探さないでください
探さないでください。
その一文を残し、お母さんが姿を消したのは、ほんの三日前。
お父さんも、お婆ちゃんも、叔母ちゃんも驚いて、警察に電話したり、近所を探し回ったりして、大騒ぎしていた。
あーぁ、こんなに公になったら、お母さん、帰って来にくいだろうな。
私は、ぼんやりと、そんな事を考えていた。
叔母ちゃんが、離婚して帰って来て、一年。
元々、お母さんの立場は、この家では、弱かった。
今は、亡くなったお爺ちゃんが、三年寝込んだ時も、世話をするのは、全部、お母さんだった。
その時、叔母ちゃんは、顔すら見せなかった。
お父さんは、仕事、仕事って言って、香水の匂いをさせて帰ってくる。
お婆ちゃんは、疲れた、疲れたと言って、四六時中寝ている。
でも、朝ごはん、昼ごはん、晩御飯は、人一倍食べて元気そう。
一人娘の私は、家族全員に対して、それなりに良い子を演じていた。
お婆ちゃんとは、お母さんの悪口を。
お父さんには、離婚したら、お父さんについて行くよと。
叔母ちゃんからは、知りたくもない大人の恋愛事情を、時に驚いたフリを、時に同情したフリをしながら聞いた。
お母さんとは、殆ど喋った記憶がない。
あの人は、気を使う相手じゃなかったから。
怒りもせず
泣きもせず
能面の様な顔で
ただただ、命ぜられるままに動き
食べ
寝る。
なんか、薄気味悪くて、血が繋がってるのが、無性に嫌だった。
三ヶ月後、何もなかったかのように、お母さんが帰ってきた。
「ただいまー」
今まで聞いたことのない、明るい声。
表情も晴れやかで、化粧してないのに、いつもより綺麗に見えた。
そう言えば、スタイルは、最初から悪くなかった。
「今日の晩御飯は、すき焼きよ!」
居なくなってた間の弁解すらなく、夕飯のメニューを口にする。
怒りまくると思ってたお父さんが、妙に媚びを売るようにお母さんの帰宅を喜んだ。
余程、お婆ちゃんと叔母ちゃんの料理が不味かったらしい。
それなら愛人の家に行けば良いのにと思ったけど、そっちもお母さんみたいな料理上手じゃないみたいだ。
その日を境に食卓に登る料理が、煮物からグラタンやハンバーグに変わった。
おばあちゃんは渋い顔をするようになったけど、お父さんも叔母ちゃんも私も喜んだ。
そうして日々が過ぎていくと、お母さんが家出した事も記憶の中で薄れ、何故出て行ったのかも、どうして帰ってきたのかも、どうでも良くなっていた。
夏の暑い、暑い、暑い日に、晩御飯は、お素麺だった。
熱々の天ぷらに、海老で出汁を取った麺つゆ。
ハフハフ、ツルツル、会話をするのも忘れて食べ続けた。
ゴフッ
突然、お婆ちゃんが苦しげに喉を押さえた。
ゴフッ、ゴフッ、ゴフッ
「お婆ちゃん!お婆ちゃん!お婆ちゃん!お母さん、お婆ちゃんが!」
台所を見ると、お母さんが居ない。
「叔母ちゃん!叔母ちゃん!」
「え?あたし?そんなの無理よ!」
見る間に顔色が変わっていくお婆ちゃんの直ぐ横で、私も叔母ちゃんも震えるばかりで何もできない。
どれだけ時間が経っただろう。
バタン
倒木のように、お婆ちゃんが椅子から落ちた。
「ひぃ」
私は、反射的に立ち上がった。
叔母ちゃんは、立ち上がる瞬間フラついて、お婆ちゃんの上に重なるように倒れたかと思うと、
「ぃいぃぃい」
言葉にならない音を発しながら、一ミリでもお婆ちゃんから離れようと必死に体を動かした。
結局、2人も居るのに何も出来ない。
そして、ピクピクとお婆ちゃんが痙攣し始めた頃に、
「ただいまー」
お母さんが帰ってきた。
「お母さん、何処行ってたのよ!」
「え?だって、貴女が生姜がほしいって言ったんでしょ?」
お母さんは、苦笑いしながらチューブしょうがをテーブルに置く。
「そんな事より、お婆ちゃんが!」
「あら、たいへん」
声が、全然大変だなんて思っていない響きだった。
それは、まるで、『こんにちは』とご近所さんに挨拶するような軽さ。
それでもテキパキと消防局に電話を入れて、
「救急車、十分で来るって。外で待ってるわ」
と言って出て行った。
「やだ!お母さん、置いて行かないでよ!」
付いて出ようとしたら、叔母ちゃんに足を掴まれた。
転けた私は、スローモーションのように床が目の前に迫るのを呆然と見た。
ゴン
思い切り額をぶつけて、頭がクラクラした。
「いったー、何すんのよ!」
私は、掴まれていない足で、叔母ちゃんの顔を蹴った。
「やだ、置いてかないで!腰が抜けて、動けないの!」
お婆ちゃんのスカートを、泡を吹いたお婆ちゃんが白目を剥いて掴んでいる。
「やだ!やだ!やだ!」
私は、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、狂ったみたいに叔母ちゃんを蹴った。
何度も、何度も、何度も、何度も。
フワッと軽くなった足を、叔母ちゃんの手から引き抜くと、私は、外に向かって走った。
「お母さん!お母さん!お母さん!どこ!」
夕闇に飲み込まれる街。
オレンジ色が、どんどん濃くなっていく。
必死に目を凝らして周りを見るけど、お母さんの姿は見えない。
遠くで、救急車の音が聞こえた気がした。
そちらに向かってる走るけど、どんどんと家から離れて行く。
おかーぁさーん
おかーぁさーん
高校生なのに、迷子の子供みたいに、泣きながらお母さんを探す。
おかーぁさーん
おかーぁさーん
隠れてないで、出てきてよー
おかーぁさーん
結局、真っ暗になって、お金もスマホも持っていない私は、家に帰ることにした。
「え?」
家の前には、救急車じゃなくてパトカー。
赤いライトがクルクル回っている。
現実味を伴わない光景に呆然としていると、ドラマのワンシーンみたいに、スーツを着た人と鑑識って書かれた腕章を付けた濃い青のつなぎ姿の人が、何人も家から出てきた。
そして
最後に出てきたのは
お母さん
やっと、見つけた!
