24 そして戻った変わらぬ日常と、変わり始めた彼女の心
「ハァっ、ハァっ、ハァっ! クソっ、どうして私がこんな目に……!」
追跡者から逃げるためにスラム街を走りながら、ワバンの口から恨み事が飛び出す。
どうしてこんなことに。
迫り来る死の恐怖に怯えながら、ワバンは走り続ける。
始まりは今朝。
自宅を兼ねた武具屋に届けられた、王都で起きた事件を伝える版画新聞。
その一面を飾る、奴隷商ラーガの邸宅で火災発生の記事。
内容に目を通した彼は、恐怖に慄いた。
記事の中身を大まかに説明すると。
原因不明の火災が庭園で発生し、使用人らの手によって鎮火に成功。
しかし騒ぎの中で、屋敷の主人であるラーガの姿が忽然と消えた。
使用人たちは口を揃えてドラゴンを見たと証言しているが、恐らくは集団幻覚だろう。
また、使用人たちを取りまとめていた男も一人、行方不明となっている。
と、このような内容だった。
「これは……、まさかラーガさんが、龍殺しに殺られた……?」
ラーガと親しかった彼は、使用人の長を勤める側近が龍人であることも知っている。
二人が殺される前に口を割ったとすれば、次は自分の番だ。
新聞を握る手が震え、手汗が滲み出る。
ガタッ!
「ひっ!! ……あ、いらっしゃい」
顔を上げると、冒険者が不思議そうにこちらを見ていた。
陳列された槍を眺めていた客が、それを手に取った、ただそれだけの音。
聞き慣れたはずの物音でも、今の彼には恐怖の対象となっていた。
「なんとか……、なんとかしなければ……。いっそこの王都を出るか……? 龍殺しのいない場所に、別の国に移動して、そこでまた面白おかしく……」
百年以上を龍人として生きたラーガとは違い、ワバンは龍人になってまだ五十年程度。
龍に変化する技術も、数年前に会得したばかり。
その実力は龍殺しはもちろん、ラーガにすら遠く及ばない。
「そうだ、それしか道は無い。私が生き残るには、それしかない……」
いつ殺されるか分からない、龍殺しの陰に怯える日々、そんなのはごめんだ。
槍を購入した冒険者が会計を済ませると、ワバンは軒先に出て店じまいの準備を始める。
まだ午前中だが早めに店を閉め、持てるだけのものを持って逃げ出そう。
そう思いつつ、ふと往来の中に目をやると。
「ひっ、ひああ、あぁぁっ……!」
いた。
「あひぃぃっ、ひ、いやあああぁぁぁぁっ!!」
紅い首飾りを下げた少女が、こちらをじっと見つめていた。
死の恐怖が全身を射抜き、足が勝手に動きだす。
離れなければ、とにかく逃げなければ。
その一心のみで、開けっ放しの店を放置したまま、彼は王都中をがむしゃらに駆けまわった。
どのくらいの時間、走り続けただろうか。
彼はいつの間にか、王都西区画のスラム街へと足を踏み入れていた。
「な、なんで私は、こんなところへ……」
パニック状態から回復し、少しだけ冷静になった頭で考えると、これはどう考えても悪手。
人通りの多い場所にいれば、向こうも手出し出来ないはずなのに。
「クソッ、どうして私がこんな目に……」
「どうしてって? 今まで喰い殺してきた人たちに聞いてみたら?」
「——っ!!」
ビクゥッ!!
