終章
長い冬が終わり、春が微笑んでいる。小川は雪解け水で満ちあふれ、村はずれに植わったリラの花は、その薄紫の蕾をわずかにほころばせている。小麦の種まきを始め、冬の間につくった毛織物を街に売りに行く季節がやってきた。
その早春の安息日に、村人らはみな長老の家に集っていた。来客が訪れたのだ。
村人らは皆、居間の床に座ったまま黙っている。人形を胸に抱いた幼子から、深いしわに慧眼を隠した老人まで、みな呆けた表情で、宙を見つめていた。
部屋の暖炉の火が、音を立てて爆ぜた。
その音にはっと現にかえった長老は、来客であるところの青年を見た。
「それで……魔物は助かったのか」
長い話を語り終えたばかりの青年に、長老が尋ねる。
村人らの視線が、いっせいに青年へと集まった。皆の興味は、青年の答えに他ならない。彼が語った、狩人の少女と、彼女の右腕を食べた魔物の物語、その顛末。
「……魔物は、死から逃れた」
青年の低い声が響くと、そこかしこから安堵の溜め息が漏れた。
「使徒の種子が宿る少女の右腕を食べた魔物は、命の危機を乗り越えた。……話はそこで終わりじゃない。魔物は少女の腕を食べてから、不思議なことに、あれだけ苦しめられた飢えが癒えていくのを感じたそうだ」
「……人を食べずに、生きていけるようになったの?」
おそるおそる口を開いたそばかす顔の娘に、青年はゆっくりとうなずいた。窓硝子から差しこむ日差しが、青年の黒髪を淡い光で照らす。
「使徒から種子を授けられた者、それが狩人。種子は魔物を狩る武器へと変化するが、狩人が魔物に種子を与えると、種子は魔物を飢餓期の呪いから解き放つ、救いとなった。──使徒は人間に種子を与える時に、きまってこう告げるそうだ。〝魔物という哀しい肉のうつわから、魂を救済する御手となれ〟」
「……だとしたら、狩人は聖書にある通り、ほんとうに魔物にとっての救いの御手なのね」
そばかす顔の娘が、吐息を漏らすようにつぶやいた。娘の表情は明るかったが、村人たちの大半は顔を見合わせ、戸惑いの表情をあらわにしている。
それも当然だった。復讐は醜いと言って、狩人の逸話を幼子たちに隠し、人間の世界から狩人をつまはじきにする風習は、ごく最近まで受け継がれていたのだから。
語り手である青年は、幼子の前で狩人の物語を紡いだだけでなく、人間の敵と見なされてきた魔物と、狩人の少女の愛を語った。
「──それは、本当にあった話なのか?」
長老が青年に詰め寄った。
青年は立ち上がり、借りていた膝掛けをていねいにたたんで預ける。
「これまでの話を聞いて分かると思うが、俺は語り手としては、あまりに不器用だ。作り話を語れるほどの腕はない。信じるかどうかはお前たち次第だが、真実だと受けとめてもらえたなら、嬉しく思う」
青年の瞳が、やわらかく細められる。
「信じるわ」
そばかす顔の少女が、無邪気に答えた。大人たちは戸惑い視線を泳がせたが、やがて何人かは静かにうなずいた。
娯楽のない村を訪れた語り手には、すでに前金として十分な報酬が払われていたが、村人の数人は青年に近づいて、追加で硬貨を手渡した。話に満足したという証だ。
「……少女はどうなったんだ?」
銅貨を数枚青年の手に乗せながら、長老が尋ねる。
青年がそっと唇を持ち上げるのを見て、長老は口を噤んだ。それ以上尋ねてはいけない気がした。
語りを終えた青年は、村人らに礼を言い、居間の扉に手をかける。
「──魔物は」
長老が再び口を開く。
「魔物は、飢餓の呪いだけが解けたのではないのだな? 陽の光も恐れる必要がなくなった。そうだろう?」
背に投げられた問いに、青年は振り返った。
