一章 旧時代の暴君
事故だった。
自暴自棄になって、最後の詰めを誤ったが為の事故。
インジュは、死の門と呼ばれている、真ん中から横へスライドして開く、ここにしかない開き方をする金属の扉の中にいた。
仄明るい何もない空間が、永遠に広がるようなそこに、禍々しい人型の黒い靄がいた。
『今回の反魂、彼は、死を選ばなかったな』
気さくに話しかけてくるこの靄とは、滅する勢いで戦った宿敵だ。いや、妻を取り合った恋敵というヤツかもしれない。
『そうですねぇ。反魂は、やっても化け物が生まれるだけで、術者の精神はもれなく壊れちゃって、絶対に成功しないって知ってるはずなんですけどねぇ』
インジュは首を竦めた。
だが、反魂を行ってしまう者の気持ちはわかる。
皆、会いたいのだ。死んでしまった愛する者に。だから、成功しないとわかっていても、それに手を染めてしまう。
風の王は、そうやって反魂を行った者を斬ってきた。それは、輪廻の輪を乱す行為だということと、術者は気が狂い、なんだかわからない化け物が産み出されているからだ。
術者は、風の王に引導を渡される瞬間、正気に返る。そして、死なねばならない自分を憂い「なぜ、求めてはいけないのだ?」と恨み言を呟く者もいるらしい。
いやいや、あんたもう精神壊れてますからね?多忙な世界の刃、あんたの個人的なことで引っ張り出さないでくださいよぉ!と、死とは反属性の産む力が強すぎて、反魂の断罪に関われないインジュは思う。
『それにしても、術者の精神が壊れちゃう理由、旧時代の粒子のせいだったんですねぇ』
インジュは、目の前の靄に視線を投げた。
『そう。反魂はこの門を開く魔法だ。この中にある旧時代の粒子が、外へ出てしまうんだ。それが動力となって化け物の体を動かし、この世界の住人の精神を犯してしまう。これまではそれを楽しんでいたけど、今は見ていて気持ちのいいものではないな』
落ち着いた声色で、彼は、本当に命を取り合った宿敵とは思えない変貌ぶりだ。
『オリュミスさん、丸くなっちゃいましたねぇ。今のオリュミスさん、別の意味でリャリスに会わせたくないですよぉ……』
首を竦めたような彼を見て、インジュは苦笑した。
インジュは、門の中の彼を『オリュミス』と呼ぶようになっていた。それは、彼の本当の名ではないが、旧時代の発音は聞き取れず口に出せずで不便だったからだ。
今でこそ、穏やかにまともに話しができるが、ここまでくるまでには本当に根気がいった。
インジュは旧時代の遺産である、知識の詰まった精霊の至宝・蛇のイチジクの継承者、智の精霊・リャリスの夫だ。いや、元夫だ。
蛇のイチジクは、元旧時代の住人で、旧時代を滅ぼした者の片割れだ。
彼女は、最後の王となった暴君の妃で、その王は、彼女から知識を引き出すために薬や魔法を使って、無理矢理に知識を得ていた。蛇のイチジクは、助け出されるまで錯乱していたらしい。
その暴君が彼、オリュミスだ。
今を生きるリャリスには関係のないことだったが、彼女にはその知識が受け継がれている。彼には恐怖しかないだろうにリャリスは、この死の門を開き、中に囚われたある魂を助け出すために尽力してくれた。
旧時代を滅ぼした片割れ、黄昏の大剣。黄昏の大剣の継承者である力の精霊に、行き違いから無実の罪で断罪されてしまった13代目風の王・インティーガの魂は、この門の中に囚われてしまい、この世界の輪廻の輪に還すには、門の中から取り出さなければならないかったのだ。
反魂の唯一の成功例となったその事案で、インジュが無理矢理こじ開けた為に一時この『ロミスの門』は開きっぱなしになり、オリュミスはここぞとばかりに攻撃を仕掛けてきた。
門を閉じるには、リャリスの力が必要だった。インジュは、妻を門に関わらせたくなくて、彼女の力を奪い、単身門を閉じに向かったのだ。そして、詰めを誤り、意識体が門の中に囚われ今に至る。
『インジュ、何度も言うが、帰った方がいい。ボクはこれでも王だ。役目はわかっているつもりだ』
彼、オリュミスは享年16才だ。ちなみに今代の風の王・リティルは、精霊的年齢19才。
生きている時間は、精霊的年齢23才のインジュよりも長いのだが、リティルは、インジュの目から見ても脆さを抱えている王だ。そのリティルよりも年下で、出会った頃獣のように狂っていたオリュミスを思うと、今、まともになったからと言って、すぐに手を放すことはインジュにはできなかった。
『もう少し、もう少しだけ一緒にいさせてくださいよぉ。ボク……帰り辛いんですよねぇ……』
それは本当だ。
インジュは、門を閉じる為と言って、妻から無理矢理霊力を奪ってしまった。
それは、オリュミスがかつて蛇のイチジクにしたのと、何ら変わらない所業だ。言い訳はしない。彼女に、嫌われていてもおかしくない。いや、絶対に嫌われている。
『インジュ、蛇のイチジクは気高い女性だ。おまえを、自分を想ってくれた人を嫌悪するはずがない。ボクは、おまえがボクを救う代償に彼女を失ったのだとすると、耐えられない』
『気にしないでくださいよぉ。ボク達精霊のこと、説明しましたよねぇ?ボク、不能なんで、この婚姻、期間限定だったんですよぉ。ボクには、オリュミスさんに対抗する力があったんで、リャリスの夫に選ばれただけです。あはは……守りたかったんですけどねぇ……そのボクが……1番やっちゃいけない方法で、傷つけちゃいました。だから、もう、いいんです』
俯いたインジュは、パッと顔を上げるとふんわりと丸い明るい笑みを浮かべた。
インジュに、こうやって笑顔を向けられるとオリュミスは何も言えなくなる。
守りたかった……と言った声色は、期間限定ではない想いがあったことを告げている。
傷つけた。傷つけたのだ。完膚なきまでに。壊してしまった。また……
何も言えなくなったオリュミスを、インジュは見上げた。そしてフッと笑う。
表情はわからなくても、あなたが、悔やんでること、ヒシヒシ伝わってきますよぉ?悔やんでくれるなら、ここに来た甲斐があったと、インジュは満足だった。
この世界の事を、インジュは教えてくれた。
こと、風という精霊のことを。
オリュミスは、本能的に、風の王を狙っていた。あれを取り込む事ができれば、この世界を支配できるとそう思っていた。
『たぶん、間違ってないと思いますよぉ?風の王は世界の刃です。命を奪うことを許された精霊なんです。それから、3つの異世界を自由に行き来できますし。だけど、力の精霊っていう怖いお目付役がいますよぉ?』
力の精霊――オリュミスは苦い気分になった。彼の継承している精霊の至宝・黄昏の大剣。
それは、旧時代を滅ぼした騎士が姿を変えたモノなのだ。
オリュミスにとっては、天敵といえる精霊だった。しかし、本当の関係は違う。
『よくできてますよねぇ。風の王が世界にとって敵になると、力の精霊が清算するんです。オリュミスさんが万が一風の王を乗っ取っちゃっても、力の精霊が殺しに来てくれますよぉ?』
怖いですねぇと笑うインジュが、からかってきていることはわかる。
『しない。黄昏の大剣は、ボクの教育係だった。ただの部下ではないんだ。あいつになら、王家がなくなった後の世界を託せると、そう思ったはずだった……』
それがなぜこうなった?正気を取り戻したオリュミスは、狂っていた時の事を思い出してはモヤモヤしているようだった。
『オリュミスさんも役者ですねぇ。残虐非道冷酷無慈悲女性は食べ物の鬼畜王。あれって、演技ですよねぇ?演技だったのに飲まれちゃうって、どこまでボクと似てるんですかぁ?』
『……ボクは、演技が高じて二重人格になったりしない。インジュ、体は無事か?』
オリュミスはインジュがここへ来た頃、本当に傲慢で残忍で、人として破綻していた。そんな彼と真っ正面から対峙して、インジュはふと、この人王様だったんですよねぇ?こんな人、王様にしておきますぅ?16才ってそんな子供、簡単に殺せちゃいそうですけど。と疑問に思った。
後で判明したが、黄昏の大剣は、かなりの人格者だったらしい。そんな人に育てられて、あそこまで残念な人間ができあがるのか?と不思議だった。ただ、オリュミスがそんな人間になってしまったから、黄昏の大剣は反旗を翻した。と言われると納得できるのだが……。
『大丈夫です。……そのはずです。エンド君がいるんで。エンド君なら、なんとかしてくれます!』
『そうか。だが、ずっとここに居てはいけない。旧時代の粒子はこの世界の住人には毒だ。おまえの精神にどんな影響があるか……』
いい人なんですよねぇ……。インジュは、オリュミスをここに1人にしたくなかった。
だが、今、意識体でしかないインジュには、風の仕事をかすめ取って、術者の命を守る遊びに興じるくらいしか、彼に寄り添う術がなかった。
『大丈夫ですよぉ。ボク、この世界最強の産む力の化身なんで、死に冒されたりしません』
『受精させる力……だのに、なぜおまえは不能なのだ?』
『そ、それは……精霊だから。かなぁ?』
インジュは嘘が苦手なようで、目があからさまに泳いだ。
『それでは説明にならない。不老不死である精霊は、種を保存するために交わるのではないと、教えてくれたのはおまえだ。精霊の婚姻は、相手の霊力を得るために結ばれる。だがおまえは、不能故に肝心な霊力の交換が行えない。インジュ、婚姻は戦略だと言ったが、本当は違うのだろう?なぜ、逃げる?』
最近、そこばかり突かれる。これだけ言葉を濁せば、そこから切り崩せると思われて当然だ。
『……相手の霊力を得る方法、霊力の交換だけじゃないんです。リャリスを傷つけたって言ったでしょう?ボクが使った手は、霊力強奪術です。あれは、素人が使うと、もれなく心と体を、そのぉ……気持ちよく……しちゃうんですよぉ……。蛇のイチジクには、旧時代の記憶があるんですよねぇ?それなのに、ボクは、暴れられないように押さえつけて、無理矢理奪っちゃいました。それって、強姦っていいません?』