勝手に肩が跳ね、心臓が激しく鼓動を刻む。
振り向けば、龍殺しの少女の姿。
十メートルほど離れたところから、こちらにゆっくりと歩いてくる。
「う、うあああぁぁぁぁっ!! 助けてぇぇぇっ!!」
涙を流しながら、ワバンは駆けた。
道端にうなだれる浮浪者たち。
彼らはみな、狩られようとしている哀れな獲物をチラリとも見ない。
「嫌だ、嫌だ、嫌だぁっ!」
必死に走り、走り、走り続け。
やがて彼は、袋小路に突き当る。
「ハァッハァッハァッ、こ、ここは、初めて人を喰った場所……」
龍人にしてもらった日にラーガが教えてくれた、格好のえさ場。
乾いた黒い血がうっすらと残る、小汚い路地裏。
「へぇ、そうなんだ。懺悔しながら死ぬのにうってつけの場所じゃん。ねえ、ライナ」
『そうだねぇ。さぁて、どう料理してやろうか』
「あっ、ひいいいいぃっ」
迫り来るリノ。
彼女の目に灯るのは、明確な殺意の籠った黒い炎。
追い詰められた。
逃げ場がない。
足の震えが止まらない。
「おじさん、久しぶり。私のこと覚えてる? まさか龍人だったなんてね、びっくりだよ」
まるで親しい知人と久々に再会したかのような口調。
ワバンの頭の中は恐怖と混乱で満たされ、リノの言葉はまるで頭に入ってこない。
どうしてこんなことに。
昨日、久しぶりに若い女を喰らった。
悲鳴と絶叫がたまらなかった。
柔らかい肉が、この上なく美味かった。
これからもずっと、こんな幸せな日々が続くと、そう思っていたのに。
「い、嫌だぁ、助けて……」
「おじさんの店で買ったこの剣さぁ、とっても良く斬れるんだよ。ラーガの首もスパァって、簡単に斬れちゃった。ね、切れ味、見せてあげようか」
「やめて、なんで、なんでこんな目に……」
どうして、どうしてこんな理不尽が、突然降りかかるんだ。
極限状態の中、恐怖は振り切れ、彼の中で怒りに変わった。
「……ふざけるな。ふざけるなぁ! どうして、どうして私が殺されなきゃならないんだ、どうしてッ!!!」
怒りが却って頭の中を冷静にし、この状況を打開する策を導き出す。
「私は生きる! これからも生きて、楽しく武器屋を経営して、つつましやかに人を喰らうんだぁ!!」
彼の肉体が変異を始める。
体中を蒼い鱗が覆い、細長い尻尾が生え、両腕が巨大な翼へと変化。
飛龍とも呼ばれるドラゴン族、ワイバーン。
それが彼の、龍としての姿。
「この翼があれば、上空高く飛んでいける! さすがのお前も雲の上まで追っては来れない! 私は生きる、生き延びてやるゥ!!」
翼を羽ばたかせ、上昇を始めるワバン。
だが。
「遅いねぇ、お姉さんあくびが出そうだわ」
スパッ、スパァッ!
剣閃が二振り、それで全ては終わった。
入れ替わったライナが、ゆっくりと上昇する飛龍の高度に容易く飛び上がり、振るった刃がワバンの両翼を斬り落とす。
「あ、あぎゃあああぁぁぁぁぁっ!!」
激痛の中、人間の姿に戻ったワバン。
両腕を失い、背中から落下して石畳に叩きつけられる。
「さぁて、知ってること全部、話してもらおうかぁ。リノ、どこまでやっていい?」
『——気が済むまででいいよ』
もはや彼に待ち受けているのは。
「あいあい。ま、こんな三下じゃあ、どれだけやっても気が済まないだろうけどねぇ」
「い、いやああぁぁぁぁぁぁっああぁぁぁあっ!!」
逃れられぬ、死だけ。
▽▽
「たっだいまー!」
「おかえり、リノ」
「おかえりなさい、リノさん」
住み慣れた我が家の扉をくぐり、幼馴染の少女と、居候の少女に出迎えられる。
帰宅したリノは玄関脇に剣を立て掛け、ソファーにもたれて一息ついた。
「何しに行ってたの? ギルドに依頼見に行ってた?」
「……まぁ、そんなとこ」
「そっか。うん、ならいいんだ」
きっとアリエスには、全て分かっている。
深くは聞いてこない親友に、心の中でだけ感謝を告げる。
「リノさん、遅いですよぉ」
鉄仮面を脱いで、リノの太ももに頭を乗せるラン。
リノが念入りに洗い、アリエスが毎朝梳いている甲斐あって、彼女の髪にはサラサラ感が出てきていた。
「ゴメンね、ランちゃん。待たせちゃって」
お腹に顔を埋めて甘える少女の頭を撫でながら、リノは先ほどの凄惨な光景を思い返す。
ライナの憎しみの根源を、ほんの少しだけ理解したからだろうか。
彼女がどれほど残虐な仕打ちをワバンに与えても、少しも心が痛まなかった。
腐敗していくワバンの死体を見ても、なんの感傷も抱かなかった。
(……変わって、ないよね。私は、ちゃんと私のままだよね……?)
胸に過ぎった一抹の不安。
それもすぐに、二人と過ごす穏やかな時間が塗り潰していく。
きっと大丈夫。
私は私、何も変わるはずがない。
きっと、大丈夫。




