの自室、アトリエと呼ばれているその部屋の隣に、寝室を増築された。
この部屋はどこぞのお姫様かご令嬢の部屋ですの?とツッコミたくなるくらい豪華だった。
天蓋付きのベッドなんて、両親――花の王・ジュールと蜜月の精霊・シレラ夫妻の寝室でしか見たことがなかった。リティルに言わせると、風の城の夫婦の寝室は皆、こんなモノらしいが、太陽の城にいる兄弟達の部屋にこんな部屋は1つもない。ああ、兄弟達は未婚だったが。
たしか、インジュも若干引いていたと思う。
インジュはあの時、苦笑いを浮かべながら「落ち着いたら、いいように改造しちゃいましょうか?」と言っていた。だが、寝転んで「あ、大きいのはいいですねぇ」と笑っていた。キングサイズというのは、確かに寝返りを2人で打っても、落っこちないという利点はあるなと思った。
その、見た事もない巨大なベッドの上で、リャリスは組敷かれていた。
柔らかい瞳だったインジュとは違う、鋭い瞳が、ジッとリャリスを見下ろしていた。両手を拘束されて身動きできない。
「は、放してくださいまし!」
これは、とてつもなくマズイ状態だとリャリスは身の危険を感じた。
ロミスの門を1人閉じに行ったインジュを追いかけ、そして間に合ったが、その体からインジュはいなくなってしまった。
残ったのは彼、煌帝・インジュのもう1つの人格であるエンドだった。
エンドは、フワフワと風に遊ばれる花びらのようなインジュとは違い、どこまでも荒々しく粗暴な男だった。
インジュの事は主人格として敬っているらしく、いなくなったインジュを血眼といっていいくらいの勢いで探していた。
リャリスももちろん協力していたが、だが、インジュとは違う人だと、リャリスは距離を置いていた。
なのに、どうしてこうなった?
ええと、何があったのか、リャリスは少し前のことを思い出した。
応接間で仕事しているリティルにおやすみなさいと言って、いつものようにこの1人では広すぎる寝室に引っ込んだ。
そして、目を閉じて……そして、浅い眠りの中で、インジュの夢を見ていた。ような気がする。
どんな夢だったか。驚きすぎて内容がぶっ飛んでしまったが、たぶん、いつもと同じだ。触れられないインジュに追いすがって、そして、少女のように泣くのだ。届くことのないその名を呼んで。
あら、私、現実でも泣いていましたの?リャリスは、目尻から止めどなく溢れる涙にやっと気がついた。
「なあ、オレの体はインジュの体だ」
「いきなりなんですの?」
「身代わりにしろよ」
「え?」
流れていた涙が止まっていた。リャリスは、この人は何を言っているのかわからなかった。
身代わり?なぜ、そんなことをこの人は言い出したのだろう?とリャリスは混乱していた。
「だから、インジュの代わりになってやるって言ってんだよ!」
苛ついたような口調で、エンドに至近距離から怒鳴られていた。しかし、そんなことで怯むリャリスではない。
「何を言っていますの!放してくださいまし!そんなこと、できませんわ!」
何とか言えた。怖くはないが、混乱していた。
確かに、彼の体はインジュの体だ。婚姻の証は返されてしまったが、未だに大好きな元夫の体だ。帰ってきてほしい。でも、彼の体がほしいわけではない。
夫は不能だった。このベッドで抱きしめられはしても、キスはしてくれても、彼は一度もこの肌に触れなかった。
できなくても、欲望はあると言ったのだ。触れようと思えば、触れられたはずなのにインジュはそうしなかった。旧時代の知識に、遠慮したのだ。あれは、記憶ではなく知識なのに、インジュは薬と魔法で快楽に狂わされた蛇のイチジクに、配慮したのだ。
優しい人だ。ジュールはヘタレ!と罵るが、リャリスには思いやりに思えた。
「なんでだよ?オレで我慢しとけば、浮気にはならねぇだろうが!」
浮気?考えた事もなかった。インジュ以外の人となど、考えた事もなかった。捨てられた今も、彼以外考えられない。
もちろん、エンドとも考えられない!だって、エンドはインジュではないのだから。
同じ体を共有する彼となんて、インジュが戻ったとき、ややこしい事態に陥るのは目に見えている。
「あなたにも人権がありますでしょう!」
と、とにかく放してもらわなくては。得意の魔方陣魔法を使ってもよかったが、エンドが同情でこんなことをしてるとわかっていては、どうにも攻撃はできなかった。
「は?」
「……好きでもない私と……触れ合うのは、嫌でしょうと言っていますのよ!」
オレはインジュだ。インジュはオレだ。でも、別人格。という認識がエンドとインジュだった。だから、人権を心配してくれたリャリスに、エンドは驚いた。
「はは、ハハハハハ!」
「笑っていないで、放してくださいまし!」
こ、怖い。リャリスは藻掻いたが、エンドがインジュと同じ顔に荒廃的な笑みを浮かべて、ズイと間合いを詰めてきた。
「嫌だね。おまえ、いい女だなぁ」
「え?待ってくださいまし!」
いい女だなんて、言われたことなかった。顔の距離を詰められ、こんな目の前で言われれば、リャリスでも照れる。しかも、インジュと同じ顔で。
「安心しろよ。オレ、おまえのこと好きだからな!」
え?リャリスは耳を疑った。ど、どうすればいいのですの?雰囲気はまるで違うが、インジュと同じ顔で「好き」と言われると、インジュに言われ続けた「好きです!」とかぶって、リャリスはカアッと顔の温度が上がった。
「わ、私……!」
「落とす」
「え?」
「おまえのこと、惚れさせてやる!ハハ、俄然生きれるぜ!ありがとうよ、蛇女!」
そう言ってエンドはリャリスの唇を奪い、彼女の華麗な蹴りで撃退された。
「何をなさるの!私は煌帝・インジュの妻ですのよ!」
股間を蹴り上げられたエンドは、そこはしっかり防御していたものの、リャリスの上から飛び降りていた。
「ああ、だから、オレの妻でもあるってことだよなぁ?」
「どうしてそうなりますの?あなたとインジュは別人ですわ」
「オレの体はインジュの体だ。インジュの体はオレの体だ。インジュの中から見てたぜ?あいつ、キスうまいよなぁ。ああ、そこがよかったのか?」
「なっ!な、何を言いますの!」
一旦冷えた顔が熱くなった。本当の事だ。エンドが言ったのは、本当の事だがそこだけがよかったわけではない!リャリスはワナワナと怒りと羞恥に震えた。
「ああ?好きだろう?いっつも蕩けたような顔してたじゃねぇか。おおっと!」
エンドは飛び退いた。今し方彼のいた場所には、白い線で魔方陣が描かれていた。描かれた魔方陣から、槍のような光が飛び出した。
「出て行ってくださいまし!」
「ハハハハハ!よろしくな!蛇女!」
エンドは嵐のように寝室を出て行った。大いに掻き乱されて、ハアハアと荒い息を吐いていたリャリスだったが、心が、幾分軽くなっていることに気がついた。
昼間皆の前では気丈にいられたが、どうやら、かなりの頻度で夢の中だけではなく現実でも泣いていたのだと、今気がついた。
エンドはおそらく、そんなリャリスの状態に気がついたのだ。
あの人は、インジュが作った人格……そんなことが頭をよぎって、だからなんなのですの!とリャリスは枕をバンッとベッドに叩きつけたのだった。
リャリスの趣味は、薬の調合と、新しい魔法の構築、すでにある魔法の解体だ。薬の調合には、材料となる素材がいる。リャリスは、その素材をイシュラース中から自らの足を使って集めていた。
インジュがいてくれた時は、精霊であることを偽って、グロウタースまで足を運んだこともあったが、今はそこまではできない。
今朝、応接間に顔を出すと、リティルに言われた。
「リャリス、一旦インジュ捜索から手退けよ」と。「なぜですの?」と半ば詰め寄るように問うと「おまえ、いろいろ限界じゃねーのか?」そう言われてしまった。
エンドが気がついたように、リティルもリャリスの状態に気がついていたのだと悟った。
言葉を失ったリャリスに、リティルはいつもの明るい笑みではなく、優しい笑みを浮かべて「何も考えずに、外行ってこい」と言った。
それで、半年間殆ど行っていなかった素材の採取に出てきたのだ。
「………………なぜ、あなたがここにいますの?」
ここは、イシュラースの大地の領域だ。
大地の王の治める土地で、反属性である風の力は弱まる。風の精霊にとっては、用もないのに来たくない場所だった。
「ああ?1人じゃ危ねぇだろう?」
葡萄色のフードつきマントを目深に被り、腕に籠をかけたリャリスは、訝しげに眉根を潜めた。彼女の両耳の横で、サファイアブルーの蛇がチロチロと舌を出した。威嚇しない蛇。
認めたくはないが、リャリスは昨夜の今日で、あんなことをされたのに彼への警戒を解いてしまっていた。
赤く紅葉した木々の間から姿を現したのは、エンドだった。これまでも、ついでだとか何とか言って、採取に行くリャリスについてくる。今までは、放っておいたのだが、今日は……避けたかった。切実に。
エンドは最近インファとよく行動を共にしている。リャリスは、エンドが出掛けるタイミングを見計らって、採取に出たのだ。
「私、か弱い乙女ではなくってよ?」
「知ってるぜ?けどなぁ、おまえ、魔物に遭遇しやすいだろう?陛下が心配してたぜ?」
陛下。とはリティルの事だ。エンドはなぜか名で呼ばないのだ。
リャリスの事を『蛇女』と呼ぶのも、悪意からではない。リャリスは、フードを思わず整えてしまった。彼女のほっそりとした白い首の一部には、サファイアブルーの蛇の鱗が生えていた。首の一部だけではない。両腕の一部にも生えている。