泣きそうな顔で、インジュはオリュミスを見上げた。
『怖いんです……リャリスに嫌われることが……。だったらやるなよって、ホントにそう思うんですけど……あの時は……』
オリュミスと対することができる、黄昏の大剣の継承者である力の精霊は、先の戦いで傷を負っていた。
力の精霊・ノインは、インジュにとって、師であり、智の精霊の相棒という嫉妬の対象だった。彼に、リャリスを守らせるわけにはいかなかった。弟子としても、夫としても負けるわけにはいかなかった。
インジュは、リャリスに霊力を得る方法はないかと問うていた。だが、戸惑う彼女が怯えているのだと思って、きちんと話すことなく逃げてしまった。
翌日だった。オリュミスが持てる力を使って攻めてきたのは。
守るため。そういえば聞こえはいいが、インジュは、リャリスの同意なく襲って、彼女の霊力を手に入れ、単身、残虐非道冷酷無慈悲女性は食べ物の鬼畜王と対し、見事門を閉じたが、それが何だというのか。
旧時代の記憶を持ち、今世では経験のないリャリスに与えた精神的苦痛は、どれほどのモノだろうか。インジュは意識を失ったリャリスに、婚姻の証を返していた。
精霊の婚姻は簡単だ。自身の霊力で作ったアクセサリーを贈り合うだけで成立する。離縁は、ただ贈られたアクセサリーを放棄するだけでいい。
だが、帰らないつもりはなかった。
投げやりだったその心の隙をつかれ、オリュミスに反撃され、インジュは意識体で門の中へ引きずり込まれた。
この世界の力では、滅することのできないオリュミスと、門の中で散々やり合いながら、インジュは、前記の疑問を感じて彼に問いかけた。
『あなたは、どんな世界を生きてきたんですかぁ?』と。
オリュミスは意外にも、答えた。最初は支離滅裂で、ウンザリするくらい上から目線で、話しを聞くのも大変だったのだが「それで、どうなったんです?」と問うと、律儀に返してくるのだ。彼の語る物語が終わる頃には、憑き物が落ちたかのように、まともと言える人格になっていた。
『思い出した……ボクは殺される為に、黄昏の大剣の前に立ちはだかったのに、世界を、道連れにしてしまった……』
動きを唐突に止めたオリュミスは、放心したようにそう言った。このまま死んでしまうような気がして、インジュは思わず抱きしめていた。
『もう、いいじゃないですかぁ。そんな虚勢いらないですよぉ。だって、世界はちゃんと続いてます。黄昏の大剣も蛇のイチジクも、別の人生生きてます。もう、いいんです』
終わりましたよぉ?インジュの言葉に、オリュミスは救われてしまった。
旧時代のすべての命を道連れにしてしまったのに「もう、いいよ」と言われてしまって、抱きしめられて、オリュミスは許されてしまった。
このまま、目覚めた心を抱いて、このままでいられるのか?オリュミスは断罪を恐れたが、インジュは守るようで、未だにそばにいてくれる。
インジュを、手放さなければならないのに、帰るのが怖いという彼の言葉に強く言えずに、オリュミスはズルズルと、反魂を行う憐れな魂を守る遊びを、止められないでいた。
この世界は、風の王によって守られている。
もう、インジュがいなくても、反魂の断罪にやってくる風の王達が到着するまでの間、術者を旧時代の粒子から守ってやることはできる。
風の城へ戻ったインジュが、何をしていたのか王に話せば、反魂の断罪は同じ手法で行われることだろう。
インジュの話では、15代目風の王・リティルは有無を言わさず殺さない王だという。
インジュの行う方法は、彼の王に受け入れられるだろう。
門が開き、インジュがいつものように術者に問いかけた。
『どうします?彼女に殺してもらいますかぁ?今なら、あるモノをボクにくれれば、助けてあげますよぉ?』
年若い男の答えは、意外にも化け物となった彼女に、殺されることだった。
『そうですか』
頷いたインジュは、ふんわりと柔らかく微笑んだ。彼は、術者がどんな選択をしても、こうやって微笑む。
『あなたの魂は、ボクが、彼女さんが先に逝った輪廻の輪に、乗せてあげますよぉ?』
男は笑った。どこか嬉しそうに。
『また、巡り会うことを、祈ってます。サヨナラ』
蜘蛛のように、腕が6本ある髪の毛の化け物は、男を掴むと体を感情なく引き裂いた。化け物は、何かをブツブツと言い続けていた。インジュには、その言葉が聞き取れたことはない。
この中にいるのは、旧時代の何かだ。今、物言わぬ骸となった彼の愛した女性の、欠片もないのだ。
『残念だと思うか?』
オリュミスはなぜか、そんな言葉をインジュに投げ掛けていた。インジュの手には、今し方、化け物に引き裂かれた男の魂があった。魂の輝きがくすんでいる。それは、反魂に手を染めたために、旧時代の粒子が混じっている為だ。インジュは、それを歌声1つで引き剥がし、輪廻の輪へ乗せてしまう。
ここへ来る前はできなかったことが、風の王の風もなしにどうやっているのか、オリュミスにはわからない。
『いいえ。この魂が選んだ道ですからねぇ。ボクから言えることはないですよぉ。それに、風の精霊に斬られるよりマシです。旧時代の粒子に犯された魂は、砕け散るしかないですからねぇ』
『そうだな。砕け散った魂は、ボクと一緒に門の中だ。そうなったら、もう、この世界に還れはしない』
『そんな理だったんですねぇ。ボク、殺せないんで、反魂の断罪は関わったことなかったんですよねぇ。ああ、すみません。あなたも辛いですよねぇ?今、送りますねぇ』
そう言ってインジュは、髪の毛の塊を優しく撫で、魅力的なその声で歌い始めた。荒んだこの心にも染み入る、インジュの極上の歌声。この歌声で葬送されるのは、贅沢だ。
贅の限りを尽くしたオリュミスも、そんなことを思うくらいの代物だ。
彼の歌声で、化け物の中に入り込んだ旧時代の粒子は回収できる。これを回収して、門を閉じれば完了だ。
インジュは、優秀だ。これでも王をしていたオリュミスは、使える駒か使えない駒かくらいはわかる。
今回も問題ないなと、門からインジュの姿を覗いていたオリュミスは、門の中へ戻ろうとした。が、オリュミスは咄嗟に黒い靄の腕を放っていた。
『インジュ!』
黒い靄の腕が刹那インジュを捕らえる。
『オリュミスさんダメです!』
魂の葬送が終わっていたことは幸いだった。
化け物が、金色の一閃に切り裂かれ、消えていった。化け物に近い位置にいたインジュは、オリュミスが咄嗟に黒い靄の手で掴んでくれなかったら、巻き添えを食っていただろう。
「インジュ?おまえ、どうして!」
化け物を切り裂いた風が、オリュミスを襲っていた。あれは、風の王の風だ。あれに触れればオリュミスはひとたまりもなく、門の中へ押し戻される。オリュミスはそれでいいと思った。
だが、そうならなかった。インジュが躊躇いなく抱きしめるように覆い被さってきたからだ。オリュミスは、日向に落ちる影のように目も鼻のない顔を上げ、門に両手をついて、風の王に背を向けているインジュの顔をマジマジと見つめていた。
唖然としながらも、インジュに巻き付いた靄の腕を、ちゃんと回収したことは褒めてほしい。
『大丈夫ですかぁ?オリュミスさん!』
なぜ、庇う?この状況で!唖然として動けないオリュミスに関係なく、門が閉じかける。
『帰れ。迎えだろう!』
『嫌です!今は、帰りません!』
閉じる門に体を滑り込ませながら、インジュは風の王を振り返る。
『見逃してください!リティル!って、逃げますけどねぇ!』
インジュを飲み込んで門は閉じた。キインッと高い音が響き、門は消失していた。
「インジュ……」
リティルは、動かなくなった化け物と、切り裂かれた男の死体を前に立ち尽くした。
『何を考えている!あれでは、誤解された!』
『あはは……言わないでくださいよぉ……まずったなって、思ってますからぁ。でもこのままじゃマズいですねぇ……』
戻って早々、オリュミスに咎められた。そんなオリュミスに、インジュは乾いた笑いを返した。
『ボクが、オリュミスさんに取り込まれたって思われちゃったら、オリュミスさんの身が危ないですねぇ……』
困ったな……とインジュは彼には珍しい真面目な声で、悩み始めた。ボクの心配か?とオリュミスは呆れた。
『ボクは痛みも感じない。おまえ達の思う死もない。インジュ、いい機会だ。帰れ』
凄んでみたが、インジュには軽く受け流されてしまう。
『オリュミスさん……1人になっちゃいます……改心させちゃった手前、1人になんて絶対にできないです』
『おまえがここにいなければ、ボクは門が開くまで寝ているだけだ』
『殺せないボクは、反魂の断罪から外されてます。ボクが何言っても、オリュミスさんに関わらせてもらえませんよぉ』
『インジュ』
『はい』
『選択の時だ。ボクかリャリス。どちらか選べ』
オリュミスは声が震えないように、必死だった。
『ならボクは、オリュミスさんを選びます』
『なぜ!?』
もう頭を抱えるしかなかった。リャリスのことを話すとき、怖い逢えないと向き合うことを拒否するくせに「好きです」と繰り返す。そんな人とを天秤にかけられ、即答で選ばない選択をするインジュが、理解できない。
『リャリスには、片割れのボクがついてます。エンド君なら、リャリスを癒やせます。でも、オリュミスさんには、ボクしかいないじゃないですかぁ』
バカだ。それも筋金入りだ。オリュミスは、インジュの答えに救われている自分を自覚した。
『だが、そうだとしても、インジュ、おまえは帰還しなければ……』
『だったら、オリュミスさんも考えてくださいよぉ!』
