第31話 対峙
遠い昔の夢を見る。視界は白と黒の無彩色で、ぼんやりとした陰影しか分からない。それでも、そばにぬくもりが寄り添ってくれていることが分かる。規則正しい心音が皮膚を隔てて、彼の頬をそっと叩く。
誰かが、自分のとなりにいる。
そのことに安堵して眠っていた、幼いころの……。
唐突に視界が暗転した。
はっと目を覚まし、反射的に身を起こす。右腕と脇腹に鋭い痛みがはしる。思わず顔をしかめながら辺りを見回すと、慣れ親しんだ光景が彼の目に映った。そこは、魔物がねぐらとしている洞だった。
(──俺は、洞の前で気を失ったのではなかったか)
不思議に思いながら視線を下げると、右腕と脇腹に布が巻かれていた。きつく止血するように縛ってある。
(誰かが俺をここまで運んで、手当てをした……?)
心当たりがなかった。人になれる魔物は、この近辺にはいない。知能が低く言葉を持たない魔物などは、彼に治療を施さずにそのまま捨ておくか、あるいは同族であることに構わず、血肉を啜るだろう。
だとしたら、誰が──
「……気がついたのね」
とつぜん言葉が降って、魔物は声のした方を振り向いた。
彼の動きにびくりと身体をすくめたのは、魔物が攫ってきたあの少女だった。彼女の手には、水で満たされた木の碗がある。
「なぜ、逃げなかった」
少女は目を見開いた。どうして人の言葉が分かるのかと、そう思っているのだろう。
黙って返答を待つと、少女はおそるおそる唇を開いた。
「……逃げようと思ったわ。でも、あなたが倒れているのが見えたから」
「それで俺を洞まで運んだのか? 手当ても?」
「ほんとうは薬草を擦りこめたら良かったのだけど、この森に生えている植物は、見たことがないものばかりだったから……」
魔物は言葉をなくした。
攫われたという自覚があって、なのに魔物を見捨てずにこの森に留まって、手当てをした。──訳が分からない。この醜いすがたを見たなら、嫌悪するのが普通ではないのか。
「湖で水を汲んできたから、傷口を清めさせて……?」
少女はそっと木の碗を魔物に差し出した。あかぎれだらけの指先が視界に入って……魔物は碗を叩き落とす。そのままかぼそい少女の腕をねじりあげると、彼女は小さな悲鳴を上げた。
顔を覗き込むと、少女の琥珀の瞳は恐怖に彩られていた。少女の歯の根が合わず、かちかちと音を立てる。
「俺が恐いんだろう?」
魔物は地を這うような低い声で尋ねる。
いくら人にすがたを変えられるとしても、魔物は人間から疎まれる生き物のままだ。
少女はかたかたと震えながら、唇を開く。
「……あなたは、人を食べる魔物?」
「そうだ。喰われるのが嫌なら、命乞いをしてみろ」
幻滅したかった。魔物を恐れ、醜く泣き叫び、命を乞う人のすがたを目に焼きつけて、もう二度と人間を愛しく思わないよう、心を踏みにじってほしかった。
しかし少女はまぶたを引きつらせながらも、鋭い視線を魔物に返す。
「……わたしを食べるなら、手当てが終わってからにして」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
呆然とする魔物の前で、少女は震える腕を懸命に動かして、両肩と額と心臓を、指先で突いていった。それは街や村で、人間が安らかな表情を浮かべて繰り返していたしぐさだった。
少女の声に力がこもる。
「あなたに食べられたら、わたしの肉体はあなたのなかでずっと生き続ける。魂はかみさまのもとへ行く。だから……こわくない」
濡れて透き通った少女の琥珀の瞳が、魔物をひたと見つめた。
「あなたの傷が治ったら、わたしを食べてもいい。でもわたしを食べるなら、ほかの人は絶対に食べないって約束して」
洞のわずかな明かりを集めて、白い月のような輪を宿した、少女の白金の髪が目を射った。まるでそこを中心に、彼女自身がうっすらと発光しているかのようだった。
少女から手を離す。
うなだれて動かなくなった魔物を、少女はだまって眺めた。そのうち不安げな表情で、魔物の顔を覗き込んでくる。
どうして自分を食べようとしたものの心配をしているのか。魔物はぼんやりとしたまま不思議に思った。
やがて彼女は地面に転がった碗を拾って、洞から出て行った。
時間をおかず、彼女はまた洞に戻ってきた。碗にたたえた水をこぼさないよう気づかう、密やかな足取りで。
少女は魔物に当てていた布をほどき、魔物の傷をそっと水で清めた。魔物はされるがままになっていた。彼女が別の布で、魔物の傷口を覆う。
少女は黙ってひたすら手当てをし、魔物は頤を閉じてうずくまり、動かない。
二人とも、なにも言わなかった。まるで不出来な無言劇のように。




