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記憶喪失の絵本作家と役に立たない探偵と夏

作者: 志か

 診断メーカーの「依頼です、物書きさん。」を利用して、創作をさせていただいています。

 ありがとうございます。

 ついさっきまでふつふつと浮かび上がっていた汗がすっと引いた。

 さすが病院の温度管理は完璧だ。暑すぎず、かといって寒くもなく、今が夏の盛りであることを忘れてしまいそうな院内の空気に俺はすうっと息を吐く。


 ため息? まぁ、多分そうだ。


 腕時計と待合所の壁時計を見比べる。依頼人が病院にいる時間で間違いない。できればここではなく、家か事務所で経過報告をしたかったが、依頼人の要望なのでこればかりは仕方がない。視界に入った汗の滲んだ革ベルトに、更にため息を付きたくなる。

 腕時計は祖父の形見だった。ベルトだけはさすがに変えたが、革はすぐへたるので困る。汗かきでなければもう少し持つのかもしれないが。


 昔の病院のイメージと違って最近の病院は寒々しくはない。窓が大きく、エントランスは吹き抜けで明るい日差しが差し込む。それなのに、壁と床の白さがどこか自分を拒絶しているように感じるのは気のせいだろうか。きっと自分自身が、この中で異質であるように感じているからだろう。


 会わせたいのは依頼人であって、彼女ではない。そして、自分が会いたいのは彼女ではない。



 エレベーターを5階。ドアが開いたら廊下を左。


「しっつれいしまーす」


 ことさら陽気に個室のドアを開ける。


「……間違えました」


 間違えたふりをして出よう。


 内心舌打ちをした俺に、彼女は少し目を見張って、よそ行きの笑顔を浮かべた。そうして、もう一度目を見張る。


「あら?」


「はい?」


 バカ、失敗だ。


「あら、貴方見たことあるわ」


 柔和な笑顔につられて笑う。


「すみません、間違えました」


「ふふ、間違えるなんておかしいわ。この病室は突き当りだもの」


「あはははは」


 でもあんたに会いに来たんじゃありませんよ。


「急いでいないのでしたら少しゆっくりしたらどうかしら? ねぇ、貴方コーヒーはいかがかしら? 私コーヒーは苦手で」


 彼女が視線を向けたテーブルの上には俺の好きなブランドのドリップコーヒーが袋のまま置いてあった。

 クソ、一足遅かったか。


「あのー、俺不審者ですけど」


「不審者が自分で不審者と言うはずないわ。それにね、そのコーヒーは孫が今日お見舞いに持ってきたのだけれど、私がコーヒーを飲めないのは知っているはずなのよ」


 変ねぇ。


 彼女は自分のベッドの横にある椅子を手で示した。


「こちらにお座りなさい。申し訳ないのだけど、私はここから動けないものだから、コーヒーは自分で入れてちょうだいね」


 いたずらっ子のように俺を見た。



 不意に夏の日差しの匂いがした。



「……じゃあ、一杯だけ」


 俺が会いたかった依頼人はやるべきことを終えて帰ってしまったようだ。


 去年と同じ。


 記憶を頼りにコップをキャビネットから出して、コーヒーを入れた。聡明な彼女はきっと気づいただろう。ちらりとベッドの方を見ると、にっこりと笑う彼女と目があった。


「ひょっとして、私の孫とお知り合いかしら?」


 俺ともお知り合いですよ。


 そう言いたいのをぐっと堪える。彼女の記憶はいつも夏だけ欠けている。暑い暑い夏を、彼女はずっと忘れている。恐らくはこのまま永遠に。


「いやぁ、美味しいですねぇ」


「よかったわぁ。もったいないからよかったら全部持って行って」


「そりゃ、どうも」


 これが依頼の報酬なのだろう。報酬ではなく、手間賃というべきか。


 俺が調べているものは、俺の祖父の、残した記憶。そんなものは今更見つかりはしない。役立たずの俺は夏になるとこの病院に来て、彼女の顔を見る。

 元々成果など期待しないで引受けた仕事だ。依頼した方もまた。あの時はまだ、こんなに憂鬱な仕事になるとは思っていなかった。


「お孫さん、美人なんですか?」


「あら? どうして孫が女の子だと知っているの?」


 俺は枕の横にある絵本を指した。


「苗字があなたと同じなので、お孫さんのなのかと」


「あら、目が利くのね」


「ええ、職業柄」


 ニッコリと笑う。たぬきときつねの化かし合い。そんな言葉が浮かんだが、彼女相手に長居は禁物だ。俺なんかよりもずっと彼女のほうが人間観察に長けている。


「そうなの。絵本を描いているのよ」


「素敵なお孫さんですね」


「私も、そうだったの」


「……」


「でも娘は違うのよ」


 ああ、もう退散しよう。


「帰りますね」


「そう、またいらっしゃい」


 すべてを、彼女は知っているんじゃないか。時々そう思う。何もかも知っていて、夏を忘れたふりをしているのではないかと。


 祖父がもういなくなってしまったことを認めたくないだけなのではないかと。


 部屋を出た俺の背中に彼女が静かに声をかけた。


「貴方のその腕時計、私どこかで見たかしらね……」


 早く部屋を出たい一心だった俺は手を止めることができなかった。手をドアに掛けたまま呆然と立ちすくむ。


 また来年。また次がある。



 そう思うけれど、次の夏はもう来ないのかもしれない。



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