85 ランのこれから
毒龍の扇動ガスは、都合の良いように思考を操るものではない。
その人間の理性を破壊して、奥底に眠る衝動を呼び覚ますだけ。
つまり王都の住民たちの中に、ランへの不信感と龍人への恐れは根強く残っている。
その感情を拭い去らなければ、いつかこの国もローメリアのように滅びるだろう。
リノが目を覚ました翌日、王城前広場にて式典が開かれた。
レイドルクを始めとした龍人の討伐報告に始まり、犠牲者への哀悼の意が示され、東区画の自宅を失った者への支援が発表される。
そして式典の最後、龍の姫君が衆目の前に姿を晒した。
彼女の姿を目にした途端、観衆からざわめきが起こる。
隣に王はいない、頼れるリノもいない。
しかし、心は共にある。
このバルコニーで命を落としたバーンドも、きっと見守ってくれている。
呼吸を整え、気持ちを落ち着けて、ランは民衆に語り掛け始めた。
「皆さん、龍人に怯える日々はもう終わりました。この王都に、龍人はただの一人もいません。あなたたちの隣人も、誰も龍人ではないのです」
ランの静かな声が、拡声魔法に乗って広場中の群衆の耳に届く。
不信感を向ける聴衆も、彼女を支持する民衆も、みな静かに彼女の声へと耳を傾けた。
「ですが、行き場のない怒り、憎しみ、悲しみを抱えたまま、その感情をぶつける先が見つからない方も、大勢いるでしょう。わたしにも、誰にも、あなた方の心を救うことは出来ません。わたしたちに出来るのは、これ以上の悲しみを増やさないことだけ」
彼女の背後、ナボリア王は弁を振るう娘の姿をただ静かに見守る。
廊下側に控えるリノと、そしてアリエスも。
「だから、新たに王都へ侵入してくる龍人は、一匹たりとも見逃しません。龍人を感知するわたしの力と、英雄たるリノ・ブルームウィンドの刃が、二度と皆さんを龍人の餌食にはさせません」
両手を胸の前で握り、静かに目を閉じる。
心細い、泣き出したい、今すぐここから逃げ出したい。
そんな弱さを欠片も見せず、彼女は言葉を紡ぎ続ける。
「わたし個人に対する不信感も、あると思います。今までわたしは、誓って人を殺してはいません。ですが、口では何とでも言えますよね」
深く息を吸い込み、瞳を開ける。
覚悟を示さなければ、誰も自分についてこない。
化け物の姫だと蔑まれ、裏で嘲笑され、嫌悪の眼を向けられ続けるだけだ。
「わたしは龍人の力や衝動を、完全にコントロール出来るようになりました。信じて欲しいとは言いません。証明する手段もありません。だから、今ここに誓います。もしもわたしが自らの衝動に負けてしまった時は、リノ・ブルームウィンドの刃に自ら首を差し出しましょう」
群衆を見回し、真っ直ぐな眼差しで言葉を投げかける。
「これも、証明することは出来ません。ですが近い将来、わたしは必ず良き王となり、この国を繁栄に導いてみせます。その時はどうか、わたしのことを信じて、認めてください」
ペコリと頭を下げ、一歩後ろへ下がる。
王族としては卑屈過ぎただろうか。
でも、これが今の自分に出来る精一杯の国民への誠意。
勇気を振り絞った、認めて貰うための第一歩。
「……っ」
静まり返る広場を前に、震え出しそうな体に力を入れてグッと耐える。
やがてパラパラと、まばらに起こり始めた拍手。
それが次第に広場全体に広がっていき、割れんばかりの大拍手となった。
「あ……っ」
思わず泣き出しそうになってしまう。
零れそうな涙を堪え、彼女はとびきりの笑顔で観衆に手を振り返した。
▽▽
『ブルーム』と『クルセイド』に課せられた王女護衛任務は、無事に終了した。
五人の冒険者は、明日には王城を出て元通りの日常に戻っていく。
ランと気軽に会えるのは、今日が最後だ。
伝えなければならないことを伝えるため、式典の後、リノはランの自室を訪れた。
王女の自室と言えど、リノは特別。
ほぼ顔パスで通され、二人はティーテーブルに向かい合って腰掛ける。
「ランちゃんお疲れ様。さっきのスピーチ、ちょっと感動しちゃったよ」
「や、やめてください。そんなに大したことは言えてませんし、拍手はされたけど、きっと認めては貰えてない。雰囲気に流されただけの人が殆どだと思います。王族として正しい態度だったのかも分かりませんし……」
照れと若干の反省が交じった、複雑な表情。
彼女のいじらしさに愛しさが湧き、リノはランのことを好きなのだと実感する。
「私は立派だったと思うよ? ランちゃんはもう一人前の王女様だよ」
「一人前なんかじゃありません。知識も経験も全然足らないですし。帝王学、政治経済、外交、基礎教養に社交マナー。色んなことを勉強しないといけませんから」
「そっか、じゃあ訂正。ランちゃんは絶対一人前の王女様になれるよ。私が保証する、だから胸を張って」
「……はい。えへへ、リノさんに褒めて貰えると、頑張るぞって気持ちになっちゃいます」
頬を赤らめながら笑う、眩しいランの笑顔。
彼女はあんなにも勇気を出して、自分の主張を国民に伝えた。
今度は自分が勇気を出す番だと、強く心に決め、リノは立ち上がる。
「……あのさ、ご褒美。まだだったよね」
「えっ……?」
席を立ち、ランの手を引いて立ち上がらせ、少しだけ強引に抱き寄せる。
そしてあごに指を添え、クイ、と上げてこちらを向かせて。
「これがご褒美じゃ、ダメかな……?」
「リノさ……っ、んんっ!」
瑞々しい唇同士が重なった。
「んっ……ちゅっ。……ランちゃん、聞いて貰いたいことがあるんだ」
「は、はい……っ」
突然に唇を奪われ、腕の中で真剣な眼差しを向けられて、ランの胸の鼓動は大きく高鳴る。
「私も、ランちゃんのことが好き。ランちゃんと、恋人同士になりたい」
「あっ……、えっ? ほ、本当、ですか?」
ずっと待ち望んでいた返事。
喜びに口元を両手で抑えるランだったが、リノの表情にはどこか辛そうな部分が見て取れた。
「でもね、私はもうアリエスちゃんと恋人同士なんだ。それに、ミカちゃんも恋人にしたいと思ってる」
「はい、分かってます。とっくに覚悟も出来てますから。リノさんがわたしを選んでくれただけで、恋人同士になれるだけで、わたしはとっても幸せです」
だから、そんなリノの負い目を消し去るために。
ランは心からの笑顔を見せる。
本心から喜んでいるのだと、わずかな表情の違いで感情を読み取れるリノに、分かってもらうために。
「……そっか。ありがとう、ランちゃん。私の恋人になってくれて、ありがとう」
微笑み合うと、小さな体を抱き寄せてもう一度口づけを交わす。
唇を離してじっと見つめ合い、何度も、何度でもキスをして、二人はお互いの愛を確かめ合う。
二人だけの甘い時間の中で、リノの心のモヤは少しずつ溶かされていった。