『何を?』
『一緒にいられる方法をですよぉ』
どうしてこう、真っ直ぐなんだ?オリュミスは僅かに苛立った。
『ない。そんな方法はないのだ。ボクは、この世界の敵だ。認められることはないのだ。蛇のイチジクと黄昏の大剣は、ボクが風の王に干渉しないように、この世界に遺った。彼等に受け入れられる事はない。おまえと和解できたとしても、ボクという存在が、風の王の脅威であることには変わりない!旧時代の粒子が毒であることは、覆りようがないだろう!』
『何かあるはずです!オリュミスさんには心があるんですよぉ?それにはきっと、意味があるんです』
『……インジュ……ボクは、門が開くその刹那、おまえに会えるだけでいい。門が開くまでボクは眠る。おまえが言う寂しさは感じない』
『オリュミスさん……あのぉ、この場所ってどこにあるんです?』
ん?オリュミスは答えに詰まった。どこ?どこと言われても、オリュミスにも認識できない。なぜなら、オリュミスは、この世界の住人ではないからだ。
『ノインも場所がわからなくて、探してましたねぇ……黄昏の大剣の所有者のくせに、肝心なことわからないんですよねぇ……』
『おまえ、黄昏の大剣と仲が悪いのか?』
前々から思っていた。この世界では、力の精霊と呼ばれている、死の門に対抗できる黄昏の大剣の所有者。2代目だという所有者はノインという名の精霊だ。確か、風の王・リティルの兄だという。
『仲悪くないですよぉ?でも、リャリスを守るのはボクの役目なんで、しゃしゃり出ないでほしいですよねぇ!黄昏の大剣が蛇のイチジクを守ってたのは、旧時代の話でしょうがぁ!今はボクがいるんだから、気安く近づかないでほしいです!』
あの人の奥さん、ボクの姉ですよぉ?とインジュは、黄昏の大剣と蛇のイチジクが、騎士と姫のような関係であることが許せないらしい。
ハアとオリュミスはため息を付いた。
どうしていきなり、子供っぽくなるんだ?オリュミスは感じるはずのない頭痛を感じた。
『黄昏の大剣は、蛇のイチジクをそんな目で見たことはない。あいつは本当に、物語でいうなればヒーローだ』
そう言って、空しくなった。
彼をヒーローにするつもりが、世界を滅ぼした剣にしてしまった。そして、お膳立てしようとしたオリュミスは、今の今まで自分自身を見失い、この世界に散々迷惑をかけてしまった。
オリュミスは、旧時代の支配者に滅んでほしくて、反乱を企てた黄昏の大剣に加担したのだ。蛇のイチジクを助け出してくれるように、オリュミスを支配者側として、一緒に滅ぼしてくれるように策を張り巡らせた。黄昏の大剣はオリュミスの思惑通りに踊ってくれた。
唯一の誤算は、演じていたはずが、いつの間にか役に飲まれていたことだ。なぜそうなったのか、その原因はオリュミスにもわからない。
だが、そのせいで世界は滅び、旧時代のすべての命は、新たな世界では毒の粒子となり拒絶され『ロミスの門』に封じられた。
オリュミスは、世界を滅ぼした暴君となった。
今現在の黄昏の大剣の継承者のノインと話す機会があったなら、嫌悪されるだろうか、呆れられるだろうか。
『あの人まで恋敵だったら、オリュミスさん以上に拗れてます!僕、ノインに勝ったことないんで!ああもお!ノインの話しは止めましょう!何とかして、リティルかお父さんに伝えてみます』
お父さん?ああ、風の王の副官、雷帝・インファか。とオリュミスは思い出していた。
インジュが敬愛する父親。こんなに優秀なインジュが慕うのだから、彼以上に優秀なんだろう。だとすると。と、オリュミスは思った。
インジュとの別れは、唐突に、近いうちに訪れるだろうなと、オリュミスは思った。
だが、意外な者がインジュの前に姿を現すことになるとは、オリュミスも思っていなかった。
反魂の儀式が行われれば、思惑が何であれ、この門は自動的に開く。
この門は、旧時代が滅びる前から、反魂の儀式が産み出されたときからある。
だが、この世界とは関わり合いがない。この門の中にあるのは、旧時代の生き物の命で、この世界の生き物の命ではないからだ。
だから、反魂の儀式でこの世界の生き物が蘇ることはない。反魂の儀式が絶対に成功しないのは、そのせいだった。その理由は、至極簡単な理屈によるものだったのだ。
この世界の魂は、風の王が管理しているといっても過言ではない。
彼の率いる風が、魂を始まりと終わりの地へ送り届け、即座に真っ新にして、魂が得た絆を断ち切り、そして新たに産まれるように循環している。
風の王が守る輪廻の輪から、魂をかすめ取ることはできない。できるとするなら、風の王に導かれる前、体から強引に奪う以外に、その魂を得ることなどできはしない。
世界は学んだのだ。輪廻の輪を逆流するようなことをしたために滅んだ、旧時代と同じ轍を踏まない為に。
反魂が行われ、インジュは重い腰を上げると、門の外へ出た。
リティルに見つかったからといって、助けられる魂を助けない選択はしたくなかった。
「見つけましたわ。インジュ!」
彼女の声に、インジュは耳を疑うと同時に、目の前に立っているその姿に、頭の中が真っ白になった。
暗い葡萄色のフード付きマントを着た、サファイアブルーの真っ直ぐな髪の妖艶な美女。彼女の両耳の横には、サファイアブルーの生きた蛇が生えていて、こちらを伺っていた。その蛇の首には、細いチョーカーが巻かれ、小さな四つ葉のクローバーの飾りが揺れていた。もう、とっくに、捨てていると思っていたそれを、彼女はまだ持っていてくれていた事実に、インジュは嬉しい反面信じられなくてさらに混乱した。
『ど、して……リャリス……』
インジュは、なんとか絞り出した。
リティルから聞いたのだろうか。反魂の断罪に向かった先でインジュと遭遇したと。
それを聞いたリャリスが、自分で反魂の儀式を行えば、インジュに逢えるかもしれないと思い至るのは当然だった。なぜなら彼女は智の精霊だ。この世界で2番目に頭がいいと言われているイシュラースの三賢者の1人なのだから。
「あなたが『あれ』を庇って門の中へ消えたと聞けば、あなたの居場所は容易に特定できましてよ?インジュ……なぜ、帰ってきてくださらないのですの?」
容易に帰れますでしょう?リャリスはそう言っていた。そうなのだ。インジュは束縛されてはいない。
オリュミスと和解していることさえも、彼女は想定しているのだろうか。
『帰れ――ません……』
こんな心では、リャリスに勝てない。言いくるめられて、帰れ帰れと促すオリュミスと手を組まれたら、インジュは風の城へ連行されてしまう。
「その背後にいるモノが原因ですの?」
リャリスに視線を向けられ、オリュミスは観念したように姿を現した。
『ち、違います!』
否定するインジュの言葉を否定したのは、オリュミスだった。
『違わない。蛇のイチジク、おまえはインジュを嫌悪しているか?』
彼女が来たのだ。ここでハッキリさせてやるべきだ。オリュミスは、インジュと別れる覚悟をした。
『オリュミスさん!』
『どうなのだ?』
リャリスは、糸のような切れ長の瞳を更に細めた。そこには、かすかに怒りが沸き起こり、そしてすぐに哀しみに包まれた。
「インジュ……あなたが私を恐れているだろうことは、薄々感じていましたわ。無理もありませんわね。けれども、私の気持ちを、信じてほしかったですわ」
瞳を伏せたリャリスに、駆け寄りそうになる体を、インジュは何とか堪えた。そんなインジュの背を、オリュミスが触れた。
『行け。もう、迷うことはない。おまえの恐れは払拭されただろう?』
『でも……オリュミスさん……オリュミスさんは、ここに――』
どこまでもお人好しなインジュに、オリュミスは彼がしてくれるように優しく諭すように声をかけた。
『後のことは、後に考えればいい。おまえがボクを見捨てないことは、もう、わかっている。今は戻れ。インジュ』
『……はい』
そんな、断頭台に向かうようなそんな顔をしないでほしい。オリュミスから見れば、彼の妻――元妻となるのだろうか、リャリスは、インジュを許している。それどころか、風の城から見れば行方不明となったインジュを、捜していたように見える。
やり直せる。と、オリュミスには思えた。
少しだけ胸は痛む。
蛇のイチジクとオリュミスは、インジュが思うような夫婦の関係ではなかった。
蛇のイチジクは、オリュミスが産まれた時から妻だ。遡れば、彼女は祖父のモノだった。いや、最後の最後まであの祖父の持ち物だった。
若すぎたオリュミスには、彼女を救う手はなかった。精々手引きして、黄昏の大剣に救わせるくらいしかできはしなかった。
それも、王家を滅ぼすとオリュミスが決めなければ、黄昏の大剣が反乱を企てなければできはしなかった。
――ボクが願えたことではないが、どうか幸せに
その幸せを育める相手が、インジュならいいと、心から思える。
インジュが、リャリスに近づこうと、足を踏み出したその時だった。
動くはずのない空気が、何者かによって乱された。
『後ろだ!』
オリュミスは叫ぶと、黒い靄の触手を操った。リャリスが背後に身構えるが、相手の動きも速かった。
「きゃあ!」
普段知的でツンと澄ましているくせに、悲鳴が可愛い。とインジュは刹那思ってしまって、慌ててそれを打ち消した。
オリュミスが放った触手は、それに阻まれていた。リャリスは、彼女よりも背の高い、何か横行なモノを着ているような人影に捕らえられていた。
『まさか、そんなことが……』
オリュミスが苦虫を噛み潰したかのような声で、呟いた。
『誰です?あれ』
死の門の中で、意識を保っている者は、オリュミス以外にはいなかった。それが、この世界にとっての救いでもあった。
だが、死を拒絶していたあの者は、生にしがみ付く執着心から心を保ち続けていたのかもしれない。
