第3話 決断
薔薇窓から、午後の斜陽が差し込んでいる。
輝く光は磨き抜かれた床に落ち、乱反射して、空間を天上へと導く高い天井に──リブ・ヴォールト天井と呼ばれる、アーチを連ねたかたちの穹窿に、淡い輝きを宿した。
簡素ながらも清潔な、シグリの村の教会堂。礼拝の日には村人たちがこぞって集うこの教会も、今は神父であるハイネとリィリエの他には誰もいない。
リィリエは踵を鳴らして、石造りの身廊を進んだ。最奥にある祭壇、その前に立ったハイネのもとへと歩み寄り、そのまま膝をつく。祭儀の時と同じように、黒い祭服の上に白の長衣を身に着けたハイネは、そっとリィリエに手を伸べた。
少女の額に神父の指先がふれて、加護となる。伏せていた瞼を開いて、リィリエは立ち上がった。
『おそらくあなたの右腕一本では、魔物の腹は満たされないでしょう。飢餓期を迎えた魔物は獰猛です。あなたを襲った魔物は、きっと次の獲物を探している……。高い知能を持つ魔物であるならば、追い立てた討伐隊に……シグリの村に、復讐を企てるかもしれません。この村は今、とても危険な状態にあるのです』
厨房で聞いたハイネの言葉が、脳裏によみがえる。
(村が危険にさらされているなら、ここにいても、家に戻っても、危険なことに変わりはないわ。それなら、わたしにできることがあるならやってみたい……)
リィリエはそう考えて、狩人の詳しい説明をハイネに求めた。するとハイネは席を立ち、見せたいものがあるとリィリエを教会堂に誘ったのだ。
(そもそも、狩人って何なのかしら。それに、どうして狩人になれるかもしれない人が、わたしなの……?)
「リィリエ、こちらへ」
脳裏に浮かぶ数々の疑問に応えるかのように、ハイネは講壇へとリィリエを招いた。
無垢の木でできた講壇の上には、一冊の大きな図録が乗っている。それは日焼けしてすっかり古びていて、ハイネが開くと、かすかに糊が割れる音がした。
「かみさま……」
リィリエがつぶやく。覗きこんだ図録には、繊細な筆致の絵画が載っていた。描かれているのは、草原へ降臨した創造神と、そのまわりに集って神に頭を垂れる、ありとあらゆる生き物たち。
「これらを使徒と呼びます。神が選んだ、はじまりの者たち」
もっとも神の近くにいる動物のひと群れを、ハイネは手のひらで撫ぜた。
「使徒とは、天啓を受けて言葉を解するようになった、聖なる獣のことです。神が使徒に与えたのは、永遠にも等しい命と、種子を与えるという能力。その能力で、使徒は人の肉に種子を与え、身の裡に芽吹かせ、類稀なるちからを施すそうです。……もちろん誰にでも、という訳にはいきませんが」
ハイネはリィリエの表情をうかがいながら続けた。
「つまり──使徒に会う資格を持っていて、使徒に選ばれた者だけが、狩人になれるのです。……呪われた魔物を屠ることができる存在に」
それはリィリエにとって、驚き以外の何物でもなかった。
──銀の剣で心臓を刺し貫いても、人に魔物は殺せない。そう言い聞かされて育ってきたのだから。
「……わたしに、使徒に会う資格があるということですか?」
「ええ……いかに呪われた魔物といえど、神は無益な殺生を好みません。使徒にまみえる資格とは、魔物に肉体を損なわれた者であること」
リィリエは思わず右肩を見た。
ハイネが図録を閉じる。大窓から降りそそぐ光の道筋のなかに、金の埃が舞い遊ぶ。
「けれど理とは、水平に保たれた天秤。狩人はちからを手に入れる代わりに、いくつかの代償を支払わなければなりません。そのひとつが、人の輪から外れた存在になるということ」
「人の輪から、外れる……?」
「そうです。狩人は肉体の最盛期になると成長が止まって不老となり、長い時を生きると言われています。人と同じく肉体を大きく損傷したり、死の病に罹れば命は潰えますが、老死することがないのだとか」
──それは、代償と言えるだろうか?
そう顔に出ていたのか、リィリエの表情を見て、ハイネは困ったように笑った。
「不老が必ずしも良いとは言えません。人の輪から外れるということは、人と違う時間を生きるということ。たとえ元の生活に戻ろうとしても、そこには必ず嫉妬と差別が生まれる。狩人は一生奇異の目に晒され続けるでしょう」
リィリエは目を見張り、シグリの村人らの顔を思い浮かべた。
「もうひとつの代償が、自らを傷つけた魔物の息の根を止めるまで、狩人は人里に立ち入れなくなるということ。これは狩りのさなかにいる狩人の存在を隠すため。何も知らない幼子たちの信仰を、清らに保つための決まりごとです」
だからハイネは厨房で、本来なら成人の時に語り継ぐべき話だと言っていたのだ。
リィリエは首を傾げる。
「でも……魔物を倒すなら、英雄と讃えられてもおかしくないのに、なぜ隠すのですか?」
「いかなる理由があろうとも、復讐は醜い」
きっぱりとしたハイネの物言いに、リィリエは思わず口を噤んだ。
「魔物に傷つけられた人間をあわれに思い、人間が絶滅しないための抑止力が必要だと判じた神が、私たちに与えた復讐の武器。それが使徒の種子です。たとえそのちからが人々を救うものであったとしても、狩人が歩むのは魔物殺しという暗い道。決して讃えられることではありません。もし狩人の賛美を赦してしまったら……汝の隣人を愛せよという神の言葉を、信仰を裏切ることになってしまいます」
狩人はその身を犠牲にしても、決して認められず、存在をひた隠しにされ、すべてが終わったあとも元の生活には戻れない──
「ここまでが、おとなになった暁に語られる話です。多くの人にとっては、ただの寓話。けれどあなたにとっては──選択すべき事柄」
そこまで話して、ハイネは表情をあらためて、リィリエに親しみのある笑顔を向けようとした。けれど上手くいかず、痛みをこらえて笑うような、歪んだ表情になる。
「……リィリエ。あなたは選ばなくてはなりません」
ハイネは少女の名を呼び、まっすぐな視線を彼女に向けた。
「あなたは村を救うために、その身を犠牲にして、狩人になる覚悟はありますか」
彼は、もう一度問いを重ねた。
──引き結んだ唇の端がわずかに震えている。
リィリエが物心つく前から側にいて、いつも色々なことを教え導いてくれた、もう一人の父親のような、兄のようなハイネ。たとえ村のためだとしても、リィリエに復讐を終えるまで、村はおろか、人里にも立ち入れない存在になるよう勧めることが──すべてが終わっても、ずっと日陰者でいる道を指し示すことが、どれだけ辛いことなのか。ハイネが何も言わなくても、彼の押し殺した表情が雄弁に語っている。
(……わたしは愛されていた)
愛されていたと、そう思う。
ハイネにも、今は離れ離れになっている両親にも、妹と弟にも、村の人たちにも。
──それならいいと、そう思えた。
たとえ誰からも正しいと言われない、間違った存在になるのだとしても。不具になってしまった自分でも、愛してくれた人たちを守れる存在になれるのなら、それが自分のなすべきことだと思えた。
たとえそれが、茨の道だとしても。
(わたしも愛していた)
ハイネを。家族を。シグリの村のみんなを。
……だから、
「神父さま。わたし、狩人になります」
リィリエは拳を握り、胸を張って、その道を選びとった。