リャリスは、風の城と太陽の城以外では、それを極力隠しているのだった。
リャリスは、ため息を付いた。リティルが心配していると言われれば、エンドの同行を拒めない。インジュが行方不明になったあの、ロミスの門と関わった事案の後、リティルはリャリスを、いつも以上に気にかけるようになってしまった。
エンドがここに現れたのは、リティルが連絡したためだろ。広大な大地の領域のどこにいるのか、あの烈風鳥王の異名を持つリティルには捜すことは容易い。彼は、数々の鳥を同時に操ることができるのだ。リャリスはおそらく、城を出たときから鳥に監視されていた。
優しい”おじ様”の性格を思えば、監視されていたことも致し方ないが、リャリスは不快感など感じずに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「わかりましたわ。ですがエンド、あまり周囲を威嚇しないでくださいませ。動物たちが逃げてしまいますわ」
ついでに魔物も。というメリットは伏せる。なんだか悔しいから。
「そりゃ悪いな。オレは、戦闘担当だからなぁ。荒っぽいのは愛嬌だと思ってくれ」
「……本当に、真逆ほど違うのですわね……」
「そうかぁ?あいつも大概だぜ?オレを作ったのは、沸き起こる殺戮の衝動を制御するためなんだぜ?オレが産まれるまでは、殺したくて殺したくてたまらなかったんだぜ?」
知らなかった。けれども、インジュは風の最強精霊だ。殺さずの戒めを持っていなければ、今以上に魔物狩りに出ていたことだろう。普段の、あの柔らかな感じからは想像できないが。
「あなたは、初めからインジュと一緒にいたわけではないのですの?」
「ああ。あいつが生まれて、かなり経ってた。元は違う目的だったんだけどな、親父殿と陛下に見抜かれて、それでオレは人格として定着したってわけだ。安心しろ。インジュを裏切ることは絶対にねぇ」
……私を口説くというのは、インジュを裏切る行為ではなくって?と言う言葉を、リャリスは飲み込んだ。なぜ飲み込んでしまったのか、よくわからない。
インジュ……出会う前からずっと好きだった。
リャリスは、精霊を両親に持つ、純血二世だ。不老不死である日突然目覚めるという産まれ方をする精霊という種族としては、特殊な生まれだ。純血二世は、12年の成長期を経て成人――精霊として一人前となる。
リャリスは、物心ついた頃には、煌帝・インジュというまだ会ったこともない精霊のことが好きだった。父のジュールが、興味を持つように仕向けていたと言うこともあるが、産まれて2年目に、行けるはずのなかった風の城にしばらく預けられたその時、憧れのインジュに初めて出会った。それまで、話しにしか聞いていなかったインジュの事は、リャリスにとってお気に入りの絵本に出てくる、登場人物のようで現実味がなかった。
それが、あのとき、実体を結んだ。
父親による刷り込みだったかもしれない。だが、リャリスはこのとき、煌帝・インジュに恋をしたのだと思う。
風の王の補佐官であるインジュにふさわしくなりたくて、リャリスは勉学に励んだ。
成人する頃には、イシュラースの三賢者の次席にまで上り詰めていた。本当は、賢魔王と呼ばれるジュールを抜いてやるつもりだったが、魔王は手強すぎた。
成人し、念願の風の城を住処と定めたリャリスは、やっとインジュのそばに行けたが、彼のそばにはある女性がいた。
神樹の花の精霊、花の姫・シェレラ。
13代目風の王・インティーガの恋人だった精霊だ。彼女は、一時邪精霊にまで身を落とし、そして、現在の風の王・リティルが捕虜にした、魔女と、あの寛大な風一家に嫌われている精霊だった。
インティーガは無実の罪で、魂を砕かれた不遇の王。リャリスはそれを知っていた。そして、邪精霊になってでも復讐という手段に出てインティーガの無念を叫んだシェレラを、リティルが保護したのも納得できた。
その代償で、リティルは、最愛の妻、花の姫・シェラと触れ合うことのできない状態になってしまったが、シェラは無事だからと、シェレラを許した。
だが、一家には不満が残った。
シェラは死ななかったが、相当な苦痛を強いられ、そのせいでリティルの心に間借りしていなければならない、そんな弱々しい存在にされてしまったのだ。お咎めなく、念願のインティーガに逢わせてもらえるシェレラに、一家の怒りが向くことは避けられなかった。
その防波堤になっていたのが、補佐官であるインジュだった。
インジュは、リティルの願いを叶える為にいる。ほぼ四六時中シェレラにへばりついていた。そんなインジュに、成長し、知的で妖艶な美女を演じねばならないリャリスは、アプローチのしようがなかった。
救いだったのが、風の城を訪れた初日に、リティルが言った一言だった。
「インジュ、リャリスが城に馴染むまで、おまえ世話してやってくれよ?」
インジュはリティルの命を、二つ返事で承諾し、ニコニコと明るい笑みを浮かべるインジュのそばにいることを許された。
いつから、インジュは私のことを見初めてくれたのだろうか?
疑問だ。ずっと疑問だ。
リャリスは、インジュに告白する気はなかった。手に入れる気はなかった。
旧時代の遺産である蛇のイチジクの継承者と、この世界が産んだ尊い至宝、受精させる力の結晶体・原初の風の精霊が、釣り合うはずもない。
淫乱で穢れた智の精霊が、穢れようのないインジュに触れるわけにはいかないと、ただ、そばにいられるだけでいいと恋心に蓋をしていた。
それなのにインジュは「結婚しませんかぁ?」といって「持ってるだけでいいですから」と言って、この耳の横に居る2匹の蛇の首に、小さなチョーカーを贈ってくれた。
父の、ジュールの策略だとしても嬉しかった。
「好きです」と、恋人からではなく飛び越えて婚姻の理由に、絶対にジュールが関わっていると思って、不能のインジュを悩ませてはいけないと思って、リャリスからは婚姻の証を贈らなかった。
それでもインジュは、リャリスを愛する者のように扱ってくれた。
嘘でも構わなかった。でも、想われていると、信じるしかなくなった。
ボクと婚姻を結んでも意味はないからと、そう言ってリャリスの心を守りながら、それを言葉にして「守る」と言われた、もう、落ちるところまで落ちるしかなかった。
リャリスの乙女の部分が暴走して、インジュに言うまいと思っていた胸のうちをぶちまけて、婚姻の証を贈ってしまった。
そして、リャリスは、自分の中身が女として未熟な子供であることを突きつけられた。リャリスの霊力がほしいと言い出したインジュに、恥ずかしくて答えられなかった。そして、インジュを傷つけて失ってしまった。
「……どこにいるんですの?インジュ……」
エンドから視線をそらし、赤く紅葉した葉の舞う空を、リャリスは見上げていた。
「なあ、おまえ、インジュの事許してんのか?」
エンドの少しだけ暗い声に、リャリスは視線を戻した。
「私、気分を害するようなことを、インジュにされた覚えはなくってよ?」
「マジで言ってんのか?あいつ、門を閉じる為だとか言って、おまえから無理矢理霊力抜いたじゃねぇか!」
相手の同意なく霊力を奪う、霊力強奪術。
婚姻を結んだ精霊同士が交わることで発動する奇跡の魔法・霊力の交換を、不能であるインジュは行えず、彼はリャリスの断りなく霊力強奪術を使ってしまった。
霊力に触れるという行為は、かなりの熟練を必要とする。素人のインジュでは、ただただ、かけられた対象の中身を無遠慮に掻き混ぜることになる。
霊力強奪術をかけられたリャリスも例外なく、為す術なく、快楽を感じてしまった。それこそ、意識が混濁するほどに。
インジュは苦痛を与えたと、気を失ったリャリスの枕元に婚姻の証を置いて、去ったのだ。
「インジュが行方不明になってしまったのは、それが原因なのですの?」
「あのバカ、詰めが甘めぇんだよ!『あれ』の反撃喰らって、体から弾き出されちまったんだ。おまえは関係ねぇ」
インジュは心が2つあるせいか、体との結びつきが弱いらしい。普段いきなり抜けることはないが、前にもバラバラになったことがあるようだった。
しかし、不安定でも主人格だ。あの魔法で傷ついたのは、かけたインジュも同じだったのだとリャリスは思っている。
あのとき、10分、いや1分でも時間があったなら、リャリスが快感の合間でも、インジュに「許しますから、存分におやりになって!」と言えていたなら、強奪にはならなかった。インジュを、傷つけずにすんだのにと、リャリスは悔やんでいた。
あの頃は夫婦だったのだ。順当なら、とっくに初夜を終えていた。インジュは、何も罪悪感など抱かなくてよかったのだ。リャリスが、婚姻の証を贈り返さなければ防げた悲劇だったのだ。守られるばかりで、リャリスはインジュを守り損なったのだ。
「ありがとうございますわ、エンド。けれども私、自分が許せませんのよ。事の発端は、気の迷いですわ……」
「どういう意味だ?」
「私が、婚姻の証を贈らなければ、インジュは霊力強奪術に気がつかなかったと思いますわ。夫婦となってしまったばかりに、インジュを、追い詰めてしまったのは私ですわ」
霊力の交換をどうするのか決めてから、婚姻を結べばよかったのだ。
それができなかったにしろ、インジュに霊力強奪術のことを聞かれたとき、それを素人が行うとどうなるのか、彼にわかる言葉で説明すればよかった。
リャリスは、直接的な言葉を使うことを恥じらって、わざと専門的なわかりにくい言い方をして煙に巻いてしまったのだ。