『ボクの祖父だ。蛇のイチジクの心を踏みにじった張本人だ。インジュ、あいつは演技なんかじゃない。本物の暴君だ!』
オリュミスの祖父は、蛇のイチジクが作り出した反魂の儀式で、何度も何度も蘇り、王国を支配し続けた。しかし、反魂にもやはり限界があったのだ。死のサイクルが早まり、ついに祖父の魂は後一度の反魂に耐えるのが精一杯となった。
そして、彼は最後の理性を手放したのだ。
オリュミスが気がついた時には、蛇のイチジクは薬漬け魔法漬けで、殆ど正気に返ることはないほどにされてしまっていた。
子供だったオリュミスには、何もかもが気がつくには遅かったのだ。
『何という口をきくのだ。このワシに向かって。使える手駒を手にしたからと、いい気になるな!』
ビクッとオリュミスが震えたのが、前に立つインジュにはわかった。その時インジュは、この祖父というこれが、オリュミスに対してもひどい支配をしていた可能性を知った。
「ッ!イン、ジュ……!」
祖父の手に落ちたリャリスが、顔を上げ警告を発した。だが、体のないインジュには普段通りの動きなどできるはずもなかった。
『うあっ!ああ――あああああああ!』
祖父から伸びたオリュミスと同じ腕が、インジュの意識体を貫いていた。力を急激に毟り取られ、インジュは悲鳴を上げることしかできなかった。
「インジュ!やめてくださいまし!私が手に入ればいいのでしょう!ああっ!」
ぐりっとリャリスを抱きすくめている腕が蠢き、リャリスは苦痛の声を上げた。
『あれは極上の餌だ。逃してなるものか。おお、なんともう、体が戻ってきよったぞ!』
見る間に、シワだらけで頭髪のないミイラのような顔が、黒い靄から現れた。
その、瞳のない瞳が、リャリスを見た。リャリスは、恐怖を滲ませて、少女のように震えていた。
『知っておるぞ……?ワシの断りなく、男をくわえ込みよって。今の名はなんといったか……?ああ、リャリス。復活を果たした暁には、仕置きをせねばなぁ?のう?リャ・リ・ス?』
「いや……!私があなたのモノだったことなど、1度もありませんわ……!」
祖父のミイラのような口が開かれ、干からびた舌が覗いた。顔を背けたリャリスの首に触れる前に、バチンッと彼の顔が弾かれ、半分が脆くも吹き飛んでいた。
リャリスの首で、シャー!と蛇が威嚇の声を上げた。
『――ボクの妻に、何しようとしてるんです……?アハハハハハ!これくらいで、ボクを殺せると思ったんなら、大したことないですねぇ。根比べします?あなた、死にぞこなってたんですよねぇ?ボクの命に、耐えられるんですかぁ?』
インジュの顔を見たオリュミスが、息を飲んだ。その瞳に宿る狂気。先ほど攻撃を受けて悲鳴を上げたインジュと、同一とは思えない残忍な笑みだった。
ヒタ。と、インジュの両手が自分を刺し貫いている靄に触れた。
体があればまだしも、今は意識体だ。力を使い果たして、インジュが消滅するが早いか、急激な若返りで産まれる前に戻すのが早いか、賭けだった。
だが、リャリスの危機を前にして、自分の身を優先する選択などできようはずもない。
今でもインジュは、リャリスを守りたいと思っているのだから。
「やめろ!インジュ!」
飛来した金色の輝きは、鋭く靄の触手を断ち切っていた。インジュの前に舞い降りたのは、小柄な青年。風の王・リティルだった。
「インジュ!なんて顔してるんだ?ほら、おまえ、残ってるか?」
頽れそうなインジュの意識体を支えたのは、インジュの肉体だった。動かしているのは、インジュのもう1つの人格であるエンドだ。
『エンドく――』
「喋るな。同化できるか?体動かせねぇなら、オレがしばらく変わってやる」
だから、戻れ!とエンドの強い瞳で言い聞かせられ、インジュは頷くと、自分の体に抱きついた。スウッとインジュの姿が体に吸い込まれる。
『お……のれ……!』
「逃がすかよ!リャリスを離せ!」
エンドがハッと顔を上げたときには、リティルが祖父に斬りかかっていた。だが、その刃が届くより早く、祖父の姿は霧のように消えてしまった。
リティルは、カツンッと石の地面を傷つけた切っ先を、忌々しげに見つめていた。
あれはいったい何なのか。リャリスはどこへ連れて行かれしまったのか。リティルには、何一つわかりはしなかった。どうやって奪還するか。そんなことが頭をかすめた時だった。
『風の王、発言を許可してくれ』
まだ、大人になりきっていない少年の声が、威厳を持ってリティルの背後にかけられた。
オリュミス。
まさか、相容れることなく殺し合った相手と、こんなに穏やかに話せる日が来るなんて、リティルがいかに寛大で慈悲深いと定評があっても、思ってもみなかった。
「で、あれはおまえのじいさんだって言うんだな?」
『その通りだ。ボクにとっても、恐怖でしかない完全悪だ』
信じてくれればの話しだがと、オリュミスは首を竦めた。
インジュの意識体はかなりの痛手を負ってしまい、エンドと名乗った彼は寝かせたと言った。つまり、今ここにオリュミスの味方はいないのだ。
『どうやら、インジュがボクを原初の風の光で灼いたとき、目覚めてしまったようだ』
「どこに行った?」
オリュミスは睨むエンドの瞳に、首を横に振った。
『わからない。だが、貴殿らなら、見つける方法があるのでは?』
フンッとエンドは気分悪げにそっぽを向いた。
彼の組んだ左手首に、シックな色合いの、6色の色ガラスが嵌まったブレスレットが飾られていた。かすかに感じるリャリスの気配に、あれが、インジュの言っていた婚姻の証なのだと思った。
しかし、インジュは返したと言っていた気がする。では、あれは?
「……インジュなら、追えるかもしれねぇ……オレは、蛇女の身代わりの男なんだよ」
「いや、身代わりじゃねーんじゃねーのか?あのリャリスが、誰かを蔑ろにするようには思えねーよ」
複雑そうに、リティルは言ってはみたが、エンドの怪訝な瞳に口を噤んだ。
「陛下……インジュと争う気はねぇ。負け戦だしなぁ。なあ、あんた、インジュが世話になったなぁ。ありがとうな」
オリュミスは、驚いた。まさか、インジュの片割れから礼を言われるとは思わなかった。てっきり――
「なんだよ?インジュの敵じゃねぇことは、陛下から、こいつがおまえを庇ったって聞いた時から知ってるぜ?」
沈黙と見つめる視線から察したらしい。エンドは怪訝な顔で礼の意味を口にした。
『いや、だが……。……風の王、もう旧時代の粒子を抑えておけない。ボクについては、インジュが知っていることがすべてだ。誓って言う。インジュは、何者にも侵されていない。正気だ』
オリュミスは念を押すとスウッと門へ近づくと、サッサと閉めてしまった。
門が閉じ、キインッと高い音を立ててその姿が消え失せた。
「陛下」
「ああ、引き揚げるぜ?」
リティルは目の前に開いた歪み――風の城に繋がる次元のゲートに、エンドと共に入った。
インジュの帰還を、風の城に住まう一家、懇意にしている太陽の城の住人は喜んだ。
おそらく、1番喜んだのは彼だろう。
「インジュ!やっと帰ってきたなぁ」
風の城の応接間で、ソファーに座っていたインジュは、部屋の壁にある大鏡から現れた人物に強襲されていた。
あの鏡は、太陽王の統治する城と繋がっているゲートなのだった。
「ちょっ!ジュールさん、痛いですよぉ!でもリャリスが……」
緑色の波打つ髪の、ずいぶん優しい顔をした若い男性が、インジュの首を捕らえてグリグリと頭に頬をこすりつけた。
花の王・ジュール。キシタアゲハの羽根を持つ、甘いマスクのリャリスの父だ。
ジュールはインジュを解放すると、しょげるインジュの頭を隣から小突いた。
「そんな顔をするな。我が娘は強いぞ?」
「わかってますよぉ。でも……あれに捕まったリャリスは、怯えてました。ぶっ飛ばしてやるつもりだったんですけど……意識体じゃ分が悪かったですねぇ。あのぉ、ボクが城を離れてどれくらいです?」
ジュールも向かいに座った、リティルもインファも皆笑っていた。その顔が怖い。
「あ、あのぉ……」と言う前に、ジュールが言った。
「3年だ」
「えっ!ほ、ホントですかぁ?」
まさか……まだ数ヶ月の感覚だった。
「本当ですよ?エンド君がリャリスを慰めるのが限界だと、オレに零すくらいには時が経っていますね」
含む言い方だった。
「ああ、エンドがリャリスに口説き落とされてから、1年……くらいか?おまえ、どうするんだよ?」
リティルの視線が、インジュの左手首のブレスレットに遠慮なく注がれていた。
インジュはエンドに、ブレスレットのことを聞かなかった。インジュは、エンドがリャリスを好きなことを知っていた。3年間で何があったのか、エンドが贈られた婚姻の証の意味を、インジュは知るのが怖かったのだ。
「ど、どうって……どうにもならないんじゃ……」
リャリスがエンドを選んだなら、ボクに言うことはない。オリュミスは気にして、ずっと帰れ帰れと言ってくれていた。それを、無視して居座ったのはインジュだ。リャリスと向き合わなかったのはインジュなのだから。
「だったら、おまえを大いに笑えたのだがなぁ。リャリスは、おまえを想い続けたぞ?エンドがウロウロしているから、忘れずにすんだのかもしれんがなぁ!」
ジュールが意地悪に言い放つ。
『違う。おまえが贈った婚姻の証がな、蛇女を守り続けたからだ』
エンドの声が、ジュールに反論したが、彼の声が聞こえたのはインジュにだけだった。
「ボクが、贈った、婚姻の証……」
「なんだ、エンド、バラしてしまったのか?もう少し、虐めてやってもいいものを。そうだ、インジュ。あの婚姻の証は、娘をあらゆる魔の手から守ってくれたぞ?リャリスに邪な気分で近づこうものなら、手痛い制裁を受ける。物理的になぁ。娘は大丈夫だ。おまえが守るだろう?」