「お母さん!」
何処に行ってたのよ!
そう口にする前に、
バチン
頬を思い切り叩かれた。
「アンタって子は!」
もう一度腕を振り上げて殴りかかろうとするお母さんを、男の人達が全員で止める。
「落ち着いでください、お母さん。娘さんも、何か事情があったはずです」
「それでも、人が二人も死んだんですよ!」
「へ?」
私は、足の力が抜けて、クタリと座り込んだ。
あぁ、やっぱり。
そんな思いが、胸に湧いた。
家から飛び出る直前、最後に見たのは、ピクリとも動かなくなったお婆ちゃんと歯が何本も折れて、顔中血塗れになった叔母ちゃんの姿。
放置すればどうなるか、頭の片隅で分かってたはず。
でも、そんなの子供の私に責任ある?
放って出て行ったお母さんがいけないのに。
でも、周りにある沢山の目が、私を非難していた。
お前が、見殺しにしてんだ。
そんな目だった。
「お婆ちゃん、天ぷらのイカを喉に詰まらせたんだって。○○ちゃんは、貴女が蹴り殺したのね?」
「殺すつもりなんて・・・」
「でも、助けなかったわよね?」
なんで、そんなに意地悪を言うの?
それでも、母親?
本当なら、庇うところじゃないの!
芽生えた怒りでお母さんを睨みつけた。
でも・・・・・。
警察官に両脇から腕を掴まれた私を
じっと見つめるお母さんの目元に
皺が寄った
笑った?
ねぇ、笑ったの?
警察に捕まるんだよ、私。
なのに、笑った。
その時、やっと気付いた。
お母さんの目尻に
泣き黒子なんて
あったっけ?
私、『お母さん』の事を何も知らない。
聞いた?奥さん。
えぇ、聞きましたわ、奥さん。
まさか、あの家で、あんな事がねぇ。
とっても仲の良さそうなご家族だったのに。
あと後、ご主人の愛人の遺体まで出てきたんですって?
そうそう、なんでも奥さんとやり直そうとして、邪魔になった愛人をご主人が殺して自宅の庭に埋めたらしいわ。
おーこわ、しかも、娘さんが、お婆ちゃんとご主人の妹さんを殺したんでしょ?
あら?お婆ちゃんは、心臓発作じゃなくて?
2人に漂白剤飲ませたって聞いたけど?
・・・まぁ、どっちでもいいわ。
そうね、どっちでも死んだことには変わりないものね。
ほんと、あそこ奥さん、良い人だったのに可哀想。
ねー、大人しいけど、清楚な美人さんだったわ。
あら、明るくて快活な方だったじゃない。
え?そうなの?私、ちゃんとお話ししたことなかったわ。
私だって無いけど、おはよーございまーすって、ゴミ捨ての時に大きな声で挨拶してくれたもの。
挨拶くらい、誰でもするんじゃないの?
そうだけど、そんな風に見えたのよ。
まぁ、日差しも暑いし、お互い熱中症には気をつけましょう。
そうね、じゃ、また。
ミーンミーンミーンミーン
生暖かい空気を、扇風機が掻き混ぜる部屋で、私は、鏡台の前に座る。
汗が流れるのをタオルで抑え、真っ赤な口紅を手に取った。
唇の上をなぞると、なんとも言えないベタついた感触がした。
半分溶けていたのか、折れてボトリと下に落ちた。
『クーラー掛けないからよ』
頭の中で声がする。
「だって、『お母さん』は、自分1人じゃクーラーなんてつけなかったじゃない」
『別に、アナタは『お母さん』じゃないから、いいんじゃないの?』
「『先生』は、直ぐそうやって揚げ足を取るわね」
『別に、揚げ足を取ってるわけじゃないわ』
「ほんと、別に、別にって煩いのよ」
私は、『先生』との会話を一方的に遮断した。
あぁあ、ほんと、面倒だわ。
一つの家に、大勢で住むのって。
私は、『悪女』。
この体の、第四の人格。
さっきの『先生』は、この体が高校教師をしてた頃のもの。
主人格に一番近かったのは、『お母さん』かなぁ。
他にも、『ひきこもり』とか、『いじめられっ子』とか、酷いのだと『風俗嬢』なんてのもある。
この前出て来てたのは、『復讐鬼』だったかしら?
『お母さん』の敵討ちしたら、満足して眠りについちゃった。
暫くは、私の物かな、この体も。
え?『お母さん』は、何処に行ったって?
あなた、忘れたの?
探さないでください
っ言ってたじゃない。
完