彼は微笑んでうなずく。
陽の光を浴びて、真紅の瞳を明るく透かしながら、はにかむような表情で。
〇
「嘆いても、憤っても、真実は変わらないわ」
青年の隣を歩く女性──はじめて会った時は、その黒髪をふたつ括りにしていた少女だったが、今は淑女らしく髪をひとつに結い上げている──が、まなざしを前方へと向けたまま、ひとりごちるようにつぶやいた。
「あの子たちは、憎んでいた魔物の話を聞いて、今は混乱してとても苦しいでしょう。それでもあなたの話は、これからあの子たちが考えていくべき問題の確信を突いている。あなたはいつも強い気持ちをぶつけられて、つらい思いをするでしょうけど……」
村から村へと渡り、語り手として旅を続けていた青年が最後に立ち寄ったのは、フォルモンド王国に帰属する、狩人たちの箱庭だった。ここに来た新しい狩人の子どもたちの前で、いつもの話を語り終えた青年は、淑女と共に館の廊下を歩いている。
「……俺はただ思い出を語るだけだが、それが魔物に傷つけられた者の心を損ねる話でもあるということも知っている。……気にかけてくれてありがとう。お前は優しいな」
青年が淑女に微笑むと、彼女は端正な眉をそびやかして、ぴたりと足を止めた。
「そういう文句は、ただ一人にだけ仰いなさいな」
はねのけるような声音で言い切って、淑女は長いスカートを蹴って、また歩きはじめる。青年は思わず苦笑して、彼女のあとを追いかけた。
「そうだな。気をつけよう」
「そうしなさい。……それと」
淑女が庭長室の前に立ち、扉を軽く叩く。なかから応答の声が返ってきた。彼女は扉を押しあけながら、軋む音にまぎれさせるように、言葉を紡ぐ。
「……あなたはあの子たちを損ねたとは限らない。何がさいわいかは、何年も経ってみないと分からないものよ? 家には帰れなかったけれど、この箱庭に居場所を見つけた、私のように」
青年は思わず淑女の顔を見た。けれど彼女は聡明な青い瞳を、まっすぐに部屋の主に向けていた。
彼女が庭長の名を呼ぶ。部屋の最奥にしつらえられた執務机、その前に置かれた椅子にもたれる庭長は、温和な笑みを彼女に返す。年若い庭長は見目に反して、箱庭の結界を維持するだけのちからを持つことを、青年は知っている。
「おつかれさま」
庭長が、ねぎらいの言葉を青年にかけた。青年は黙って頭を下げる。
「もう夕刻だ、今夜こそ泊まっていくだろう? 積もる話もあるし」
「……いえ、俺と顔を合わせたくない子もいるでしょうから」
「相変わらずつれないなぁ。そんなの別室を用意するとか、どうとでもなるのに」
「あまりお引止めしては、ご迷惑かと」
淑女がやんわりと庭長を牽制する。庭長は不満げに口をとがらせた。立場に見合わない表情に、青年は思わず声を漏らして笑ってしまう。
柔和な庭長と、彼の補佐をする利発な淑女。一見ちぐはぐな二人だが、しかしその実うまく噛みあい、この箱庭を守り、育んでいる。
「分かったよ。でもまた近いうちに来てくれ。狩人になった子どもたちは、この箱庭に集うさだめだからね。君の話が大事な学びとなる」
青年はうなずいた。
たとえ人と魔物が分かりあえた例があったとしても、魔物は人を傷つけて、狩人は生まれ続けている。それもまた事実だ。大きな流れを変えていくには、長い月日が必要だろう。青年にできるのは、小さな火を燃やし続けるように、思い出を語り続けることだけだ。
庭長への挨拶を終えた青年は、踵を返して部屋を出ようとした。その際、ふと部屋の窓硝子の向こうの景色に目を奪われ、立ち止まる。
窓の外には、緑の庭が広がっていた。季節を問わず白い花がこぼれるように咲く、不思議な庭園が。
「どうかして?」