「インジュの中から見ていたのなら、知っていますでしょう?インジュから逃げたのは、私ですわ」
「それは、そうかもしれねぇけどなぁ、やっていいことと悪いことがあるだろう!」
「私、インジュにならば、構わなかったのですわ!それを……伝え損なったのですのよ」
「……マジかよ……初めから、許してたのかよ……」
エンドは絶句していた。
エンドは、インジュが霊力強奪術をかける前に、会話を遮断され、止めることができなかった。そのままインジュに拒絶されたまま、インジュは門を強襲。反撃を喰らい、エンドと原初の風を庇ったインジュは、例のよって例のごとく痛手を負った。その痛手は、今までで最悪の結果となっただけだ。
「夫婦ですのよ?夫が妻に触れて、何が悪いというのですの?私たち、あ、愛しあって、いましてよ?」
「わかった!わかったって!はあ……オレ、五感ってヤツが苦手なんだよ。そういうふうには触れねぇ。絶対にごめんだ。インジュのヤツ、こんな苦しい目に遭ってるのか?」
乱暴者にしか見えないエンドが、気弱げにため息をついた。自分のことで頭がいっぱいで、リャリスはエンドのことをまるで見ていなかったことに気がついた。エンドは、特殊な条件下でしか表に出てこないという。そんな彼が、ずっと表にいるのだ負担になっていないわけはなかった。
「苦しいのですの?それを説明できれば、私が抑えられるかもしれなくってよ?」
「ホントか?えっとなぁ……胸がこう、ぎゅってして苦しいんだ」
「胸が苦しいのですの!?それは、重症ですわね。ここではなんですから、太陽の城に行きましょう」
リャリスはエンドの手首を掴むと、慌てたように太陽の城を目指して、空に舞い上がった。リャリスは屋外では大気を操り、空を飛ぶことができるのだった。
リャリスは、太陽の城のサロンにエンドを連れてくると、彼の向かいに腰を下ろした。
「では、症状を教えてくださいまし」
紙とペンを用意したリャリスは、エンドを上目遣いに見やった。それは、サロンのテーブルが低いからだ。紙に向かえば、体はどうしても前のめりになる。
エンドは、なぜか視線をそらした。
「顔が火照る」
「そうですの?胸の痛みと熱……病気のようですわよ?他にもありまして?」
「呼吸が浅くなる」
「こんな症状……いつもですの?」
リャリスは心なしか青ざめて、エンドを上目遣いに心配そうに見やった。
「いや。なんでか、おまえと居るとそうなることがあるぜ?それも、いつもじゃねぇ」
リャリスが症状を書き留める様を見ていたエンドは、彼女が顔を上げると慌てたように視線をそらした。
「常時ではないと。症状が現れた時に飲める薬がいいですわね……。今は、感じていまして?」
「今?……」
答えないエンドの顔を、リャリスは首を傾げて見上げた。首を傾げた拍子に、サラリとサファイアブルーの真っ直ぐな髪が滑り落ちて、顔の横を縁取った。リャリスは邪魔だったのだろう。その髪を自然と掻き上げて耳にかけた。その仕草が、エンドの目には美しく見えてしまった。
「おまえ……」
リャリスはそのまま、見下ろしてくるエンドとしばし見つめ合ってしまった。
目つきは鋭いが、インジュと同じ顔――とリャリスはエンドをマジマジと観察していた。
「それ、恋の病じゃないのかなー?」
「きゃあ!」
2人がけのソファーに座っていたリャリスは、驚いて声とは反対側に逃げていた。
この容姿で「きゃあ」はないよな。エンドは、インジュだったら「かわいい!」とか言って身悶えてるなと思って、自分も、身悶えないが可愛いとは思うと、リャリスを余すところなく見つめていた。
エンドは、やっと彼女の隣に現れた者に、視線を合わせる。フフフと暗い光の宿る緑色の瞳を楽しそうに歪ませて、十代くらいの少年が座っていた。
「おまえ……医者?」
「ナシャ。君がエンドだね?ジュール様から聞いてるよー。なになに、エンドってリャリスが好きなのー?」
はしゃぐようにからかうように、ナシャはコロコロと笑った。
「ああ、いい女だぜ。おまえ、帰ってたのか」
「動じないって、しかも肯定するって、どうなのー?ねえ、どうなのー?リャリスって、インジュの奥さんなんじゃないの?」
ナシャはなぜか上機嫌だ。
「ああ、煌帝妃だな。それがどうした?」
「へえ、インジュとシェアしてたんだね?」
「してねぇ。そういう雰囲気になったら遠慮してたぜ?それより、なんでここに居るんだ?」
まったく動じないエンドに不満げに鼻を鳴らしたナシャは、ニヤリとした暗い笑みはそのままに答えた。
「ジュール様に捕縛されて、監禁されてるとこー。リャリスと君に会いに行こうと思ってたんだけど、手間、省けたねー」
「魔王、相変わらず魔王だな」
捕縛に監禁かよ?と相手のことをまるっと無視しているジュールの事を思った。
「そ、ジュール様容赦なく魔王!あ、その魔王から要請で、オイラ、しばらくあんた達とパーティー組むから、よろっ!」
「はあ?」「え?」
「キシシ、なになに?オイラ、邪魔者ー?いいねぇ、その反応~!」
ナシャは途端に楽しそうに意地悪に笑った。
「いや、おまえ、戦えるのか?」
「いんやあ?オイラ、弱い者虐めしかできなーい!」
「……なんだって魔王は、こいつを……」
ナシャはニヤァと笑った。
「恋路の邪魔だね!インジュの奥さん守り隊~!」
満面の笑みで胸を張るナシャに、エンドは開いた口がふさがらなかった。
イシュラースの中心に聳える神樹の前に、エンドは1人立っていた。
いつ見ても、巨大な大樹だ。この樹には精霊が住んでいるが、エンド如きの前には姿を現さない。
「――エンド君、待ち伏せですか?」
見上げていた樹の幹の一部が、水滴を落とした水面のように歪み、インファが飛び出してきた。インファはエンドが待っていることを見越していたのか、その顔に驚きはなく、むしろ、やはりいましたねと言いたげな様子で笑っていた。
「インジュは?」
エンドは睨むような瞳で、舞い降りてきたインファを見やった。インファは首を横に振る。
「もう少し早く、現地に行ければ会えると思うんですけどね。今回の術者は死んでいましたね」
「……あいつが殺してるのか?」
「いいえ。産み出された化け物にですよ。金色の悪魔は、選択を迫ってくるそうですからね。術者がもう少し粘ってくれると、会えるんですけどね」
インファは苦笑した。インファは、反魂の断罪に行っていたのだ。
インジュが行方不明になって、1年が経過していた。
反魂の断罪は、インファとリティルしか行わない。それは、有無を言わさない殺戮だったからだ。現地に着くと、化け物ともれなく錯乱した術者がいる。それらを斬るだけの簡単な仕事だが、斬られた術者は、死の間際正気に返る。そして、こう言う。
「なぜ、反魂は許されないのか?」と。
絶望する者。風の精霊に私怨の瞳を向ける者。死にたくないと命乞いする者――
だがもう、どうにもならない。気の滅入る仕事だ。
それが、半年ほど前から、精神的に楽になった。
現地に行ってみると、化け物は処理され、術者の生存はその時々で違ったが、終わっているのだ。ので、事後処理をするだけでいい。
「インジュなのか?」
「ええ、おそらく。連れては行けませんよ?」
エンドが口を開く前に釘を刺され、沈黙するしかなかった。
「蛇女に、黙ってるのか?」
「ええ。今の段階で、情報を与えるのは得策ではありません。せめて、この目で姿を確認してからですかね。どうしました?」
エンドは答えなかった。その代わりのように、インファから視線を外して俯いてしまう。
「リャリスを持て余しているのなら、手を引いても、構わないんですよ?王が常に監視していますし、ナシャがジュールの駒をやっています」
ナシャとジュールの名を聞いて、エンドは嫌そうに眉根を潜めた。
「魔王は、オレがインジュを邪魔するって思ってるのか?」
ジュールがエンドを、インジュの敵だと思っていると?そんな素振りはなかったが、警戒しているエンドを、ジュールは信用していないかもしれないなとは思う。
彼は、ジュールは、インジュの事を本当に可愛がってくれていたから、いなくなった今が、おそらくインファ以上に寂しいのだ。
「ジュールは、責任を感じているだけですよ。2人の恋心を利用して、リャリスを守らせようとした結果が、インジュの消失ですから。あの人がどれだけ冷酷に見えても、本質は風の王です。魔王と呼ばれていても、暖かい人だと、オレは思っていますよ。風を失ったジュールでは、反魂の断罪に立ち会えません。待つしかない歯痒さが、今、リャリスの隣にいるあなたへ向いているだけですよ」
「オレはインジュの邪魔をしねぇ」
まるで、言い聞かせるようだなと、恋愛に疎いインファも思った。
「想いは、芽生えたら枯れるか実を結ぶまで、止まりませんよ?」
「だったら、枯れればいい。ただ、苦しいんだ。親父殿、どうすればいい?」
オレにしますか?恋愛相談。とインファは苦笑した。そういう相談に乗れるのは、意外にもインジュだった。そういうところは、受精させる力の司だなと思う。
かつて、数々の浮名を流したジュールが、こういう問題には適任だが、仕方がない。
インジュとは違って、エンドはあまり社交的ではないのだ。気兼ねなく話しができるのは、インファとラスくらいなのだった。ああ、最近ではあと1人、実妹のインリーが付きまとっていた。しかし、インリーに恋愛相談はしにくいだろう。インリーは、十代後半の容姿の、子供っぽい女の子で、妖艶で大人なリャリスは苦手なようだ。
