短編「糸電話」
キッチンからコーヒーの香ばしい匂いがして、自然とそちらに目線を移す。目にかかりそうな前髪を揺らして、インスタントのコーヒーを熱湯で溶く彼女がいた。匂いと共に彼女の鼻歌が微かに聞こえる。聞き覚えのあるメロディ。それを思い出すために耳を澄ます。
鼻歌が途切れた。その代わりに、聞き馴染みのある彼女の声が聞こえた。
「どうしたの」
そう言う彼女の目は少し濡れていて、両手に持つマグカップから沸き上がる熱い湯気で、頬が赤らんでいた。
鈍い返事をし、ソファにもたれ、手に取ったコーヒーを流し込む。熱い。そして、苦い。
僕らは一言も交わすことなく、互いにコーヒーを啜ったり、マグカップを握り締めたりしていた。
「糸電話って、どんなに長くても声は通じるのかな」
突然の問いだったけれど、冷静に考えた。彼女の声は春一番のように僕の脳内に強く吹き込んでくる声だ。
幼少の頃に好奇心に任せて作った小さな糸電話が、幼い僕には特別な連絡手段のように思えた。くる日も来る日も母に糸電話の紙コップの片っぽを渡し、子どもらしい屈託のないことを1メートルほどの糸を通して伝えた。今思えばくだらないことばかり話していたけれど、母は毎日怒らずに、僕の連絡を聞いてくれた。糸電話を使って頼み事をしたこともあった。悪さをした時に糸電話を使って謝ったこともあった。そういう時は決まって、直接言うことが大切なこともあるのだと諭された。
「昔テレビで、300メートルくらいの糸電話で伝わってたの見たことある」
「300メートル…長い、のかな?」
「実用的な距離じゃないよね」
「実用性を考えたら、糸電話は需要が無いよね。連絡手段が発達したから、頑張ってながーい糸電話を用意する必要ないもの」
「そっか」
糸電話は、2人をつなぐ糸がピンと張っていないと、互いの声は聞こえない。つまり、たるんでいてはいけない。たるんでいる糸をまっすぐにするために、2人の距離を離す必要がある。
でも、離れ過ぎると糸が張り過ぎて切れてしまう。そうなれば、もう2人の声を互いに伝えることはできない。
あの日、間違い電話を通じて僕らが出会ったとき、きっとその時からしばらく、僕らの糸はたるむことなく、また、張り過ぎることなく繋がっていた。彼女と繋がる糸は、決して僕を無理に引っ張らなかったし、僕もまた、この糸がたるまないようにと、無理に距離を縮めることはしなかった。
僕は糸がたるむのが怖かった。自分が伝えること以上のことが彼女に伝わってしまう気がした。
彼女も同時に、糸がたるむことを恐れていたように感じる。糸を通じて伝えられることしか、僕は彼女について知らない。
彼女という人間の本質を知り得ず、僕という人間の中身を伝えられないまま、時は流れ、気づけば僕らの糸電話は、もう切れる寸前になっていた。
僕らにとって、何が最善か、早く答えを出したかった。こうして2人でコーヒーを飲んでいるのは、そのためなのだ。それなのに離れることも近づくこともできずに、僕は俯いてしまう。彼女が一体何を望むのか探りたいけれど、僕にはそんなことをする力は無い。
「君は、情けない」
僕の脳内に春一番が吹いた。
「君はいい人。すごくいい人。執拗に接しないし、ちゃんと私のことを考えてくれる。でも、君は私のこと、本当は何も知らないでしょう?」
僕は黙ってしまう。ただ、また流れ始めた沈黙が重苦しくて、何も言えない。でも、彼女の春一番は、僕に新しいものを吹き込んでくれた。
彼女は、僕のことを知っている。こういう沈黙で何も言えず、自分を知られることを恐れている、そういう僕の情けなさ、弱さを、彼女は知っている。
彼女はずっと、糸をたるませようと、糸電話を介して伝え合うことをやめようとしてきたのだ。それを僕は拒み続けた。ひたすら、糸を張り続けた。彼女と糸電話を通じて関わる手段を選び続けた。
僕は、情けない。けれど、そうやって自分を卑下するより、彼女に近づきたいと思った。
「僕は、何も知らない。言い訳はしない。本当に、ごめん」
今度は彼女が俯いてしまった。でも、もう僕は逃げなくてもいい。
「何も知らないから、僕は知りたい。君のことを知る時間を僕にください」
彼女の白い頬に、何かが伝うのが見えた。彼女はすぐにそれを拭って立ち上がった。
「砂糖とミルク、入れようか」
「うん」
僕のはっきりとした返事を背中で聞いて、キッチンにそれらを取りに行った。薄暗くてはっきりとはわからなかったけれど、口元がさっきより穏やかに見えた。
砂糖と温かいミルクは、冷めたコーヒーを再び温めた。熱すぎることはない。適温で、甘い。
僕らの糸は、きっとたるんでしまっただろう。でも、それでいいと今は思える。糸電話は機能しないけれど、糸電話よりも近くで、言葉を伝えることができるのだから。
母の言葉が、脳内に響いた。そのうち、彼女と一緒に地元へ帰ろう。