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39-1:提案 【月の日/ケイ(女)】

- 39 -



「ユリア!」おれは前方に向かって声を投げかけた。


 木がよく茂る中、木の葉の絨毯を敷いたような道を駆ける。元々川だったのが水が干上がって道になったんじゃないかと思えるほど、きれいに道の形の分だけ木が生えてない。走りやすくはある。とはいえ走りたくて走っているわけではない。


「待てって」


 何度か声をかけたがユリアは待たない。一つに結わえた赤髪を馬のしっぽのように揺らしながらひた走る。ときどきユリアの足元で木の葉が舞う。


「そんなに急ぐとすっ転ぶぞ」


 なかなか距離が縮まらない。ユリアは本体のときも足が速い。


 突然、ユリアの足が後ろへ大きく跳ねた。木の葉と土も跳ねた。それを数回繰り返して地面にべしゃりと倒れ込んだ。本当に転んでしまった。


「いわんこっちゃない」


 ユリアがこけたことでようやく追いついた。ユリアはむくりと体を起こした。


「大丈夫か」


 ユリアは膝と腕についた汚れを手で払い落とし、そしておれに背を向けたまますたすたと歩きだした。


「ユリア」


「ついてこないで」


 ユリアの三歩ほど後ろを同じ足取りで歩く。


「ついてこないで」ユリアが声を大きくしていい直した。


「聞こえてるよ。お前が機嫌を直せばついてかないよ」


「機嫌直ったわ。ついてこないで」


「直ってない」


 走るから歩くに変わっただけで再び逃げる追うの形がつづく。ざくざくと小気味よい感触が足の裏に伝わる。鳥人族の里では、案外道はしっかりと作られている。飛べない鳥人族にとってはもちろんのこと、飛べる鳥人族にとっても利点があると思う。空から見下ろしたときに緑の中に茶色い道筋が刻まれてて、いいしるべとなるはずだ。


「わかってるわ」ユリアが前を向いたままいった。


「ん?」


「あんたのいうことは教科書に書いてあるように正しいわよ」


 小屋での発言のことだな。


「おい、今のは嫌ないい方だったぞ」


「あたしも今さっき嫌ないい方されたわ」


 そうきたか。まあ、たしかに覚えはある。


「いいすぎた。悪かったよ」


 ユリアがぴたりと足を止めた。危なくぶつかりそうになった。


「おい。急に止まるなよ」


 前方をよく見てみたら地面がぬかるんでいた。だから止まったのか。少し先には樹木に囲まれた広い水溜まりがある。いや、樹木に一部隠れて全貌はわからないが、水溜まりというよりは湖や沼と呼べるくらいに広さがあるようだ。


 湖沼を見つめるユリアの横に並んだ。声の感じからある程度予想していたとおり、目が少し赤く、泣くのをこらえているような顔になっている。とりあえずおれに顔を見せるのを拒まないってことは、おれと話をする気にはなったってことだよな。


「さて」おれは湖沼に向かって伸びをした。「何が気に入らないんだよ」


 湖沼の水面に一羽の鳥が浮いているのに気づいた。カモに似た外形で、カモより小さく、くちばし含め全体が黒っぽい。


「だって」ユリアが口を開いた。「お兄ちゃん、今まで女の人と全然親しくなんてしてなかったのに……」


 結局それが原因なんだな。わかってたけどさ。


「今だってずっとノエルさんのことばっかり考えてる」


「そりゃノエルが亡くなってまだ一週間なんだから当然だろ。おれだって毎日ノエルのことが頭に浮かぶよ」


「あんたがノエルさんのことを思うのとちがう」


 おれの鼻のあたりがぴくりとした。ユリアは論理化しないだけで感覚は鋭いんだよな。


「昨日の、大公の、妖術」ユリアが切れ切れにいった。


 おれはすぐに理解した。「一番恋しい者の姿が見えるあれか」


「ほかにも見えるべき人がいたじゃない。パパとかママとか、剣の師匠のムゲンさんとか」


「太陽ハヤテがだれに見えてたかははっきりしてないだろ」


「とぼけないでよ。どう考えてもノエルさんでしょ」


 水面に浮かぶ鳥の羽がもぞもぞ動いた。鳥はわずかに首をもたげた直後、黒いくちばしを平行に開けて鳴いた。細かく振動する、なんかの虫の音にも似た声だ。父さんが猿のときにたまに出す声にもちょっと似ている。


 太陽ハヤテに関することだから、ユリアにどう切り込んでいいのかちょっと悩む。ユリアは、馬の姿のときにしか接することのできない太陽ハヤテを、どこか他人のように見ている節がある。兄ではなく、他人の、一人の男として。