「オレはあまり優しくありませんよ?リャリスにそういう意味で好きだと、告白すればいいと思います。想いを終わらせる方法の1つに、玉砕というものがありますから」
「痛そうだなぁ」
そう言いながら、エンドはやっと少し笑った。
「そうですね。どれくらい痛いかは、わかりかねます」
厳しいねぇと言いながら、エンドはどこか晴れたように笑った。
今の状況は、エンドの立場、存在からすると苦痛でしかないだろう。
エンドは、インジュが作り出した補助人格だ。こうやって、頻繁に出てきていい人格ではない。幼い子供が作り出す、空想の友達・イマジナリーフレンド。それがエンドなのだ。
この1年、エンドを観察していたインファの結論だった。完全なる人格とは違うエンドは、とても脆そうだ。もう1人の息子だと思っているインファは、本当は抱え込んで庇護下から出したくはなかった。
「エンド君、極力オレのそばにいてくれませんか?」
インファは、表に出ることのない彼との関わりを、これまで幾度となく持ってきた。
戦闘以外の平時、こうやって言葉を交わしてきた時間が1番多いのは、オレだと、インファは自負している。
「ハハハ、それな、この前親方にも言われたぜ?深淵闘技場の仕事手伝えってなぁ」
風の城の地下には、深淵と呼ばれる鍛冶場がある。その場所は、歴代の風の王が目覚める場所だったのだが、15代目は死にそうにないと、その部屋の番人である精霊、深淵の鍛冶屋・ゴーニュが、ゲーム感覚で様々な存在と戦える闘技場を造ったのだ。
深淵では、インジュが殺戮形態に変身しなくても、エンドと会話ができる。
親方ことゴーニュとエンドは、仲がいいのだ。
「先を越されましたね」
ゴーニュのことを想定してはいたが、インファは少しガッカリしていた。
「越されてねぇ。今まで言わなかっただけだろう?親父殿。あんたはそういうこと、言わねぇって思ってた。ありがとうよ。親父殿、大丈夫だ。ラスもいる、最近じゃぁ、何かと付きまとってくる破壊が構ってくれるしな」
エンドはラス以外の者の名を呼ばない。破壊は、破壊の精霊・ケルゥだ。
インファは、応接間で最もエンドを気にかけている者の名を呼ばなかったなと、指摘した。
「王を避けては、拗ねますよ?」
「陛下は……近寄りがたいんだよ。インジュは、陛下の願いを叶える為にいる。あの人は、インジュの特別なんだ。道具のように扱ってほしい相手なんだよ。そんな特別な人に、心配されるとな、どうしていいのかわからねぇ」
リティルは、エンドを心から案じている。リティルの危機にしか出てこないエンドが、インジュの体を動かさなければならない今、エンドが壊れて消滅しないか危惧していた。
「分け隔てなく優しいあの人が、オレには負担なんだ」
優しさで傷つく。そんな存在があることを、リティルは理解できない。
あんたに、奴隷のように扱われることが喜びなんてそんな存在があることを、知らない。
「ははは……インジュ……あいつ、ド変態だな」
「苦労かけますね。エンド君」
「そういう存在だ、気にならねぇ。インジュはオレがいて心の均衡を保ててる。発散できねぇあいつは、常に歪みを抱えてんだ」
「殺せないことが、やはり負担なんですか?」
「化け物だからなぁ、あいつ。同じ体を使ってる以上、オレでも命は奪ってやれねぇ。狩りの快感を知ってるインジュは、スリルの中に身を置くことで、発散してるんだよ。だから、気兼ねいらねぇって言っても、親父殿と陛下には、そういう使い方はできねぇよなぁ?」
力なく苦笑するエンドから、インファは視線を外した。
「オレは軍師ですからね。王は、優しすぎます。インジュを上手く使っていたのは、ノインでしたね」
「インジュに、血の味と命を奪う快感を教えたのは、あの人なんだろう?あの人も、インジュには特別なんだよ。どんな非道なことも、あの人がやれというのなら、インジュは逆らえねぇ。なのに、忘れやがって!」
エンドの激しい怒りで、周りの温度が僅かに上昇したのをインファは肌で感じた。
「もう、巣立てと、そういうことでしょうね。依存先がほしいなら、ジュールの所に行きますか?」
「ああ?魔王?オレは嫌だ!兄者が騎士の代わりに命じてくれりゃぁいいんだ!」
兄者はノインの事だ。もう風の騎士ではなくなった彼を、エンドはリティルに習って兄者と呼ぶようになっていた。そのあだ名だけでも、インジュにとってノインが特別な人であることが伺い知れる。
「拘りますね。ノインは恩を売りたくて、封印を解いたわけではありませんよ?ノインが、知識としてインジュとの関係性を残さなかったのは、彼自身、もっと以前からその関係を解消したかったとは考えられませんか?」
「……1人でやって、今回のこれだぜ?お目付役が必要なんじゃねぇ?」
「ノインが命じても、失敗はしていましたよ?今回の失敗は、冷静さを欠き、先走ったあげくの事故です。策と呼べるようなものではありません。いえ、インジュにしてみたら、失敗ではなかったのではありませんか?」
インファの瞳が、腹の内に突き刺さるようだった。
「親父殿……」
「あの時インジュが何を思い、ロミスの門へ向かったのか、内に秘めたままで、いいんですよ?エンド君?」
インファがあの時、インジュが色々しでかして風の城を出たと聞いたのは、戦場だった。もう少しで平らげられる。そんな時で、駆けつけたときにはすべて終わっていた。
インファが城で指揮を執っていたら、インジュを止められたか?そうは思わない。
あの時、インファの代わりに指揮してくれていたのはジュールだった。リティルも城にいた。彼らが行かせた判断を、間違っていたとはインファは思っていない。むしろ、オレでも行かせただろうと思っている。
誤算だったのは、同意のない霊力強奪術の行使で、インジュの心がガタガタに動揺していたということだ。
それも、傍目にはわからなかっただろう。傷の癒えていなかったノインを戦場に立たせないため、インジュは「動かせば死にます!」とはったりの嘘を叫んで、治癒の魔方陣の中にノインを突っ込んでいっている。それだけ見れば冷静その者で、まさか動揺していたなんて、思いもよらないだろう。あの魔方陣魔法もインジュが描いたにしては、かなりできがよかった。霊力と一緒にリャリスの知識を奪っていたといっても、使う者がバカなら、しかも動揺しながらなど到底描けないような代物だったのだから。
インファがインジュの動揺に気がついたのは、リャリスが、インジュに離婚されたと知ったときだった。
インジュは、リャリスにベタ惚れだった。守るためとはいえ、同意なく霊力強奪術をかけたと聞いて、それを、その直後会った者すべてが気がつかなかったと聞いて、頭を抱えた。
「何をやっているんですか?そんなことをして、あなたが平常心を保てるわけがないでしょう!しかも、なぜ冷静な自分を演じきっているんですか!」が、その時のインファの心情だった。
エンドを責められるわけもなく、インジュが戦場で、目の前の戦闘以外のことに頭を占拠されていただろうことは、そっとインファの胸にしまわれたのだ。
自滅だ。これは、紛れもなくインジュの自滅だとインファは思っている。
「お見通しってか?陛下も?」
「いいえ。オレの勝手な妄想です。帰ってくる気があるのならば、いいんですよ。特攻しろ、死んでこいという命は、オレにはインジュだけでなく一家の誰にも下せませんが、インジュが、自分の存在を諦めないのであれば、何を思って飛んでも咎めませんよ?」
「帰って来る。あいつが、この場所を捨てるはずがねぇ!」
「では、オレにとっては何の問題もありません。エンド君、オレのそばにいてください。勝手に消えることは許しません。あなたもオレの、息子ですから」
心の中を暴くようなそんな瞳を収め、インファはニッコリと微笑んだ。
そして、エンドが頷くのを見届けると、水晶球を取り出す。
「父さん、今回は術者死亡で決着がついていました。魔物狩りをこなしてから帰ろうと思いますが、いいですか?」
淡く金色の光を発した水晶球の中に、リティルが現れた。これは、通信球と呼ばれる魔導具だ。
『ご苦労さん。エンドが一緒だよな?ええと……ああ、これなんかどうだ?』
水晶球から金色のツバメが抜け出て、インファの肩に留まった。しばらく耳を傾けるようだったインファが、水晶球に視線を戻す。
「ええ、問題ありません。では父さん、後ほど」
『ああ、気をつけて帰ってこいよ』
リティルは水晶球からいなくなった。
「気がついていますか?エンド君」
無言のエンドにインファは、笑みを浮かべて見やった。
「王に、監視されていますよ?オレは、どこにいるとも、誰といるとも言っていませんから」
ハッと、エンドの瞳が見開かれた。その顔を見て、エンドが無断で城を出たことを、インファは確信した。
まったく守られていることに気がつかないとは、指導のしがいがありますね。と、インファは笑みを浮かべた。
「極力1人で行動してはいけません。1人で動くのなら、言付けていってください。それが、一家の命を守ることに繋がりますから」
行きましょう。と、インファはバツが悪そうにするエンドを促して、翼を広げたのだった。
風の城の応接間で、デスクワークしていたリティルはフウとため息を付くと、顔を上げた。すかさず、向かいで仕事していたラスが「お茶入れるよ」と「手伝うわ」と風の王妃・シェラとソファーを立つ。
なんのことはない、静かな午後だった。最近は大きな仕事もなく、世界は安定している。