インジュは、返答できずに曖昧に俯いた。
皆、リャリスが攫われたというのに悠長に見えるが、そうではない。
玄関ホールへ続く白い石の扉が開かれ、皆は一斉に扉を見た。
「ただいま。……待たせたようで、すまなかった」
戻ってきたのは、艶やかな黒髪を短く切った、濡羽色のオオタカの翼を生やした男性だった。スラリと背の高い彼は、額から鼻までを覆う仮面で顔を隠している。
その仮面の穴から、涼やかな切れ長の瞳が、インジュの姿を認めて僅かに笑っていた。
「ノイン!そのぉ、どうでしたぁ?」
2代目力の精霊・ノイン。蛇のイチジクの相棒ともいえる、黄昏の大剣の継承者だ。
居ても立っても居られず、立ち上がろうとしたインジュは足が立たずに、上半身がグラッと揺れて、慌ててソファーの背もたれを掴んで、倒れるのを阻止した。ジュールがすかさず、インジュの肩をグイと引いて、体を支えてくれた。
「収穫はあった。奴め、傲慢な性格が災いしたな」
ノインは翼を広げ、付き従うように後ろにいた、キラキラ輝く金色の波打つ髪に、野の花とラナンキュラスの花冠を飾った、グラマラスな女神とともに飛んできた。
「インジュ、もう起きていて大丈夫なの?」
風の王の守護女神・フロイン。インジュと同じオウギワシの翼を持つ彼女は、血の繋がりはないが、インジュの姉だ。そして、ノインの妻だ。
「はい!あ、でも、まだ目眩が取れないんですけど」
インジュは情けない笑みを浮かべた。無理しないで?とフロインは、労るようにインジュの両頬に手を添えた。
「早く復活しろ。おまえの力が必要だ」
頼もしい声だ。ノインは、目覚めた時から力の精霊ではない。あまり強いとは言えない風の精霊だったが、無敗の騎士だった。ある事件を切っ掛けに、至宝・黄昏の大剣を継承し、力の精霊へ転成した。
その代償は、風の精霊だった頃のすべての記憶。
記憶とは経験だ。ノインは最強の精霊の力を持ちながら、力を使いこなせない未熟な精霊にまで一時落ちたが、もの凄いスピードで力をものにした。
彼はもう、無敗の騎士と言われた、風の騎士と遜色ない。誰ももう、ノインはリハビリ中とは言わないだろう。
「本当ですかぁ?相手は、旧時代のおじいちゃんですよぉ?ノイン1人でできますよぉ」
「インジュ、どうした?」
卑屈な物言いに、ノインは訝しがるように視線を送ってきた。その、煌帝・インジュという精霊を信じている瞳が、とてつもなく癇にさわる。
「別に何もないです」
インジュは拗ねたように、ノインから視線をそらしてしまった。なぜだろうか。ノインの顔がまともに見られない。ノインに対して、ライバル視する心はあるが、彼に妬みや暗い羨望はないはずだ。なのに、心が暗い想いにざわめいた。
「フフフ、ノイン……すっかり嫌われたな。だがインジュ、おまえがいない間、風四天王の補佐官を誰が務めたか知っているか?ノインだぞ?おまえの職務放棄の穴を埋めたのは、ノインだ」
「ジュール」
ノインが低くジュールの名を呼んだ。その声には、余計なことを言うなとそんな心が込められて感じた。
「インジュ、おまえの代理をしていたのではない。風の精霊でないオレでは、おまえの代わりは務まらない」
「……ボクに言い訳なんて、しないでくださいよ……ノインのそういう所、嫌いです」
「インジュ……」
睨み上げるインジュの瞳に、ノインは僅かに瞳を見開いた。
「ボクが、ノインに劣ってること、それ、みんな知ってますよぉ?風の精霊じゃないなんて、言い訳です。だってノイン元風の王じゃないですかぁ?」
「インジュ!おまえ――」
聞き捨てならないと、リティルが反論を口にしようとしたのを、ノインは言葉をかぶせて止めた。
「インジュ、風の王だったのは、オレとリティルの父親だ。オレが優秀だというのなら、それは当然だろう?父上はオレを、リティルを守る者として作り出した。不出来な兄を、父上は許さない。だがインジュ、風の補佐官は、おまえにしか務まらない。オレではおまえのように、敵陣へ特攻し、陥落させることなどできない」
「オリュミスさんの事ですかぁ?失敗しただけですよぉ。失敗は取り返します。でも、ボクは補佐官には戻りません。ノインがやればいいんです。リティルのお兄ちゃんで、お父さんの相棒でしょう?一家のみんなも、城の外だって、誰も文句言いませんよぉ」
『やめろよ、インジュ』と呆れたエンドの声が聞こえた。だが、インジュの卑屈は止まらなかった。劣等感が心を塗りつぶし、なぜかノインに矛先が向いていた。
コホンッと咳払いが聞こえ、視線を向けると、ニッコリ微笑むインファがいた。
「その話は後ほどゆっくり聞きますよ。ノイン、敵の居場所はどこですか?」
「神樹の真上だ。だが、さすがは長きにわたり、一世界を支配続けた独裁者なだけはある。死の門の中に封じられた旧時代の粒子を使い、堅牢な城塞を築いている。落とすのは骨が折れそうだ」
「オリュミス、大丈夫か?」
旧時代の粒子が使われていると聞いて、リティルは当然の様にオリュミスを案じた。そんなリティルにノインは、小さく微笑む。
「ああ、問題ない。おまえに詫びていた。門の番人が情けないことだとな。心配するなリティル。オリュミスは、命がけで世界を無に帰した最後の王だ。やわではない」
努めて王者然と振る舞うオリュミスと対し、ノインは旧時代のことを思い出していた。それは、黄昏の大剣に刻まれた、黄昏の大剣の物語だ。ノインの体験した記憶ではない。
目の前のオリュミスは、倒すべき暴君として相対した彼の面影はなく、もっと昔、騎士と王子という間柄で交流していたときの彼だった。
ノインは、オリュミスの真実の姿を思い出していた。
どうやら、黄昏の大剣は物語を出し惜しみしているらしい。それはおそらく、彼に情けをかけてはいけないからだ。邪魔な記憶を排除し、この世界を守ろうとした結果なのだろう。
インジュは、その黄昏の大剣と最後の暴君という物語の最終章の関係を、歪めてしまった。
本当に、常識破りな精霊だ。
「敵の数はわかりますか?」
インファの問いに、ノインの見た、敵の居城のことが思い出された。それは、旧時代王族のいた城に酷似した姿をしていた。旧時代の物語と違うのは、城を守る兵隊の姿だろう。
「反魂で産まれるような化け物達が、跋扈しているようだな。さすがに戦力まではわからない」
「レイシは必須のようだな。使えるか?あのお子ちゃまは」
風の王の養子の次男・レイシには、見破りレーダーという固有魔法がある。
それは、索敵の魔法で、敵の位置、属性、敵対の意志なの手に取るようにわかるという優れものだ。
世界の刃である風の精霊にもその能力があるが、風の侵入できる場所に限られ、位置くらいはわかるが詳細な情報はわからない。
「はは、おまえとは相性悪いと思ってたけどな。オレの不良息子が悪いな」
「いや、あれはジュールが悪い。素行の悪いおまえが、インリーの腰を抱いてどこかへ行こうとすれば、妻の危機だと思う。それをおまえは……大人げない」
「ええ?レイシ、ジュールさんとやりあったんですかぁ?」
なんて命知らず!とインジュが信じられないと声を上げた。
風の王の懐刀と言われるレイシは、風の城の主力の1人だ。だが、ジュールの強さは賢魔王の異名の通り、えげつない。
元5代目風の王ということもあり、花の王に転成して、槍術とオオタカの翼を失って機動力が落ちたといっても、魔方陣魔法は健在だ。レイシは、彼に近づくことさえできずに敗北しただろう。
「ああ、襲ってきたな。返り討ちにしてやったぞ。インジュ、ノインなんぞに突っかかってなどいず、わたしと遊べ!」
ぎゅっと肩を抱いてくるジュールが、守ろうとしていることを、インジュは直感した。風の城と敵対した、リャリスとノインの宿敵と3年も共にいたのだ。今、インジュの置かれている立場は微妙なものだ。
オリュミスは改心していい人になったと報告したが、彼の所業が所業であるだけに、インジュは洗脳されているのでは?と思われても仕方がない。そして、ノインに突っかかるその姿は、あまりいい印象を与えないだろう。
「ジュールさん……」
「気にするな。わたしに、甘えていればいいぞ?」
甘い声が、耳元で囁かれた。その声はおそらく、インジュにしか聞こえなかっただろう。
ジュールらしからぬ言葉だった。優しくはあったが、そう感じるだけで、容赦なく辛辣だ。それとわかる言葉で、優しくしてもらった記憶はなかった。
「ああ、リティル、インジュをわたしにくれないか?ここに置いておくより、上手く使ってやるぞ?」
え?っと驚いたのは、リティルだけではなかった。肩を抱かれたインジュも同じだった。どういう意味?意図?とインジュが混乱していると、ジュールは甘さの中に毒を含んだ瞳で微笑んだ。
「インジュの言うとおりだろう?風四天王の補佐官は、次男がふさわしいと思わないか?インジュは誰かの部下として動いた方がいい。それも、無茶苦茶な要求をする上司の下でなぁ?」
戸惑うリティルと、ジッと伺うインファ。インジュはインファの息子だ。風の城の冷徹軍師は、息子には甘いと定評があった。ジュールの要請でも、息子を手元に置いておきたい過保護な父が、首を縦に振るとは思えない。
「オレをおまえ達と一緒にするな」
ノインの否定は、次男という言葉に対してではなく、ジュールが匂わせた元風の王に対してだ。
今、イシュラースにいる精霊の中で、転成という方法で以前とは違う力を司っている精霊達がいる。
その中でも特殊なのが、元風の王だ。
風の王は、現在リティルで15代目だ。それは、幽閉された初代を除いて、リティルまでの風の王が全員、何らかの形で命を落としたことを意味していた。