「つまりお前は、ハヤテが女の人のことを考えたり仲よくしたりするのが嫌なのか」あえて太陽も月も付けずに訊いた。


「そうよ」


 少しは否定するのかと思ったらすぐに認めた。むっとした。


「お前。いい加減、兄離れしろよ」気持ち悪い、と危なく口走りそうになったのをなんとか抑えた。


 気持ち悪いなんて単なる嫉妬からくる暴言だ。そんな暴言を一瞬でも吐こうとしたなんて。大人げない。


 ユリアはその場にしゃがみ込んだ。水面上の鳥がまた鳴いた。


 こんなときはなんて声をかけりゃいいんだ。どんな態度をとればいいんだ。なんでおれはこうなんだろう。なんで月ハヤテのように優しく接してあげられないんだろう。今さっきハヤテの優しさについて批判めいたことをいったばかりなのに、今この瞬間は、ハヤテのユリアに対するあの優しさがおれにあればいいのに、って思ってしまってる。情けない。こんな、胸が出てて、女の見た目をしてるのに、女の気持ち一つわかってあげられやしない。


「お前ら、まわりをよく見てからけんかしろよな」


 頭をぐいと上げて上を見た。近くの木の枝でチコリナットが寝そべっていた。まったく気配に気づかなかった。


「何よあんた。盗み聞き!?」ユリアがチコリナットを見上げて声高にいった。


「おいらが休んでたところにお前たちが入り込んできたんだ」


「いたんならさっさと声なり咳なり出せばよかったでしょ」


 チコリナットは体を起こして枝の上に立った。翼を折り畳んだまま、ふつうの人だったら怖くて躊躇しそうな高さから軽く地面に飛びおりてきた。


 横からばたばたと音がした。黒い鳥が湖沼の水面から飛び立っていった。


「今頃はシロハゴロモの花が満開かな」チコリナットが黒い鳥を目で追いながらいった。


「何よ急に、シロハゴロモって」


「シロハゴロモはレイル島の花だろ?」


「レイル島に咲いてはいるけど?」要領を得ない、というふうにユリアが首をかしげた。


「お前らに必要なのは気分転換だと思うぜ」チコリナットは、ニッと笑んだ。「どうだ。おいらがレイル島まで連れてってやろうか?」


 びっくりして口が開いた。思いもよらない提案だった。おれとユリアは顔を合わせた。お互い口を開けている。おれはチコリナットに視線を戻した。


「気分転換、気分転換」チコリナットが歌うように繰り返した。


 おれはようやく意思が形成された。「まだ遠征の途中なのに帰れない」


「帰るんじゃない。ただレイル島の近くまでいってシロハゴロモの花でも見てくるだけだ。お前たちは地上から見渡す故郷しか知らないだろ。空から見下ろすのは一味も二味もちがうぞ」


 隣でユリアが大好物の甘い物でも見つけたような息を吐いた。


「なかなかの誘い文句だな。でもそんなことしたらまたリュデュストス族長に叱られるぞ」


「大丈夫。西大陸へ出向くのがだめなだけだから。レイル島は西大陸ではないだろ。懐生の島だし、問題はねえよ」


「とはいえ、さすがになあ」おれはユリアを見た。


「いくわ」ユリアはきっぱり答えた。


「おい」


「別にレイル島に帰りたいわけじゃないわ。ただ空をぶっ飛び回りたいだけよ」


「ぶっ飛び回る……。初めて聞く言葉だな」


「別にレイル島だろうがどこだろうが、世界中にいってだめな場所なんてないでしょ」


「そりゃそうだけど。でもレイル島に戻るのは人間になってからにしたくないか」


「戻るって考えだからよ。あたしはあくまで寄り道しにいくって感覚だわ。島に上陸するわけじゃないんだし」


「上陸はしねえぞ」チコリナットがきっぱりいいきった。


「レイル島のだれかに見つかったら大騒ぎになるだろ。領長なんかはきっと怒るぞ」


「気づかれない程度に島と距離を置くから大丈夫だ」


 なかなか急所を突くことができないな。


「レイル島の近くまでいって、懐かしくなって、そのまま故郷から離れられなくなったらどうするんだよ」


「あのね、そんなことあるわけないでしょ」ユリアが呆れ顔で切り捨てた。「あんたは反対の方向に持っていこうとしてるわね。それならそれでけっこうよ。ケイがいかなくてもあたしはいくわ」


 出た。こうなったらユリアは止まらない。


「チコリナットは……冗談でなく本気で誘ってるのか」


「おう」


 目が輝いてる。わくわくしてる顔つきだ。西大陸に何度も遊びに出かけちゃう奴だもんな。


「ケイはいくのか?」


「おれは……」

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