第16話 行方知れず
リィリエがアンゼルムの箱庭に入ってから三日目、とある事件が起きた。
館で一番日当たりの良いところに設けられた礼拝堂、その隅から隅までを膝をついて、くまなく見ていたリィリエが、溜め息と共に立ち上がる。擦れて赤くなった膝頭を気に掛ける余裕すらなく、彼女は眉根を寄せた。
「……あ、どうだった? リィリエ」
礼拝堂の扉を押し開けると、勉強室から出てきたアラリカが、リィリエのもとへと駆け寄った。首を横に振ると「そう」と彼女は肩を落とす。
「勉強室にもなかったよ。どこいっちゃったんだろうね」
「アラリカ、ごめんなさい……あなたの手まで煩わせてしまって……」
「ううん! それは気にしなくていいってば! 大切なものなんでしょう?」
手を振って否定したあとに、アラリカが心配そうに言い添えた一言に、リィリエはうなずいた。あの小さな重み、それが心臓の上にないというだけで、どうしてこんなに心もとないのだろう。
ロザリオがないと気づいたのは、朝の祈りの時だった。アンゼルムの箱庭の子どもたちは、朝目覚めると洗面室で顏を清めて、髪を整え、自室でお仕着せに着替えると、すぐに礼拝堂に集まる。そこで神への祈りを捧げるのだが、リィリエはそこではじめて、いつも慣れ親しんでいたロザリオが、首から下がっていないことに気づいた。
(眠る時も一緒なのに……いつなくしたのかしら、ゆうべの湯浴みのとき? それよりもっと前なのかしら)
あんなに心を寄せていたのに、すぐに気づかなかったことが情けない。
軽やかな鐘の音が鳴り響く。始業が間近だという合図だ。礼拝の後、朝食をはやばやとすませてロザリオを探していたけれど、そろそろ持ち場につかなければならない。
「今日あたしは勉強の日なんだけど、リィリエは?」
「わたしは家事の日なの」
「そっかぁ。昨日はたしか勉強の日だったよね? あたし、授業が終わったらもう一度、勉強室のなかを探してみるよ」
「アラリカ、ごめんなさい。ありがとう……」
二人は目線を通わせると、それぞれの持ち場へと急いだ。
アンゼルムの箱庭は、魔物を倒すために狩人になった子どもたちが集う館だ。だが、子どもたちはまだ一様に幼く、あらゆる知識や経験が足りていない。それに加えて、子どもたちは自分の手で、館での生活を維持していかなければならなかった。
それを解決するしくみが、日替わりで与えられる役割分担だ。体のしくみや戦い方を机上で学ぶ勉強の日。年長者が体の使い方を実践で教える訓練の日。麦や野菜をつくる農作業、掃除や洗濯や炊事をこなす家事の日。といった具合に。
「あぁ、リィリエ。ロザリオは見つかったかい?」
庭へ向かう途中の廊下で、カーティスに出くわす。彼は両手一杯に衣服やリネンを抱えていた。今にもこぼれて落ちそうなそれを半分引き受けながら、リィリエは首を横に振る。そのしぐさに、カーティスは小さく肩をすくめた。
「どこで落としたかの心当たりがないなんて、あんたって結構抜けてるね」
「それは……その通りだわ……」
「……認めないで反論のひとつでもしなよ、ぼくが本当の悪人みたいじゃないか」
軽口をたたきながら、扉を開けて外に出る。
屋外では、これから訓練に従事する子どもたちが暇を持てあまし、一足先に走り回って遊んでいた。庭の白百合と野薔薇の香り、それから芝生の緑が擦れ合った青い匂いが、涼やかな風に運ばれて、リィリエの頬を撫でる。
二人は布の山を井戸の前に運び終わると、かたまった背骨を伸ばした。
禁忌の森のなかでも、この箱庭のなかだけは木々が剪定されていて、広い空が臨める。木陰からちらちらと陽がおちて、天へと伸ばした二人の手のひらを赤く透かし、皮膚の上に斑の模様を描いた。
「……ジゼル。遅かったね」