安定しているといえば、気の滅入る反魂の断罪も、精神力をゴッソリ削られなくなって平和だ。あいつは、何をしているんだ?と疑問しか湧かないのは気持ち悪いが、誰かが反魂の儀式をしてくれなければ遭遇できず、待つしかないのはやはりリティルの性に合わない。
しかし、ジュールも手はあるが、罠だった場合、術者をどう守るかが問題で、彼も慎重だった。
はあーーーーー頭が痛い。
「リティル?甘い物でも食べて、少し休んで?」
隣に戻ってきた黒髪の美姫が、大きめで可憐な紅茶色の瞳に優しい笑みを浮かべて、クッキーを1つ差し出してきた。これはあれだ。「あーん」というやつだ。
向かいに座ったラスが凝視しているが、構わず、リティルは王妃の手からクッキーを食べた。ラスが向かいで過呼吸になっているが、無視した。
シェラは癒やしだ。最高の癒やしだ!とリティルとシェラは、見つめ合ってホンワカ笑っていると癒やしの空気をぶち壊す乱暴さで、玄関ホールへ続く白い石の扉が開かれた。
ラスが驚いて顔を上げている。どうやら過呼吸は治まったらしい。
「待てって!なんでそんなに怒るんだよ?」
ドヤドヤッと部屋に入ってきたのは、リャリスとエンド、そして険悪な2人についてきたナシャだ。ナシャは両手を頭の後ろで組んで、ニヤニヤと笑っていた。
「それは、そうですわ!あなた、インジュの副人格なのでしょう?それなのに、何なのですの?」
キッと体ごと振り返ったリャリスは、彼女らしからぬ剣幕だった。
「ああ?わかってるなら答えられるだろう?怒ってねぇで、聞かせろよ」
ソファーから見ていたリティルは、まだ、彼女達まで5メートルほどあるが、リャリスの体がワナワナと震えているのを見て、大丈夫か?と心配になった。
「お答えできませんわ!」
「はあ?なんでだよ?おまえ、インジュが好きなんだろう?だったら、答えなんて出てるじゃねぇか」
ん?リティルは眉根を潜めた。
「ならば、なぜ言わせようとなさいますの?わかっているのならば、それが答えですわ!」
踵を返すリャリスの腕を、エンドは「待てって」と言って掴む。「放してくださいまし!」とリャリスは抗議とともに、腕を振り払った。そして再び口論が始まった。
険悪その者の2人を観察していたリティルの隣に、地道に歩いてきたナシャがよいしょと座った。
「なあ、何があったんだよ?」
ヒソヒソと、リティルが遠慮なくクッキーをボリボリ食べ始めたナシャに問うた。ナシャは、フフッと楽しそうに黒い顔で笑った。
「エンドがリャリスに、愛の告白したんだよー」
「へ?」
「リティル、顔面白ーい」
「あらまあ。エンドもインジュと同じと思っていたけれど、本当に、同じなのね」
「へ?同じ……か?性格違うだろ?」
雰囲気も、インジュとエンドでは真逆ほどに違う。彼等2人を同一人物とはとても見えない。だが、シェラはインジュとエンドは同じだと思っているらしい。
シェラは明確に説明できないようで、困ったように微笑んだ。
「違うけれど、同じよ?けれども、そこまで自我を持ってしまって大丈夫かしら?」
「うん。大丈夫かなー?エンドって完全な人格じゃなくて、副人格なんだって?だと、霊力の消費量がねー」
ナシャに頷くシェラとの間に、見えない壁がある。リティルには、2人の懸念がサッパリわからなかった。
「もしかして、ジュール様が警戒してたのと、インファが最近エンドをそばに置いてるのと、理由が同じってことなのか?ナシャ」
ラスがナシャの前に紅茶を置く。いつの間に用意してたんだ?とリティルはブレない執事に驚いた。
ナシャは砂糖壺を引き寄せると、遠慮なく角砂糖を5つほど放り込んだ。
「半分せいかーい、半分不正解~。ジュール様は、エンドがリャリスにちょっかい出さないようにオイラをくっつけてるの。空気読めないエンドが、オイラのこと無視して爆弾投下したけどね~」
オイラは空気~。とナシャは楽しそうだ。
リティルが視線を戻すと、口論にもそろそろ決着がつきそうだ。
「いい加減にしてくださいまし!」
「っ!……悪かった」
エンドが視線を床へそらし、掴んでいた手首を解放した。リャリスは、象眼細工の床に仕込んだ転移魔方陣で、ここからはかなり距離のある城の奥へ続く扉へ飛ぶと、部屋から逃げるように出て行ってしまった。
「おい、大丈夫か?」
駆け寄らずにリティルは、立ち尽くすエンドに声をかけた。
答えないエンドにシェラが「こちらにいらっしゃい」と声をかけると、小さくため息を付いたエンドはオウギワシの翼を広げて飛んできた。
「思い切ったな。どうしたんだよ?」
リティルの遠慮ない言葉に、エンドはふてくされたように答えた。
「苦しいなら玉砕しろって、親父殿に言われた」
「玉砕覚悟だったのかよ?」
コクリとエンドは素直に頷いた。
「それは、リャリスを悩ませてしまったわね」
「なんでだよ?あいつ、インジュが好きなんだろう?だったら、振ってくれればいいじゃねぇか!」
シェラの言葉に、エンドは顔を上げた。
「あなたとインジュを、リャリスは重ねているのよ。そうね、あなたはインジュがまるで、演じているような人だから、あなたを想っていないと答えてしまったら、インジュのことを振ったような気持ちになってしまうのではないかしら?」
「は?」
「あなたはインジュよね?エンド」
「インジュは……いねぇよ。本当に、いねぇんだよ!」
混乱して頭を抱えたインジュの隣に移動したシェラは、そっと体に腕を回すと、ヨシヨシとその頭を撫でた。
「あなたは、インジュの固有魔法で作られた人格よね?」
「……ああ、千両役者だ。あれは、インジュの性格をあいつの許可なく変えちまうかもしれねぇ、恐ろしい固有魔法だ。オレは、インジュの人格を守るように、無意識下で作られた。固有魔法・ジ・エンド・オブ・ザ・ワールドはオマケみてぇなもんだ」
理を1つだけ書き換える究極の魔法・ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド。エンドは、ある条件下で呼び出された時に限り、その魔法を使える。
「あの固有魔法が作られる以前から、エンド君はインジュの中にいたのか?」
ラスの言葉に、エンドは頷いた。
「ああ。こんなベラベラ話せる存在じゃなかったけどな。あいつは、封印でがんじがらめだ。それも、千両役者で、封印するそばから、封印した記憶のない人格を作り出して、上書きしてやがった。オレが人格として定着してからは、そんなヤバイことさせてねぇ。あいつ、千両役者のことも忘れてるしな」
「おまえが殺戮形態制御してるってのは?」
「そういうふうに書き換えたんだよ。嘘に嘘を重ねるとな、1つの矛盾から全部崩壊しちまう。オレの存在にだけは嘘がねぇように、全部本物にした。ただ、あいつの殺戮の衝動はヤバすぎて、オレじゃ制御しきれねぇ」
風の精霊は戦う宿命の為に、戦闘中に過度な恐怖心を抱かないように、特別な闘志を持っている。
殺戮の衝動。そう呼ばれる闘志は、風の精霊の危機に体を乗っ取り、敵を討つ最後の力を与えてくれる。深淵の鍛冶屋・ゴーニュが、元は風の王しか持っていなかったその闘志が風の上級以上の精霊にまで産まれていることを知り、殺戮の衝動を飼い慣らし、力を自分の意志で引き出せるようにと鍛え直しという修行をしてくれるようになった。
現在、自分の意志で変身、解除ができるのは、リティル、インファ、ラス、インジュの風四天王と、ラスの妻である歌の精霊・エーリュだけだ。
「あれがインジュのホントじゃねーのか?」
インジュの殺戮形態は、四肢がオウギワシのかぎ爪に変わり尾羽の生えた、おぞましい化け物の姿だ。耐久はあるが、素早さはインファのキングには敵わず、攻撃力もリティルのジョーカーに敵わない。
「インジュは最強の風の精霊だ。あんな弱いわけねぇだろう?インジュの本物の殺戮形態にゃ、専用の人格がいるんだよ。あいつは出てくる気がなくて、インジュもあいつのことはしらねぇ」
「闇が深いな……インジュ、どうしてそんなことになってるんだ?」
絶句するラスに、エンドは苦しげに俯いた。
「あいつは……臆病で優しいんだ。本来、戦えるようなヤツじゃねぇ。兄者、いや、騎士でいいよな?騎士を殺して殺戮形態が目覚めたあいつは、人格が1度崩壊しちまったんだ」
シェラは、リティルが隣で息を飲んだのがわかった。リティルは、その場面に立ち会っている。
原初の風という自分の存在を、リティルに還そうとしたインジュはあのとき、我を失っていた。そのインジュの手にかかり、かつてのノインは命がけで、インジュがかけた封印を解き、インジュが本来持っていた力のすべてを解放した。だがその代償は、インジュの心だった。それも、壊れていないことがわかったのだが、インジュの中で治した存在がいたことを、リティルは初めて知ったのだった。
やはり、煌帝・インジュは、あのとき、1度死んでいるのだ。
「殺戮の衝動は、宿る精霊を守る闘志だろう?千両役者を使ってインジュの人格を再構築して、オレの元になるモノを作ったのが、そいつだ。インジュは1からオレを作ったと思い込んでるけどな、オレはずっとインジュの中にいたんだ」
エンドと名を得る前のエンドは、インジュを守った殺戮の衝動から役目を与えられていた。インジュが今後、固有魔法・千両役者を使えないように制御しろというものだ。本当の創造主の命に従い、エンドはこれまでずっと千両役者からインジュの心を守ってきたのだった。
「ヤバいな……ついていけねーよ。ってことは、インジュ、二重人格じゃなくて、三重人格ってことなのかよ?」