初代風の王・ルディルは、彼を幽閉した太陽を討ち、その力を奪うことで、現在夕暮れの太陽王へ転成した。
そして、5代目風の王・インラジュールは、心だけを呼び出された状態だったが、存在を放棄した花の王を討ち、娘の命を犠牲に花の王に転成した。
「フフフフ。おまえがなんと言おうと、おまえは我々と同じ元風の王だ。14代目風の王・イン殿?」
それはリティルの父の名だ。ガタンと、リティルが立ち上がっていた。
「待てよ、ジュール!ノインが父さんだったことなんて、1度もないんだぜ?ただ、父さんのすべてを託されただけだ。ノインはずっとノインだ!オレの兄貴以外だったことなんてねーよ!」
ノインを庇って睨むリティルは、風の王のよしみで、ルディルを長兄、ジュールを三男、リティルは末弟と言われて、可愛がられていた。
そもそもノインも風の王兄弟という括りで、次男という位置を否定したことはなかった。
「そうだな。インはおまえ達にとって父親だ。だがノイン、おまえ、インジュとどんな関係だったのか、思い出してやらないとは、薄情だぞ?」
ノインの、仮面の奥の瞳に、動揺が走った。
「ジュールさん!もう、いいです。もういいですから……。ただ、そのぉ……ジュールさんのところには行きたいです」
「インジュ?それは、どういう意味だ!」
ガッチリインジュの肩を抱いたまま、ノインとリティルと険悪になるジュールに、インジュはやっと口を挟んだ。
どうしてジュールが、インジュとノインの過去を知っているのか、それは疑問だったが、ジュールは確かに、記憶の消去とともになかったことにされてしまった繋がりを、知っているようにリティルには見えた。
「そのままですよぉ。ボクは、風の城を出ます。元々、ノインが帰ってくるまでって思ってました。リティルの補佐官、ノインに返します」
引き留めようと声を荒げたノインに、インジュは真っ直ぐに視線を投げ言い切った。
ハアと大きなため息を聞こえた。
「皆さん頭を冷やす時間がいるようですね。城攻めの作戦を立てますから、一旦お開きにしましょう」
風の副官・インファの声には、動揺も、怒りも何もなかった。ただ、有無を言わさない威圧があるだけで、場は、インファの一言で解散となった。
――インジュ、話しを――
ジュールに連れられて太陽の城へ行くインジュに、ノインは対話を求めた。だが、インジュは応じなかった。
インジュとノインとの間に何があったのか。それを語ったところで、無意味だ。そんなことを打ち明けられても、ノインは困るだけで、拗らせてしまったインジュは態度を改められないのだから。
「大丈夫か?」
「……はい」
風の城の応接間にある大鏡を抜けると、そこは、太陽の城の玉座の間だ。なぜこんなに高いのか?とゲンナリするほど高い階段の上に、玉座の代わりに姿見置かれている。それが、風の城へのゲートだった。
紋章化された太陽が刺繍された赤い絨毯が、真っ直ぐに、巨人でも通れそうなほど大きな、天辺が鋭角に尖った扉に向かって引かれていた。
「おい!インジュ!やっと帰ってきやがったなぁ」
嬉しそうに明るく声を張ったのは、オレンジ色の髪を伸ばしたい放題伸ばした、がたいのいい美丈夫だった。彼の背には、オレンジ色のオオタカの翼があった。V字にはだけた着物の間から覗く胸筋が逞しい。
「ルディル!あ、あのぉ……」
この城の主に、状況を説明しなければと思ったインジュに、夕暮れの太陽王・ルディルはニヤリと微笑んだまま頷いた。
「ああ、ジュール、手筈通りインジュをもぎ取ってきやがったのか。おまえも大変だねぇ。こんな魔王に見初められちまってなぁ。ああ、無理するなよ?覇気がねぇ顔してるわ」
インジュは、初めからジュールが、風の城からインジュを連れ出す気だったことを知った。
計画的だったことを知って、インジュは戸惑った。
「ええ?あのぉ……どうしてです?」
「おまえが寝ている間に、エンドに頼まれたのだ。おまえの様子がおかしいから、保護してほしいとな」
「リティルを頼れねぇって、いったい、どんな状況だ?ああ、これから調べるってか?心配いらんさ。あんまり時間もねぇが、おまえさんはオレ達が守ってやる」
「で、でも、そのせいでジュールさん……」
「気にするな。わたしと風の王兄弟の絆は切れん。ノインには悪いが、わたしはおまえが可愛いからな」
フフフと、甘やかすように笑うジュールに、インジュはなぜか泣きそうになって、俯いた。
味方がいない。インジュは、自分の置かれている現状を知った。今、風の城にはインジュを手放しで受け入れてくれる味方はいないのだ。
エンドはそれに気がついたのだろう。そして、ジュールを頼った。インジュの記憶ではエンドは、ジュールが大の苦手だったはずなのに、その彼がジュールを頼った事が、現状の厳しさを物語っているような気がした。
「霊力を調べさせてもらうぞ?なに、心配するな。やるのはわたしではない」
霊力は、精霊の肉体、心、魂に結びついている力だ。それに触れるということは、心や魂に直接触れてしまうことにもなりかねない。
多くの場合、触れられた相手は快感や苦痛を感じてしまうのだ。
ジュールはルディルと共に、インジュをサロンへ誘った。
磨りガラスの嵌まった扉を開くと、インジュの記憶にあるサロンとは少しばかり雰囲気が変わっていた。
この部屋は、どうしてこんなに椅子が必要なのかと思えるくらい、籐でできた1人がけ2人がけの椅子が置かれ、ローテーブルがほどよい間隔で置かれている。
そのはずだったが、1箇所だけベッドにもなりそうな大きなソファーが置かれ、その前に籐の椅子が1脚置かれていた。その席に、誰かが座っている。
「お久~。インジュ!」
扉が開くのがわかったのだろう。椅子に座っていた人物が立ち上がって、気さくに声をかけてきた。
艶やかな緑色の髪の、幼い少年だ。彼の額にはねじくれた1本の角が生え、尻には白い馬の尻尾が生えていた。
「ナシャ?え?どうしてナシャがここにいるんです?」
毒の精霊・ナシャ・ユニコーン。風の王・リティルの協力精霊の1人だ。
彼は外科手術もできる医者で、普段は世界中を放浪して、植物を研究している。たまにフラリと風の城に帰ってきては、城にある保管庫に回復薬などを補充して再び旅に出るを繰り返している。所属的には、風の城の居候という事になっているが、滅多に城にはいないレア中のレア精霊だった。
「キシシ。インジュ……智の精霊なんていう素敵な人と結婚したなら、知らせてよー」
妙な笑い方をして、ナシャは純粋でない暗い光を宿した緑色の瞳で笑った。彼は、猟奇的な一面も持つ、油断ならない医者なのだ。
「さ、診察するからそこに寝て」
ナシャにそう促され、インジュは素直に彼に従った。
「ちょっとヒヤッとするよ?ああ、それとも快感の方がいい?」
オイラ結構上手いよー?とニヤニヤされて、インジュは背筋が寒くなった。
「冷たい方でお願いします!」
「キシシ、了解~」
ナシャは医者だと名乗るだけあり、霊力を探ることが上手い。何も感じさせないインファほどではないが、ナシャに触れられて、不快感を持つ者はほぼいない。
彼に触れられると、冷たいのだ。
「ちょっ!ナシャ!冷たい!冷たいですよぉ!」
ナシャに触れられた額が、凍るような冷たさを感じた。ナシャは、額に触れるだけで全身の霊力を探れる。この技を使えるのは彼1人だけだった。
「あれぇ?ごめーん。でも、頭、冷やした方がいいんじゃないの?ノインに突っかかったんだってね?」
「……」
「キシシ。そんな落ち込まないでよ!あれをなかったことにしちゃうなんて、ノインは度量が大きいねー。でも君は、治まらないだろう?わかるよ。インジュはオイラと同じ、猟奇的な殺人鬼だもんねー」
瞳の奥にある暗闇。それは、ナシャがマッドな医者であることを物語っていた。だが、腕は確かだ。
「ノインが、悪いわけじゃないんです……」
「うん。でも、腹立たしいだろう?ボクをこんなにしといてって。君には、飼い主が必要だもんねー。ねえ、その役、ジュール様でいいんじゃない?ノイン、性格からして補佐官には戻らないと思うよ?あの人、やっぱり根本はイン様だし」
「理解者がいるって、いいですねぇ。でも、ジュールさんじゃダメなんです。ノインじゃないと……」
「インプリンティング。って言うらしいよ?そういうの。卵から孵った雛が、最初に見たモノを親だと思っちゃうってヤツ。インジュ、マゾだよねー?」
「あはは」
否定はしない。痛みに悲鳴はあげても、どこか他人事なのだ。
「ねえ、何か固有魔法使った?」
「え?何です?」
急にナシャの声が低くなった。あまりの変わり身に、インジュは何を聞かれたのか聞きそびれていた。
「固有魔法。あのね、霊力には異常なさそうだけど、心に変な枝があるっていうか、回路があるっていうかー?」
「ええと、わかるように言ってくれません?」
「うーん。二重人格だよねー?」
「はい。エンド君です。邪魔されちゃいました?」
「ううん。勝手にしろって最初に言われた。けど、その彼じゃない何かがあるっていうのかなー?こっちの方は、エンド君に聞いた方がいいかもねー。あと、体だけど、何かした?」
「ボク、3年間意識体で、体はエンド君が使ってましたけど……」
「3年前って感じじゃないんだよね……。インジュ、マゾ力発揮してね!」
ナシャの両手が、インジュの両目を塞いだ。すると途端に、体の奥が熱くなって疼き、下半身に血が集まるような、ゾワゾワした感触が体を蝕んだ。ビクッと電気が流れたように体が意志とは関係なく跳ねた。
「え?くっあ……!――!い、、、、な、なにするんですかぁ!」
インジュは荒く息を吐くと、ナシャの手を剥ぎ取って体を起こしていた。
「……いつから不能なの?」
「ええ?」