カーティスの呼びかけに、リィリエは地上に視線をうつした。太陽の下でも黒々と艶やかな髪、それをいつも通りふたつに結わえたジゼルが、みっつ重ねたたらいのなかに、洗濯板と固形石鹸を入れたものを抱えて、こちらに歩いてくる。
「途中、アンナが転んだところに通りすがったの。医務室まで連れて行って、手当てをしてきたわ。始業に間に合ったのだから問題はないでしょう?」
ジゼルの正当性を証明するかのように、始業の鐘が鳴り響く。
「……た……大変だったのね。アンナは大丈夫……?」
「……膝を擦っただけ。私と別れる頃には泣き止んでいてよ」
リィリエをちらと一瞥し、視線を外しながらジゼルが答えた。必要最低限の会話は交わしてくれるものの、あいかわらずのジゼルの冷たい態度に、リィリエは二の句が継げなくなって、口ごもってしまう。
「──さぁ、作業を始めよう。手早く洗って干さないと乾かない」
手をたたいて、こごった空気を払拭したのはカーティスだった。
清潔な井戸水をたらいに満たして、そのなかで衣類を揉み洗う。ここでは特に衛生面に気を配っていて、身に着けたものは毎日洗うし、毎晩湯浴みを行っていた。
それは、もし疫病が発生しても簡単に看てもらえる場所でないことや、狩人の体のしくみが人と異なるため、病にかかった場合、治療が困難なことに起因している。質素ながらも毎日きちんと食事をとるのも、栄養をとって丈夫な身体をつくるため──そう勉強の日に、アンゼルムから教わった。
惜しみなく石鹸を使って、シャボンの泡で手を濡らしながらも、リィリエの心はロザリオのことでいっぱいだった。会話がすこしでも弾んだなら、ジゼルにも心当たりがないか聞きたかったけれど……。
ちらとジゼルの方を見ると、彼女は冷然とした美貌を崩さず、水仕事に勤しんでいた。リィリエはそっと息を吐き、自分の手もとに視線を戻す。
(礼拝堂、勉強室……あとは食堂、浴室、洗面室、自室かしら。動線上にある廊下も、くまなく見てみないと)
アラリカが同じ班だったなら──
リィリエはあわてて頭を振って、その考えを追い払った。怪訝そうにこちらを見るジゼルとカーティスに「頬がくすぐったくて」と言い訳をしながら、心のなかで十字を切って懺悔する。
(二人に失礼だわ。わたし、贅沢になってる)
リィリエが加入した班は、ジゼルとカーティスの二人で構成されている〝一班〟だった。班の数字が若いほど、狩人としての能力が高いことを示す。
「一班には欠員が出たばかりなんだ。武器をいちはやく発動しできた、君への期待を込めて……一班への入班を命じるね」と、アンゼルムから先日配属を言い渡された。
アラリカとウルツは三班だ。班は三、四人で構成されていて、役割分担は班ごとに輪番制になっている。つまり、同じ班の者は、それだけ行動をともにする機会が多い。
(ジゼルもカーティスも、毅然としていて立派だもの。わたしが子どものように甘えたがっているだけ。はやく一人前の狩人になれるよう、二人を手本に頑張らないと)
たっぷりと時間をかけて洗濯を終える。風にさらせるよう広げて干したら、冷えて赤くなった手にひまし油を擦りこむ暇もなく、今度は館のなかの掃除にとりかかる。同じように家事の日にあたる子どもたちと合流し、手分けして窓や床や家材を清めていく。
リィリエは移動中もあちこちに目を配って、ロザリオを探し続けた。昼食の時間や休憩時間を使って、ひとつひとつの部屋を見てまわる。アラリカはもちろん、気もそぞろなリィリエに事情を尋ねた子どもたちも、捜索を手伝ってくれた。無関心を装っていたカーティスでさえ「あの部屋にはなかったよ」と助言をくれたほどだ。
けれど、終業の時間になっても、リィリエのロザリオは見つからなかった。