そんな感想しか言えない自分が、リティルは嫌になるが、頭が理解の限界に達していた。
「まあ、そうなるよな。アジャラは出てこねぇから、今のままでもいいけどな」
「名前、あるのかよ!」
「ああ、アジャラだ。あいつは諸刃だぜ?殺さずの戒め無視して殺しまくるからな」
しかしながらエンドは知っていた。アジャラがそれはそれは美しく、それはそれは残虐である事を。穢れなきインジュと、彼を守る血の滴るアジャラ。清濁を併せ持つ精霊。それが、煌帝・インジュの真の姿なのだ。
「殺せる殺人鬼!ああ、違うか、死神なんだねー」
ナシャが場違いなほど、明るい声で笑った。
「インジュにとっても死神だぜ?味方だけどな」
「矛盾してるー」
「インジュは初めから矛盾だらけじゃねぇか。オレがいるから何とかなってるんだよ」
「エンド君……」
ラスが言葉を失いながらも、気遣わしげな視線を向けてきた。
「心配いらねぇ。インジュが戻ってくれば、何もかも元通りだ。あいつが戻ってきたら、もうどっか行かねぇようにシメとくさ」
エンドは何のことはないような顔で、笑った。その顔を見たリティルは、いきなり机の上の水晶球を掴んだ。
「インファ!戻ってこい!大至急だ!」
『了解しました。大至急戻るので、ゲートをお願いします』
リティルの言葉を聞いたインファは、まったく普段通りの様子で言葉を返してきた。
『え?待って、これどうするの?』
水晶球からは、戸惑うセリアの声が聞こえてきた。
『問題ありません』
背後で魔物の断末魔の悲鳴が聞こえた気がした。
シェラは終わったわねと、動じずに何もないホールのようなだだっ広い空間に、ゲートを開いた。
「もお!荒っぽいんだから!」
プリプリ怒りながらゲートを越えてきたのは、セリアだった。その後に、インファも続いている。
「王命ですよ?全力で答えるのが副官の仕事です。ただいま戻りました」
大型の魔物狩りに出ていたインファは、彼らしからぬ強引さで仕留めてきたらしい。怒るセリアとは裏腹に、インファは涼しい顔だった。
「皆さんお揃いですか?」
「ああ、悪いなインファ!」
トンッとソファーから飛び立ったリティルは、インファの前に舞い降りるとザッと説明した。一緒に話しを聞いていたセリアは「え?」と瞳を見開いて口元を押さえ、インファは険しい顔で、ソファーのエンドを見やったのだった。
応接間の向かいにある自室に逃げ込んだリャリスは、豪華なベッドにダイブして身悶えていた。
エンドが……エンドがいきなり!とリャリスはドキドキと混乱で、頭も心も爆発していた。
『おまえが好きだ』
インジュとは違う野性味を帯びた強い声で、エンドはそう唐突に宣言した。
思わず「私も好きですわ」と言ってしまいそうになった。
「あああああ……インジュが……ワイルドに……好きだ!なんて……」
気がついてしまった。エンドとは、インジュが演じているもう1つの人格であることを。
彼の存在は、完全な別人格ではない。鏡の前に立ち、鏡に映った自分を別の人だと認識しているような存在だ。
解離性同一障害ではなく、心の中の友達・イマジナリーフレンドだ。そこに、魔法的要素が加わって、一時的になら体を支配できる条件が組み込まれている。あまりに特殊で、あやふやな存在だ。
エンドはインジュなのだ。
わかっているのだろうか。エンドが自分をインジュとはまったく違うモノなのだと認識してしまうことが、いかに危険なことなのか、わかっていての告白だろうか。
「どうすれば……いいんですの……?」
エンドが自分を、インジュとは関係のない人格だと思っての告白だとしたら、答えることも拒否することもできない。
もし、自分はインジュであるとわかっての告白なら、リャリスは「わたしも好きですわ」と答えなければ嘘になる。しかし、そう答えてしまって自我が確立してしまって、インジュと争うようなことになってしまったら、作られたエンドは消されることになってしまうだろう。
「インジュ……エンドは大事な人格ですわよね?」
エンドは「インジュが戻ってくるまで、オレが守ってやる」と言ってくれた。インジュに離婚されて、話し合えないまま離れ離れになって、落ち込んで落ち込んでどうしようもない心を、エンドは寄り添って埋めてくれた。
そばにいすぎたから、リャリスはエンドの秘密に気がついたのだ。
「にしても……何なのですの!インジュの為に振ってくれって!だったら、秘めておいてくださいまし!」
リャリスは抱きしめていた枕をバーンッと投げた。
もう、徹底的に避けるしかない。告白の返事を、言うわけにはいかない。彼は、インジュの為にある人格だ。守るためには、解離させる要因となるリャリスが、離れるしかない。「太陽の城に、逃げればよかったですわね……。ああああ!私のバカ!」
どうやってエンドを守ればいいのか。
それを、ベッドの上をゴロゴロと転がりながら考えていたリャリスは、いつの間にか眠ってしまっていた。
エンドのことを考えていたからなのだろう。
夢は無情にも、悪夢だった。
背を向けたインジュに、どんなに声を張り上げても走っても、追いつけないのだ。エンドがそばにいてくれるようになって、それから見なくなった悪夢だった。
うなされるリャリスは、昼間の疲れもあり目を覚ますことはなかった。
隣のアトリエに続く扉が、音もなく開かれる。藍色の、歩くと細かな光がチラチラと光る、星屑の空のような絨毯に、アトリエからの白い光が落ちた。落ちた光は、翼を生やした人の形に黒く切り取られていた。
「インジュ……」
か細く呼ばれた名。とても、聞こえるような声ではなかったが、彼には聞こえる。オウギワシは耳がいいのだ。
エンドは後ろ手に扉をそっと閉じると、1人では大きすぎるベッドに近づいた。毛足の長い絨毯が足音を消し、エンドは布団もかぶらずに眠っているリャリスに易々とたどり着いた。足下からベッドに登る。
横向きに寝ているリャリスは、うなされる合間にうわごとを繰り返していた。
エンドは、彼女の体に触れないように跨ぐと、四つん這いで苦しげに眠るその横顔に顔を近づけた。
僅かに苦しげに開かれた唇から、浅く呼吸が繰り返されていた。エンドは、触れるほど近く、彼女の耳に唇を寄せた。
「大丈夫だ。リャリス」
その声は、口調はエンドだったが、声色はインジュだった。
フッと、緊張していた眉根から力が抜けて、リャリスの顔が穏やかになる。それを見届けて、エンドはリャリスの上から退いた。
リャリスの背中側に片膝を立てて座ったエンドは、ハアと深く息を吐くと、同じだけ息を吸い、歌い始めた。
風の奏でる歌――風の精霊と風の精霊が特別に教えた者だけが歌える、力ある特別な歌だ。
エンドは、その歌を、インジュと同じように歌うことができる。それを知っている者はいない。体を支配して歌ったことがこれまでなかったからだ。唯一聞いているリャリスは、いつも夢の中だ。
この歌を、インジュ以外の誰かに歌う日がくるとは、エンドは思っていなかった。
インジュは誰も、自室に入れたことがない。それは、襲ってくる殺戮衝動を鎮めるために、部屋の中で大暴れしていたからだ。
怪我してもすぐに治ってしまうインジュは、自分が壊した鏡で知らずに手を切って、よく血まみれになっていた。
鏡に映る自分の姿に怯えるように、いつも執拗に鏡を壊していた。
壊した部屋も彼の力で元通り直せるが、疲れ果てて、廃墟のような部屋で眠るインジュに、エンドはよく歌ってやっていた。といっても、まだその時は『エンド』としての性格も与えられていない、名もなき意識でしかなかったが。
それでも、インジュは一時の安らぎを得ていた。そう信じている。
エンドとしてインジュに目覚めさせられた時、インジュが、霊力を乗せなくとも十分に、すべての生命を魅了するような歌声を手に入れていて驚いた。
そして、歌うことを覚えたインジュは、もう殺戮衝動に翻弄されることはなくなった。インジュは、それをエンドの功績だと思っているが、違う。インジュは自分で克服したのだ。
エンドはただ、インジュのサポートのみに徹していた。インジュが好きなモノを守れるように、その心を守りながら。
だから、こんなことは想定外だ。
インジュの体を使って、リャリスを守ってほしいなんて、てめぇが守れ!と呆れた。だが、完全に不意を突かれたあのとき、インジュが主人格を賭けなければ、原初の風が穢されていたかもしれない。
「早く帰ってこいよ!」そう言うだけで精一杯だった。
実を言えば、オレの方こそ泣きたい。五感の鮮明なこの世界で生きていくことが、心細い。
インジュがいないことが、恐ろしい。しかし、インジュが戻ってくるまで踏ん張るしかない。インジュの体、原初の風――最低限、守らなければならない。
リャリスは、共闘するにはいい相手だと思っていた。だが、当てが外れてしまった。インジュは彼女を、か弱い乙女ですよぉ?と惚気ていたが、本当にそうだったからだ。気位の高い妖艶美女が全部演技だなんて、知ったエンドは愕然とした。夜、1人で泣きながら眠っている彼女も、守る対象なのだと、エンドは抱えなければならなくなった。
出任せでいった「落とす」が「落とされた」に変わってしまい、心の疲弊に加えて、体調までおかしくなった。
インファに言われたとおり、玉砕してみたが、砕け散れずに、どうやらエンドは大変な状態になっているらしい。インファに説明されたが、頭が理解することを拒否するように、何も頭に入ってこなかった。わかったことは、このままでは消滅の危険があることだけだった。インファには秘策があるようで「問題ありません」と飄々としていた。セリアが諦めたようなため息を付いて半ば自棄気味に「何とかしてあげるわよ!」と言っていたが、どうしたのだろうか。