ナシャにジロッと視線を向けられ、インジュは怯んだ。
「いつから?」
ナシャの瞳が、鋭くなった。それは、医者の瞳だった。
「……いつからか、覚え、ないんですよねぇ……」
本当だ。インジュは、いつから体が反応しなくなったのか覚えていない。恋だって、いつぞやしなかった。とにかく、そっち方面はずいぶんご無沙汰だったのだ。
「魔法の痕跡があるよ。ねえ、あのさ、言いたくないんだけど、なんで婚姻結んだの?」
精霊の婚姻は、霊力の交換ありき。
その通りだ。それが行えないのなら、婚姻を結ぶ意味はない。イチャイチャしたいだけなら、恋人でいいのだから。
「格好いいこと言えば、守るためですよぉ?」
ナシャの瞳は険しいままだった。医者の顔で見られると、とても10歳前後の子供には見えない。
「一方的に飼い殺されてる。ってことは?」
「ないですないです!それ言うならむしろ、ボクがリャリスの心を弄んじゃった。的な?」
「遊べないでしょ?相手ー、若くても智の精霊だよね!」
「わあ!ナ、ナシャ、リャリスはですねぇ、ジュールさんの娘なんですよぉ?ボクがそんな真似したら、殺されちゃいますって!それにリャリスは、見た目に反して純情でそういう方面からっきしなんです!」
「うん……インジュの言葉なら、信じられる。頭のいい人って、ホント何考えてるわかんないからねー。リャリスも煙に巻くみたいで、オイラの精神じゃとても本心なんか見抜けないよ」
頭のいい人の中に、ナシャも入ってるんですけど?とインジュは思った。
「本心……可愛いんですけどねぇ……」
「それ、たぶんインジュにしか見せない顔だと思うけどねー?そっか、でも、リャリスが不能にしたわけじゃないんだね……」
そんな物騒な!と思ったが、そういう見られ方もするのか。と思った。
「あ、それを疑ったんです?リャリスじゃないですよ。霊力の交換できたら、傷つけずにすみましたし……。ナシャ、リャリスに会ったことあるんです?」
口ぶりからして、面識があるような気がした。
「うん。実はね、リャリスとエンド君と、3人で連んでたんだー。ジュール様に突然攫われてね。ジュール様!終わりましたよ~!」
ナシャの声で、離れたところに待機していたジュールとルディルが飛んできた。
「ご苦労。問題はあったか?」
「結論的にはないかな。ただ、エンド君とは話した方がいいかもねー。オイラ、心は専門外なんだ。インジュは心が1つじゃないから、どういう形が本来のインジュなのか、よくわかんなーい」
「そうか……。早めにナシャに診察させておくべきだったな……」
「あの、さ、ジュール様?」
後悔を滲ませて考え込んだジュールに、ナシャは思い切って問うことにした。
「なんだ?」
「いつからオイラのこと知ってたの?」
「わたしが花の王となってからだ。可愛い末弟の憂いは、晴らしてやらねばならん。風の城に関わりのある精霊は一通り調べたぞ?」
「あ、そ」
「どうしやがった?」
ナシャの様子に問うたのはルディルだ。
「オイラ、リティルの協力精霊って名ばかりだからね。イシュラースにいることも少ないしー。一応、一家の人数が増えたら挨拶には行ってるけどね」
「ああ、ラスの警戒ッぷりが半端なかったですねぇ」
「ラスのあんちゃん、オイラが日の当たる世界の住人じゃないって、即座に見抜いたねー」ま、隠してないけどと、ナシャは笑った。
「あのぉ、ナシャってどれくらい戦えるんです?」
「聞きたい?ほぼ戦えないよー。ラスのあんちゃんに教えてもらって、ナイフ投げが得意になったくらいかなー?」
「え?いつの間にそんなことしてたんです?」
「あんちゃん待ち伏せして、無理矢理教えてもらったんだー」
「どうしてラス?」
「ノインの方がって、思ったでしょう?オイラね、あの人の顔、苦手なんだよね~」
「顔?………………ああ、ノイン、インと瓜二つでしたねぇ」
ナシャはリティルの父である14代目風の王・インと交流があった。風の王が短命だと知っていたが、いざそれを突きつけられると猟奇的な性格でも哀しみくらい感じるのだ。
インが好きだった。その一言に尽きる関係だった。
「そ。イン様思い出しちゃってきついんだよねー。でも、いいの?ノインとは家族でしょ?」
「ジュールさんにもらわれてきました!」
「は?ええと……ジュール様?この人、リティルの補佐官だよねー?インファ兄の息子だよねー?引き抜いていいの?ってか、8人も子供いて、まだほしいの?」
「9人だが?事情があるのだ。ということで、今はわたしの息子(仮)だ」
花の王夫妻には、リャリスの他に、様々な花を司る花の精霊の子供達が8人いる。そして子供はまだ増えそうな勢いだ。
「オイラ、こんな人、面倒見られないよー?物理で治癒係しかできないし」
「おまえをインジュに付ける気はないから、安心するがよかろう。むしろ――」
「1人で殴り込み。じゃねぇ?インジュ、そろそろ本気出さねぇか」
「いつも本気ですよぉ?失敗続きですけど……」
ルディルの言葉に、インジュはシュンとしてしまった。ルディルとジュールは、凹んでいるなと互いに視線を短く交えた。
「ノインが行けと言えば行くのか?」
「………………はい」
「可愛い奴め。もういっそ、ノインに愛を叫んでこい!」
ジュールはインジュの首を捕らえると、グリグリと頭を撫で回した。
「それができたら苦労しませんよぉ!いらないって、ノインがボクのこと、捨てたん、ですからぁ……」
ノインが補佐官を務めていたとき、インジュは彼の弟子であり部下だった。力も心も未熟だったインジュを、腫れ物に触るようではなく、涼やかに笑いながら「これくらい、できるな?」と無茶な命令ばかりしてくれた。何かにつけて自信を持てなかったインジュだったが、ノインが「よくやった」と褒めるので、徐々に安定していった。
ノインは恩人なのだ。大切な人だった。だのにノインは戻ってくると言ったのに、以前のノインでは戻ってきてくれなかった。
「おい、インジュ……泣くほど好きなのかぁ?愛されてるねぇ次男」
ルディルは大きな手で、ジュールの腕に縋って泣くインジュの頭をヨシヨシと撫でた。
「ノインはボクに無茶なこと言うんです。他の人だったら死んでるようなことしてこいって、平気で言うんです。それが、ボクには嬉しかったんです……」
「……おまえを知らなかったら、虐めてるようにしか聞こえねぇわ。そいつは、今のノインにはハードル高けぇわな。ただなぁ、なぜそんな命令ばかりしていやがったんだ?性格は変わってねぇだろう?」
「ノインはたぶん、自分が寿命のある精霊だって知ってたんです。それで、一家のみんなを育ててた節があるんですよねぇ。ボクへの無茶振りも、その一環だったんじゃないかって思うんですよねぇ」
「ほう?おまえさんを補佐官にまで育てた手腕。さすがだねぇ」
そういえば、ノインが風の城から離れていた空白から今まで、風の城の通常業務が滞った事もなければ、大きなシステム的な問題も起こらなかった。風の補佐官の抜けた穴は大きいと思っていたが、それを知らず知らず一家の皆が埋めていた。ノインはそのように、皆を育てていやがったのかと、ルディルは知ったのだった。
気配を感じ、ルディルがサロンの出入り口に視線を向けた。
「ルディル様、ジュール様」
部屋に入ってきたのは、金色の長い前髪で左目を隠した、金色のハヤブサの翼を持つ風の精霊だった。真面目そうな硬い表情で、なぜか印象に残りにくいような青年だ。
「ラス!」
その姿を認め、インジュは名を呼んでいた。彼は旋律の精霊・ラス。風四天王に名を連ねる執事だ。
「インジュ、まったくあんたは、心配ばかりかけて!」
ヒュンッと飛んできたラスに睨まれ、インジュは声なく怯んだ。さらに怒られると思って待っていると、ラスの瞳が潤んで決壊する前に抱きしめられていた。
「――死んだか、と……思っただろ!」
「あ……すみません……3年って感覚、なくてですねぇ、そんな泣かないでくださいよぉ」
ラスは涙声で、しかし「泣いてない!」とインジュの肩に顔を埋めたまま怒っていた。
ラスはインジュの相棒を、風一家に加わってからずっと務めてくれている、相棒であり友達だ。心配していなかったわけはない。
「すみません……それで、あのぉ、どうしてラスがここにいるんです?」
インジュはラスを引き剥がすと、首を傾げた。ラスはもう泣いてはいなかったが、目元は赤くなっていた。
「城の内部を偵察してきたんだ。大丈夫、風の城へはケルゥ達が伝えてるから」
城?城とは、オリュミスの祖父が作ったとかいうあれ?とインジュはボンヤリ思った。風の城では、どんな作戦が立てられているのだろうか。
旧時代の暴君が敵ということで、ノインが行くんだろうなと、インジュはモヤモヤした。
こんな、とっちらかった心でなかったなら、ノインと飛ぶことだってできたはずなのに、リャリスが攫われたというのに、インジュは不甲斐なさでいっぱいだった。
「リャリスを見つけたか?」
ジュールの問いに、ラスはインジュの傍らに立つと花の王を見た。
「うん。でも……ちょっと……」
ラスはチラリと、インジュを見た。明らかに、インジュを気にしていた。
「蛇のイチジクは、その暴君とやらに、薬漬け魔法漬けにされていたのだったなぁ?同じ手を使って籠絡されたか?」
「あ、え?いや」
ジュールのねちっこい笑みに、ラスは怯んだ。
「リャリスはまだ生娘だからなぁ、そういう責められ方をされれば、躱せないかもなぁ?」
「ジュ、ジュール様!」
「ラス、リャリスは正気だったか?ん?」
咎めるラスの声を遮って、ジュールはズイッと凄みのある甘い笑みを向けてきた。その顔に、ラスは息を詰めた。
「……意識はなかったよ。でも、婚姻の証が守ってくれてる!体には触られてないよ」
