序章
少女は血に濡れていた。
朧がかった片割れ月が滲む夜。あたりには黒い糸杉の群れが広がり、そのあわいには乳白色の濃霧が立ち込めている。濡れそぼった空気に溶けた、木々の匂いが清冽な森。
森の片隅、朽ちかけた落ち葉の上に、一滴、また一滴と垂れているのは、まだあたたかな少女の血だった。血は、少女のまろやかな首すじから次々とあふれ、かぼそい鎖骨を流れ、白い服を赤く汚しながら、体の輪郭をつたい、つまさきをうるませて、珠となってしたたり落ちている。
「ねぇ」
少女がつぶやいて、濡れた琥珀の瞳を瞬かせる。少女の瞳孔に映り込んでいるのは、自身を宙吊りにしているもの──異形の魔物の姿だった。
人と同じように二本の足で立つその生き物は、しかし異形の名にふさわしく、全身黒く硬い毛で覆われていた。人よりもひとまわり大きな魔物が、喉の奥で岩を転がすように唸る。その拍子に狼に似た頤の隙間から牙が覗いて、鈍い光をはね返した。
「お願い……もうこれ以上、苦しめないで」
少女の言葉が弱々しい吐息にかすれる。哀願と共に差し出したほそい指先が、魔物に届く。その手を避けて体をよじった魔物が、赤い眼で少女を睨んだ。
鋭いまなざしを受けて、少女は唇で弧を描き、胡乱になった目をやわらかく細める。
白金の長い髪をさらさらと風になびかせて、微笑みながら苦痛の終わりをこいねがう──この時すでに少女は、気がふれていたのかもしれない。けれど昏い月明かりに浮かぶそのすがたは、捕食される運命を受け入れる、清らな心に満ちたものに見えた。
風が雲を払い、ひときわ明るい月光が、地上のありとあらゆるものの輪郭を暴いた時、少女の瞳が透明にきらめいた。
「わたしを──たべて」
魔物が雄叫びを上げた。
少女の肩に牙をめり込ませた魔物が、強靭な顎でうすい肉と骨を砕いていく。痙攣した少女の体から血がごぽりとこぼれ、ぼつぼつと土に落ちて埋もれる不協和音が響いた。
〇
「いたぞ、そっちだ! 矢を射れ!」
「いや、深追いしなくていい……我々だけでは無理だ」
夜更けの森に、男たちの声が行き交っている。彼らは炎を上げる松明と、粗末な武器を携えていた。
木々を揺らす魔物の足音が、徐々に遠のいていく。やがて森に静寂が戻り、討伐のために隊を組んでいた村の面々は、こわばっていた体の緊張をゆるめた。
四方に散っていた村人たちは、自然と長老のもとに集う。
村人らの輪の中心で、縮れた白髪を持つ長老が、厚手の毛織布を抱き上げた。それにくるまれているのは、あの白金の髪を持つ少女だった。昏睡した彼女の顔は青白く、血と泥に汚れている。
「こりゃあひどい」
「助かるか……?」
布がたちまち赤黒くなるさまを見た男たちが、口々にぼそぼそとつぶやいた。
長老は少女を腕に抱いたまま、骨を軋ませてゆっくりと起き上がる。
「とにかく、この子を神父さまのところへ」
はっとした村人らは、長老の言葉にうなずいた。
松明の火が連なり、黒煙がうしろへたなびいていく。隊列のなかほどで、前後を男たちに守られた長老は、少女をかかえて歩き続けた。
ふと彼は、落ち窪んだ少女の眼と、密集した金のまつげに目をやり、そこにあるはずの瞳をまっすぐに見つめた。そうしてそのまま、幼子に寝物語を聞かせるように──あるいは神に祈りを捧げるように、ひそりと唇を動かす。
「この子ならあるいは……狩人になれるかもしれない」