さて、もういいだろう。
エンドは部屋に帰ろうと、ベッドを下りようとした。
「――エンド?」
ああ、しまった。昼間あんなに怒らせたのだ、リャリスは不法侵入したエンドに、烈火のごとく怒り狂うだろう。面倒だ。泣き顔も嫌だが、怒った顔はもっと見たくない。
「何もしてねぇ」
リャリスは寝返りを打ってこちらを向くと、眠そうに微睡んだ瞳をゆっくり瞬きした。その顔が、エンドには見えた。風の精霊の翼は、昼間の太陽の輝きが溶けていて、夜は淡く発光して見える。それは、仄かな光源となって、エンドの翼のそばにある顔を照らしていた。
「あなたは卑怯な人ではありませんわ。信じていましてよ?どうし……あら、そう問われるべきは私ですのね」
リャリスは、自分の涙に気がついたようだ。
「怒らねぇのか?」
「私のために、来てくださったのでしょう?怒ってはあなたの好意を、踏みにじってしまいますわ」
そんなに優しく笑わないでほしい。受け入れられていると、勘違いしてしまう。
「蛇女、好きだ……。だから、振ってくれよ」
そんな哀しい顔をなさらないで。リャリスは、寝転んだまま見上げるエンドの瞳が、こちらを見ない彼の瞳が泣きそうに歪んでいるのを見ていた。
「できませんわ。私、受け入れることも、突き放すこともできませんのよ」
「なんでなんだよ!」
苦しい!と、睨むような瞳で見下ろしてきたエンドに、リャリスは冷静な瞳を向けた。
「その理由を、あなたはわかっているんじゃ、ありませんこと?」
「オレは……何も……」
「インジュが1番大事だと、唱えてくださいまし。インジュを裏切らないと、それだけ強く思ってくださいまし」
「……わかった」
エンドはノッソリ動き出すと、何も言わずに部屋を出て行った。
リャリスは体を起こすと、真っ暗になった部屋の中でアトリエへ繋がっている扉を見つめていた。
インジュを突き放したようで、とても心が痛んだ。
リャリスは、あのときなぜジュールが、霊力強奪術を紐解いた研究資料を、まだ途中だというのに読ませてくれたのか、婚姻状態の可能性の考察を話してくれたのか、やっとわかった。
その日は、唐突に訪れた。すでに、インジュがいなくなって2年が経過していた。
問題が起こるときはいつも突然だ。準備なんてできやしない。しかし、やはり父は、花の王・ジュールはイシュラースの三賢者・筆頭なんだと思う。
「セリア!セリアはいるか!」
いつも冷静なノインが、声を荒げて帰ってきた。後ろに続いていたエンドが、なんとインファを背負っていた。
「どうした?」
ソファーにいたリティル、シェラ、そしてリャリスが一斉に立ち上がっていた。ワゴンのそばにいたラスが、水晶球を手にしていた。セリアと繋げているのだろう。
「霊力の枯渇だ!ラス急げ!」
ソファーを動かし、寝かされたインファの意識はすでになかった。風の精霊の証ともいえる翼がなくなっている。これは、深刻な事態だ。
「大丈夫。わたしなら与えられるわ。ノイン、フロインを呼んで」
「ああ、もう来るはずだ」
インファの前に立ったシェラは、息子の胸に手を当てた。シェラにあるのは無限の癒やしだが、その力は精霊のすべてに作用する。魂についた傷さえも癒やす癒やしの姫だ。
シェラが治療を開始してすぐ、城の奥へ続く扉からフロインが、数分後には中庭に面したガラス戸からセリアが帰還した。しかし、セリアにはインファが目を覚ましてくれないことには、霊力を与える術がない。見守るより他なく、歯痒そうだった。
「何があったんだ?」
珍しく大きなため息とともに、ソファーに頽れるように座り込んだノインに、リティルは声をかけた。
「オレが間に合ったのはたまたまだ」
今日は、インファとエンドが組んで魔物狩りに出ていたはずだ。ノインは別件で、ジュールの子供達である花の精霊と出掛けていた。花の王夫妻には、リャリスの他に、花の十兄妹と呼ばれる男女の花の精霊の子供達がいるのだった。十兄妹とはいうが、まだ人数は10人以下だが。
ノインは現地で彼等と別れ、帰還する途中、インファとエンドの魔物狩りに遭遇した。
さすが親子だなと思える連携で大型の魔物を屠り、それを見届けて帰ろうとしたノインは、突如、インファの翼が散るのを目撃した。あたりに魔物の気配も、何者かの攻撃も感じなかった。ノインは、安全にだけ気を配りながら、とにかく帰還したということだった。
「……もう無理なんだわ」
セリアが呟いた。
「お姉様?」
「リティル様!インジュは、まだ見つからないの?このままだと、エンドが……。もうインファだけじゃ霊力を賄えないわ。わたしが協力できても、えっと……回数制限があるし……シェラ様とフロインがついてても、無理よ!」
「そういうことか」
リティルに訴えるセリアの言葉に、エンドがため息交じりに呟いた。
「1年前は理解できなかったんだ。けど、親父殿の状態を見れば、嫌でもわかる。オレは、この体は、霊力が抜ける状態になってるってことだよな?」
抜けた霊力を、インファはどうにかしてエンドに与えてくれているのだ。しかし、霊力が無尽蔵ではないインファにはそんなことは長く続けられない。
この1年保ったのが奇跡だ。
「エンド……でも、でもね、何とかなるわよ!だって、インジュはどこかにいるんでしょ?」
諦めたようなエンドの様子に、セリアはグッとその手を握った。
「母上……でも、あいつ、帰ってこねぇ。帰って来るかもしれねぇけどな、それがいつになるのか、わからねぇ。この状態で待てねぇだろう?」
「嫌よ!嫌!やっと、やっとお母さんって呼んでもらえるようになったのに!」
「そこかよ!」
「だってぇ、インファが自慢してたのよ?オレには2人息子がいるっ!て。わたしは会ったことないのに、狡いって!宝石と風じゃ、もう1人なんてたぶん無理だし。消えちゃわないでよ!エンド!」
ふええんと聞こえてきそうな情けなさで、セリアは泣き始めてしまった。
強引に何度も何度も「お母さんって呼んでみて?」と強要され、今までは雷帝妃と呼んでいたエンドだったが、いい加減面倒になって「母上」と呼び方を改めていた。それが、本気で息子だと思っていての要求だとは知らず、エンドは驚いていた。
「……インジュが戻ったら、オレとは今までみてぇに話せなくなるんだぜ?」
「それでもよ!たまに出てきてるんでしょ?闘技場って、あんまり行かないけど、行けば話しくらいできるって聞いたわよ?でも、消えちゃったらそれもできなくなっちゃうじゃない!」
抱きつかれて泣かれて、エンドは困ったが、くすぐったそうな顔をしていた。
「お姉様、お兄様は、エンドに霊力を分けていたのですの?」
「ふえ?そ、そうよ?」
エンドに抱きついたまま、セリアはポロポロと宝石のような涙を流しながら、控えめに問いかけたリャリスに答えた。セリアはエンドを解放すると、涙を拭った。
「生命奪取を応用して、霊力をエンドに横流ししてたの」
生命奪取……とリャリスは頷いた。相手から生命力を奪う固有魔法だ。それの応用。さすがお兄様ですわねと、リャリスは思った。イシュラースの三賢者に名を連ねていなくても、既存の魔法の応用を思い付くインファの柔軟性はリャリスよりも上なのだった。
「いつからですの?」
「1年前だ。ほら、オレがおまえに言い寄ってたころだ」
もう、あれから1年も経つのかと、リャリスは思った。あの後、エンドは何も言わず、リャリスも触れずで、まるで、何もなかったかのように、いつも通りに日々を重ねた。
「わかりましたわ。エンド、今から私が言うことを復唱してくださいまし」
「はあ?」
「いいですわね?いきますわよ!」
エンドはリャリスの剣幕に押されて、了承していた。
「オレはインジュだ。さんはい!」
「あ?」
「復唱!」
「オ、オレはインジュ、だ?」
「もっと心の底からですわ!はい!」
「オレはインジュだ」
「もう一度ですわよ!はい」
「オレはインジュだ」
「ええ、そうですのよ。あなたはインジュなのですわ」
よくわからないことを言わされたエンドは本気で戸惑っていた。周りの者も、何が始まったのかとこちらを注目していた。
エンドはインジュ。消えてはならない、もう1人のインジュ。
リャリスは握った両手の平に力を込めると、そっと開いた。キインッと高い音が響き、彼女の手の平には、シックな色合いの6つの異なる四角い色ガラスの嵌まったブレスレットが乗っていた。
「受け取ってくださいまし!」
「お、おい」
「問題ありませんのよ?あなたはインジュなのですもの!」
「ちょっと、待て!」
「いいえ、待ちませんわ。戻ってきたインジュがとやかくいうのであれば、私が説得しますわ!だから、お願いしますわ」
グイグイとブレスレットを押しつけられて、エンドは困惑していた。これを受け取る意味を、エンドも理解しているのだ。
「できるかよ!」
「受けていただきますわ!私と婚姻を結べば、助けられますのよ」
「霊力の交換か?だったら無理だ!この体は、インジュの体なんだぜ?」
「さすがにインジュを差し置いて、私の初めてはあげませんわよ?私なら、一方通行ですけれど、霊力が送れるのですわ!ですけど、婚姻状態でなければ発動しないのですのよ」
ガシッとリャリスはエンドの手を取って、ズイッと顔を近づけた。
「インジュの為に、消えるわけにはいかないのではなくって?」