淑女に呼びかけられて、青年は我に返る。彼は庭を指差して、淑女と庭長に尋ねた。
「──あれを貰っていいだろうか」
〇
禁忌の森にも春はくる。朝晩の寒暖差によって霧は濃くなり、寒さがやわらいで、霧の粒子がやわらかな質感となる。
あたたかな空気に目覚めの時を知った植物が、硬質な無彩色の花を開かせる。冬眠していた動物たちが目覚め、彼らの鳴き声で、森は雪の季節よりもにぎやかになる。
季節も年月も感じさせない、森の大半を構成する糸杉の群れも、よくよく見ると、やわらかな新芽を伸ばし始めていた。
青年は森を渡る。彼にとってこの森は、慣れ親しんだ故郷でもあり、愛する人と時を過ごした、思い出の場所でもあった。
むかし彼女がしてきたように、青年は日が高いうちは歩き、日が暮れてからは火を焚き、睡眠をとった。そうしていると、永劫の時間を持つこの森を通して、遠い日の彼女がすぐ側にいるような気がした。
数日かけて、森を抜ける。清水が流れる川を渡り、草むらに分け入り、ゆるやかな起伏のある丘を歩く。道の途中で、今はもう無人となった教会が見えた。白亜の壁はひび割れて蔦が這い、廃墟のような外観になっているが、ときおり手入れをするので、なかの聖堂は綺麗なままだ。
教会を横目に、青年は丘を下る。
やがて、草が生い茂る荒れ地のなかにぽつりと建った、小さな家の屋根が見えた。
草原が風になぶられ、波のようにうねって葉擦れの音を奏でる。その風に背を押されて、青年は草原のなかを行く。
雲の隙間から陽光がこぼれ、草原が淡く輝いた。光の草原を進む青年に併走するように、空から白い小鳥が舞い降りて、くるりと旋回し、風切羽を伸ばして彼の肩に並ぶ。
小鳥の喉から愛らしい鳴き声が漏れた。青年は隣で遊ぶ小鳥を見て微笑む。
小鳥は青年にじゃれるように舞い、無軌道な飛翔を楽しんだのちに、彼が目指す家の屋根にとまった。しばらくして青年も、家の前へと辿り着く。彼は息を整えて、身なりを正し、質素な木製扉を軽く叩いた。
しばらくして、家のなかから軽い足音がして、玄関扉がそっと開かれる。
扉の向こうに、女が立っていた。
白金の長い髪をさらさらと風になびかせて、白い頬を薔薇色に上気させて。
大きな琥珀の瞳が、彼のすがたを捉える。大人になった彼女は、少女のころと同じように、目を細めて微笑んだ。
「おかえりなさい、ラウ」
腕を広げた女が、青年の身体に飛び込む。青年もまた、彼女を受け止めて抱きしめる。右の袖が遊んでいる、不均等な女の身体を守るように。
「ただいま」
青年はそう応えて、ずっと手に持っていたものを彼女の前に差し出す。
箱庭で貰った蕾は、数日の旅のあいだですっかり開いていた。
その花を目の前にして、女はすこし驚いたように目を見開き──はにかむように声を立てて笑った。遠い昔に、彼女を踊りへ誘った時に手渡したものと同じ花。女と同じ名を持つ花に、彼女の細い指が伸ばされる。
「ただいま、リィリエ」
長い旅のあいだ、ずっと会いたかった笑顔が、いま目の前で咲いている。
彼はもう一度、百合の花ごと彼女を抱きしめた。
黄金の雲から光の筋が地上に落ちる。まばゆい光に誘われるように、家の屋根にとまっていた小鳥が空へと飛び立った。小さな鳴き声を上げて舞い遊んでいるうちに、どこからか飛んできたもう一羽の小鳥が、じゃれつくように小鳥の周りを旋回する。
二羽はやがて、草原の上を渡っていった。荒れ地を越えて、禁忌の森を越えて、フォルモンド王国の首都サリカを見下ろして、まだ雪化粧の残る山脈のあいだを、悠々と飛んでいく。
国境を越え、見果てぬ地へ。
まっすぐに羽を広げて、どこまでも。
了