「時間の問題だな」
ラスから距離を取ったジュールは、腕を組んで瞳を細めた。
「はあ、ゲス野郎め……動いていいなら、このオレがぶっ潰しに行ってるぞ?」
憤ってくれるルディルの声がする。しかし、インジュには、遠くで声がするような感覚だった。
インジュは、ラスやジュール達の方を向いてはいたが、どこか上の空だった。
様子がおかしいと思われたのだろう。ナシャが「インジュ?」と訝しげに顔を覗き込んできたが、インジュは答えることができなかった。
ただ、インジュに押さえつけられて、この体の下で苦しげに呻いていたリャリスの姿が、思い出されていた。
あの苦痛を、ボク以外の男が?インジュの心に、気が狂いそうなほどの熱が灯り始めていた。エンドの呼ぶ声がする。落ち着けと宥めてくれているのがわかる。だが、捨てたはずの怒り――逆鱗を鎮めることができない。
エンドの焦る声を吹き消すように、心の奥底から呼びかける声を、インジュは聞いた
『ねぇえ?アタシに任しちゃいなさいよぉ。わかってるんでしょう?アタシにぃ任しちゃった方がぁ、さっさとケリがつくって、ねぇ?』
甘えるような媚びるような抑揚。その声は、紛れもなく、インジュの声だった
その頃風の城では、インファが策を練っていた。
普段は何もない、だだっ広いホールのような床に、大きな机が置かれ、精巧な城の模型が置かれていた。
「はあ、インジュ……帰ってきたと思ったら出て行っちゃうんだから、もお!」
インファの隣で、ピンク色の髪をした、青と緑色の意志の強そうな瞳の、儚げな美人がため息を付いた。
インファの妃である、宝石の精霊・蛍石のセリアだ。セリアは、蛍石の煌めきを線で結び、描いたモノを実体化する能力がある。この模型の城は、そうやって作られた物だった。階層ごとに外れる仕組みになっている。この模型には魔法がかけられていて、現在斥候として動いている、破壊の精霊と再生の精霊が持つ水晶球と連動している。
「しかたないよ。エンドが言ってたんだ。かなり不安定だって。魔王が一緒なんだろ?何とかするんじゃないの?」
模型に目を凝らしながら、投げやりに言い放ったのは、茶色の髪に冷たいアメジストのような紫色の瞳をした、十代くらいの青年だった。
風の王の養子の次男・レイシだ。レイシは、敵味方の配置がわかる固有魔法・見破りレーダーを使い、セリアの作った模型に、赤いコーンを置く作業をしていた。置かれた赤いコーンは独りでに動き始めた。
「ああー!目が痛い!なんでこんな大きな城作るかなぁ!」
1階部分から始めて、今はやっと2階の半分だ。城は4階層で、無駄に広かった。
「あ、リャリス見つけた!」
そう言ってレイシはえいっ!と青いコーンを置いた。
それは、3階の中心に近い場所だった。
「動きはねーな。閉じ込められてるのか?」
動かない青いコーンを見つめ、呟くようにリティルが言った。
「うーん。どうなのかな?魔法的な罠はオレにはわからないなぁ」
「行ってみないと、わたしにもわからないわ」
セリアはどこか悔しそうだった。セリアは、リャリスを可愛がっていた。インジュには勿体ないと、実は息子の婚姻に乗り気ではなかった。
「さて、どう攻めましょうか」
模型を見つめるインファの瞳が、険しいながら落とし甲斐があると笑っていた。
「建物って、久しぶりだよな」
「ええ。ああ、だいぶ見えてきましたね」
動き出したコーンが線を描いていた。これはここに通路があることを示していた。セリアがスウッと指を走らせると、何もなかった模型内に壁が生まれた。
「これは部屋かしらね。暮らしてる人もいないのに、部屋っていうのも変ね」
「……これは、まさか……」
呻くような声を発したのは、ノインだった。
「ん?心当たりあるのかよ、兄貴」
「これは、見た目だけではなく、ロミス城だ」
黄昏の大剣が教えてくれた知識の中に、この間取りと同じ城の記憶が確かにある。
「ロミス?ロミスって、グロウタースの民が反魂するときに唱える呪文に出てくる、ロミスの門か?」
「父さん、あの呪文覚えているんですか?」
「意外そうだな……ああ、グロウタース式は材料から魔方陣、呪文まで知ってるぜ?」
これでも風の王だ!とリティルは胸を張ってみた。そうしたら、インファから羨望の眼差しを贈られてしまった。
「さすがですね。呪文までは空では言えませんよ」
精霊大師範という異名を持つインファから他意なく賞賛され、褒められ慣れていないリティルは途端に居心地が悪くなった。
「そ、そうか?おまえにそう言われると、調子狂うな……。で?どう攻めるんだよ」
リティルは早々に話題を変えていた。父王の問いに、風の軍師は曲げた人差し指を口元に宛がって思案し始めた。
「そうですね……インジュ頼みですかね……」
「あいつがリャリスを助けねーといけねーよな?けど、あいつ、動けるのかよ?」
「ジュールが何とかしますよ。ただ、荒療治だと思いますけどね。オレでは……無理です」
冷酷でも知られるインファが、弱気に肩をすくめた。
「ああ、オレもあいつに特攻しろって言えねーよ。最近は勝手に動いてたからな。そういうとこ、見落とさなけりゃ補佐に回れて楽だったんだよな」
「ええ。インジュに行ってもらうのが最善だと結論が出ていても、そういう使い方は、インジュ相手ではできません」
リティルは、いや、風の王の特徴と言えばそれまでなのだが、先陣を切る戦い方だ。インジュがいかに丈夫で、ニコニコしながら敵陣で舞い踊れるとしても、インジュに攪乱してこいと言えないのがリティルだ。
そしてインファは、どうにも息子には過保護だった。インジュの前では、合理主義の冷徹軍師を貫けないのだ。
それを上手く使っていたのが、ノインだったのだ。
王と副官の視線を受けて、元補佐官で現在将軍のノインは首を傾げた。
インジュもインジュで、ノインに「行け」と言われると「はい!」と言ってどんな過酷な場面にも飛び込んで行ってしまう。それが染みついているのか、ノインが力の精霊となり補佐官から下りてしまい、インジュが補佐官となってからは、誰にも何も言わずに行ってしまうことがあり、フォローにヒヤヒヤすることが多々あった。
ノインに使われている時は、失敗してもノインが後ろにいる。インジュが帰ることができなくなるという最悪の事態に陥ったことは皆無だった。
「あのさノイン、インジュにリャリス助けにここ行ってこいって、言ってきてくれない?」
目頭を押さえながら、レイシがノインに何気ない様子で提案した。リティルが「おい」と言いかけたが、インファに止められた。インファは、ノインがどんな反応を示すか見たかったのだ。
「ああ、オレと共になら行っていけないことはないだろう。だが、インジュを怒らせてしまった。ともに行動はできない」
「ノインは行かなくていいよ。インジュに、ちょっと行って助けてこいって言うだけでいいんだ。インジュ、昔っからあんたの言うことは断らないからさ」
ジロリと、レイシはどこか苛立っているような瞳をノインに向けた。
「インジュを怒らせた理由、おまえにはわかるのか?」
「ノイン、自分に非があると思ってるの?何もないよ?ただ、なんで、インジュの上司だったこと、忘れちゃったの?あいつ使いこなせるの、この城じゃあんたしかいないのにさ」
レイシの真っ直ぐな瞳に射貫かれ、ノインは戸惑った。
「インジュは、補佐官ではなかったのか?」
ノインの言葉に、その場にいた全員が「え?」と驚いた。
「え?ノイン、力の精霊になる前、風の騎士っていう風の王の補佐官だったの、知ってるんじゃないの?ノインが補佐官だったのに、なんでインジュが補佐官?」
「いや……確かに矛盾するが……オレの認識ではインジュは風の王の補佐官だ。なぜ”ノイン”は虚偽を?」
ノインは、力の精霊となる前、風の騎士という風の精霊だった。さほど強い力を持った精霊ではなかったのだが、無敗で、1対1では絶対に負けない精霊だった。リティルの父である14代目風の王の知識と記憶を持ち、聡明で、その知識と経験を使って風の補佐官を務めていた。ノインは力の精霊となるとき、風の精霊だったすべての記憶を失ってしまったが、風の騎士はノインに、記憶を関係性という認識に作り替えて残していてくれ、ノインはすんなり皆に溶け込めたのだ。
「関係の清算。ですかね?インジュは、それだけあなたに固執していたんですね」
「無理もねーかもな」
頷く風の王親子に、ノインは問うた。
「おまえ達は、何を知っている?」
「煌帝・インジュの2度目のバースデーだな。あいつが壊れた理由だよ。はあ、まあ、気にするなよ、ノイン。今更なんだよ」
「父さん、いいの?魔王に任せとくと、たぶん」
壊れちゃうかもよ?レイシの暗に言った言葉に答えたのは、インファだった。
「いいかもしれませんよ?エンド君は苦労しそうですが、インジュを解き放つには、いい機会かもしれません」
「いいのかよ?インファ」
「ええ。ここで終わるのなら、それが、煌帝・インジュの限界です」
ノインは、インファの瞳から感情が消える様を見た。
なぜ?相棒は、インジュの事を過保護にしてしまうほど、息子として愛しているのに、なぜ、切り捨てるようなことを言うのか、ノインにはわからなかった。
この戦、それほど悲観するほどのこともない。
敵の数は多いが、所詮は1度終わっている耄碌した老人が相手だ。
風の城と、太陽の城の総力なら、落とすのは容易い。いや、風の城だけで十分だ。
何が困難なのか。それは、リャリスが囚われていて、助け出す者はインジュでなければならないということに拘っているが故だ。
つまりは、本当に、旧時代の暴君など眼中にないのだ。
そこへ、ケルゥから情報がもたらされ、リャリスが拷問されていることを、風の城は知ったのだった。