「それは!なら、あいつが戻ってくるまで、封印するなり何なりすればいいだろ?」
「私、そこまで薄情ではなくってよ?エンド、あの日の告白の返事、今いたしますわ」
エンドが掴まれた手を引こうとした。それをリャリスは渾身の力を込めて握る。
「あなたが好きですわ。私の夫となってくださいまし」
「な――んで……いや、嘘だろ?」
「嘘ではありませんのよ?ワイルドなあなたの好きだ!にときめいてしまいましてよ?ねえ?鏡の中のインジュ。エンド、あなた達2人は、そういう関係ですわよね?」
「……オレは、インジュじゃ――」
「いいえ、あなたはインジュですわ。インジュの心を守るために生み出された虚像、それがあなたですわよね?消えないでくださいまし。本体と共に、愛してさしあげてよ?」
エンドは震える瞳を、リャリスから引き剥がすように俯いた。
「許されるわけ――」
「許しますわ。これが、煌帝妃・リャリスの答えですわよ!」
リャリスは、スルリとエンドの手首にブレスレットをはめると、強引に贈られたことを抗議しようとでもしたのか、顔を上げたエンドの唇を奪っていた。
数秒。ただ触れるだけの口づけ。だったにも関わらず、時間が止まって感じられた。
エンドは瞳が閉じられず、瞳を閉じたリャリスの顔を見つめていた。
「……瞳を、閉じてくださいまし……恥ずかしいですわ……」
顔を離しはリャリスは、乙女のように恥じらった。
「悪い。……じゃあねぇ!なんてことするんだよ!」
「それを外したり壊したりしたら、お父様にお仕置きしてもらいますわ。お父様、あなたのことが気に食わない様子でしたもの、嬉々としていたぶってくださいますわよ?」
「なっ!」
「それより、霊力、留まっていまして?」
「ああ?………………嘘だろ……?なんで?」
リャリスにポンポンと言葉を紡がれ、反論は殆どできなかった。言われるがまま、自分の胸に手を当てると、あれだけ死に向かっていた体が安定していた。
「お父様に感謝ですわ。霊力強奪術と婚姻状態時の霊力の受け渡しの可能性。戯れに魔法を構築しておいてよかったですわ。口づけで霊力を送れる魔法ですのよ。私からしか送れませんけれど」
「おまえ……」
「なんですの?惚れ直しまして?あら――?」
グラッと体が傾いだ。エンドは咄嗟に抱き留めていた。
初めての魔法で、加減を誤ってしまった。エンドに霊力を与えすぎて、足の力が抜けてしまうほどの疲労を感じていた。ちゃんと抱き留めて、そして心配そうに見下ろすエンドに、キュンとする。
「フフ、温かいですわね」
抱き留められたことをいいことに、しな垂れかかるように抱きついてきたリャリスに、エンドは盛大にため息を付いた。しかし、吐き出された声は、怒りも呆れもなく、少しだけ嬉しそうだった。
「おまえなぁ……もう、どうとでもしろよ」
この選択が、インジュとエンドの間に軋轢を生むかもしれない。そんな恐怖はあるが、リャリスにはエンドに、これ以上苦痛を感じてほしくなかった。リャリスが、元ではあるが煌帝妃として、もう1人のインジュに何もしないで、彼が言うように封印などしてしまうことが、どうしても許せなかった。エンドが、インジュの為だと言ってリャリスを守るその心が、インジュと同じ熱を持っていると気がついていて、それを、私が想っているのはインジュだからと、切り捨てられなかった。
虚像であるが故に、出てくることのできないエンドに、こんな苦しみを課したのは、他でもないインジュだ。
インジュがこの体か出て行かなければ、エンドがリャリスの前に現れることはなかった。エンドはインジュの中から見ていたと言ったが、本当に、甘い雰囲気になると奥へ引っ込んでいたようだ。そんなふうに遠慮させて、好き勝手やっていたインジュに怒りすら湧く。
2人とも愛す。
所詮、智の精霊は、穢れた蛇。夫が2人いたって、そんなものは些細な事だ。むしろ、妖艶さで男を誑かして知識を奪う悪女な魔女と知れ渡った方が、強がって演じなくていい分楽なのでは?とさえ思う。
インジュがよく思わなかったとしても、それはそれだ。
3年間もほったらかしたのだ。彼にだって、大いに責任はあるのだから。
こんな行動に、エンドはきっと呆れている。
「オレが信用できねぇのか!」と怒られそうだ。信用している。彼は本当にインジュが1番だ。だが、インジュがどうなのか、わからなかった。
エンドが「おまえ、男が怖いのか、インジュが怖いのかどっちなんだ?」と聞いてきたことがあった。
考えた事もなかったことを問われ、リャリスは瞳を瞬いた。
「恐れていたら、同衾など許さないと思いますわよ?」
広いベッドで、肩が触れ合うほど近くで座っているエンドを、リャリスはしげしげと見つめた。そうするとエンドは絶対に顔を背ける。「近いんだよ!おまえ!」と言って。
「あのな。インジュが、おまえが怖がってるって悩んでたんだよ。オレは、寝室でのことは知らねぇから気のせいだろう?て言ってたんだけどな、本当の所、どうなんだよ?」
リャリスは身に覚えがなくて、悩んでしまった。
「寝室でと言われましても、私たち、白い結婚ですのよ?インジュも、いやらしいことは一切?きゃっ!」
「そうかよ?」と聞こえた気がした。気がつけばリャリスは、エンドに押し倒されて上から見下ろされていた。
インジュとは違う、野性味のある切れ長の瞳が感情なく見下ろしていた。ドキッと胸が高鳴った。
「エンド?……え?」
そっと綺麗な指が頬を撫でた。リャリスはピクッと驚いて身を振るわせた。
「……緊張してるか?」
「あ、当たり前ですわ!」
「他には、何か思ってたりするのか?」
「ほ、他?そ、それは……その……き、期待……ですわね……」
「期待?」
エンドは首を傾げた。リャリスはイラッとした。夫にこんなことをされて、期待しない妻は冷めている。冷めまくっている。もう、婚姻など解消してしまえばいい!精霊は本来、軽い種族なのだから、相手の霊力を得て満足なら、さっさと離婚すればいいのだ!
「す、好きな人に、触れてもらえるかもしれない期待ですわよ!わ、私……お父様に知っておけとは言われましたけれども、そういうこと、あまり知識がないのですわ!知らない事へ恐れを抱くのは当然ではなくって?緊張もしますし、心臓もどうかなってしまうのではないかと思えるほどですのよ?」
何を言わされているのかと、惨めになる。リャリスは緊張と胸の高鳴り、見下ろしているエンドの眼差しの違いに翻弄されて、泣き出していた。
「悪い。泣くなよ。悪かった」
上から慌てたように退こうとするエンドの腕を、リャリスは掴んだ。
「キスしてくれたら、許してさしあげますわ」
「わかった。わかったから、泣き止めよ」
霊力を与えるために、エンドは定期的に口づけを交わしている。だが、いつもリャリスからだ。エンドは気がついているだろうか。彼からの口づけは、これで2度目だということを。
リャリスは、ゆっくり近づいてくるエンドの顔を見ていられなくなって、ギュッと目をつぶった。いっとき間があり、リャリスが「?」と思った時唇を触れられていた。
短いリップ音を残し、唇が離れる。
「おまえ、そんな嫌そうにするならキスなんか強請るなよ」
「え?何を言っていますの?嫌だったらキスしてなんて、言いませんわよ!私、こんな見た目ですけれどふしだらではありませんわよ!」
ヒドい!酷すぎる!インジュに遠慮して、距離を取っていることはわかっているが、想い合っていることは確かなのに、それを疑われているのだと思ったら、哀しくて、再び涙が溢れてしまった。
「は?え?だっておまえ、今すげぇ勢いで、目を閉じたじゃねぇか!早く終われ!みてぇな顔して!」
エンドが焦っている。そして、無体なことを言われる。
「そんな顔してませんわよ!あなた、キスしてくれるの何度目だと思っていますの?婚姻結んでからは初めてですのよ?は、恥ずかしくて、緊張するのは当たり前ではありませんこと!」
泣きながら怒鳴られて、エンドは、インジュが誤解していたことをやっと知った。
「インジュを、嫌がってたわけじゃねぇのか?」
リャリスも悟った。インジュが触れてこなかった理由を。彼は、緊張と羞恥で強ばるリャリスを見て、嫌がっていると思っていたのだ。
「……お慕いしていますわ」
「!」
キッと睨んでエンドを見上げれば、彼は途端に挙動不審になった。
「そ、そういうことはインジュに言ってやれ!」
エンドは翼を広げると、逃げるように部屋を飛びだしていった。
「言っていましたわよ……けれども、伝わって、いませんでしたのね……」
なんだ。わかってしまえば簡単なことだった。
インジュが、霊力強奪術をかけただけで離婚に踏み切ってしまった理由。それは、私に嫌われていると思っていたから。だったのですわね……リャリスは、再び込み上げてきた涙に、顔を覆って泣いた。
それから数日後だった。
本当は、口止めされていると言いながら、リティルがインジュに会ったことを、エンドは教えてくれた。
口止めされていた理由はわかる。教えれば、リャリスが行ってしまうと、リティル達が警戒したのだ。
わかっているが、止められなかった。
嫌われていると思い込んでいるあの人が、許せなかった。
気遣ってくれるエンドに、嫉妬を向けるかもしれないことも、許せなかった。
逃げられてしまうとしても、リャリスは、エンド抜きでインジュに会いたかった。
それは、勝手な思い込みで離婚された元妻の意地だった。
それがまさか、もっとも恐れる者に捕まってしまう羽目になるなんて、思いもよらなかった。