38-2:百年前の話
ケイと僕は目を合わせた。ムゲンさんが人間になりたいのかどうか。答えは一つだ。ケイもわかっている。ただ、ムゲンさんの奥深い部分についてのことは僕が答えるべきだとケイは思っているだろうし、僕もそうすべきだと思っている。
遠征出発直前にカレが同じ質問をムゲンさん本人にぶつけたことがあった。
翼竜はかっこいい。翼竜になれるのなんてただ一人。その化体を失うのはもったいないとすら思う。兄貴は本当に人間になりたいのか。と。
カレはムゲンさんを本当の兄のように慕っている。剣の師匠としても尊敬している。ムゲンさんの背中を見て育ったカレ、そして僕は、ムゲンさん自身がいかに翼竜の化体に誇りを持っているのかを知っている。そんな中でムゲンさん自身が出した答えを尊重する。
カレの質問を受けてムゲンさんは迷いなく答えた。だれしも多かれ少なかれ己の化体に愛着を持っているものだが、それでも人間になりたい、と。その目に嘘はなかった。
僕はチコリナットを向いた。「うん。ムゲンさんは人間になりたいんだよ」
「ふうん。翼を失うってのは自由と便利さを失ってしまうもんなのにな」
「それはもう仕方ねえことだよ」ケイが諭すようにいった。「昨日、大公からいわれたんだ。何かを得るには何かを失うって。そのとおりだと思ったよ。得るものが大きければ大きいほど代償を払わなければならないって、そんなふうに思うよ。人間になるっていう大きな大きな願望を果たしたいなら、そりゃもう翼だろうがなんだろうがすっぱりと手放す覚悟は持たなくちゃならない。おれたち化体族はみんな、そういう覚悟はできてるよ」
僕は無言でうなずいた。
「ケイに関しては立派なおっぱいを手放す覚悟ができてるってことじゃね」
ケイはリャムにじろりと視線を向けた。「いい話してんのに茶化すなよ」
「おっぱいの話は重要じゃ」
ケイは天井を見上げて息を吐いた。「まあ、大なり小なり……多かれ少なかれ、代償ってものはあるってこった。百年前のあの二人、エデンレイル領のダイモンと天人族のナビアだって、種族を越えた関係を望んで行動に移してしまったから、自分たちの種族がちがうものに変わってしまうっていう罰を受けたんだろ。何かを得るには何かを失う。それがこの世の決まりなのかもしれないな」
「うーん。おいらは実感したことがねえなあ。第一部隊に入隊っていう、これ以上ない名誉を得たときも別に失ったものって何もなかったし、いいことしか起こらなかった。でもリュデュストス様やシトヘウムスもケイと似たようなこといってたから、そういうもんなんだろうな」
チコリナットが実感したことがないのって、なんだかわかる気がする。
「チコ坊はこう見えて百十歳なんじゃろ」リャムが問いかけた。「百年前の大事件を目の当たりにしてる世代じゃ。当時の様子がどんなだったか聞きたいけえ」
胸にさざ波が立った。当時の様子。聞きたいような、聞きたくないような。
「百年前についてか。正直、おいらは十歳だったから当時のことはよく覚えてないんだ」
僕はほっとしたのか残念だったのか、複雑な気持ちになった。
「当時は何が起きたのかさえよくわかってなかった。みんなから聞いた話だと、そりゃ世界中が大騒ぎしたらしいぜ。なんせ、大公に何人か選ばれたことのある天人族が人間になって、人間だった奴らが新しく懐生に加わるってんだからな。いろんな場所で話し合いや会議が開かれたらしい。そんな中で、妖精族は自分たちが代わりに罰を受けますって、神に申し出ようとしたみたいだぜ」
「えっ」
「なんで」
僕とケイが声を上げた。
「だれかが苦しむより自分たちが苦しんだほうが幸福。って考えが、妖精族の根本にあるんだよ。特に一昔前まではそういう考え方が目立ってたんだ」
「つまり、自分たちは何も関係がないのに肩代わりをすると?」僕は尋ねた。
「そうだ」
「どんな修行なんだよ、それは」笑いたいけど笑えない、みたいな表情を浮かべてケイがいった。「利他主義……というか、自己犠牲の精神なのかな」
「自己を犠牲にするにも程があるじゃろ。考えられん」リャムが首を振った。
チコリナットは紅茶を一口飲んでからつづけた。「神は下界の生き物の苦しみや悪をすくい上げる。って、妖精族の中じゃ、そう伝えられてるみたいなんだ。神に近い存在でいることが妖精族の指針になってて、だからあいつらは自分たちが苦しむことが苦ではないんだ。って、シトヘウムスがいってたよ」
「なるほどのう。宗教観ってのは地域や種族によって本当にちがうからのう」
「それに加えて、罰を受けるのが天人族だからってのが大きかったんだ。天人族、妖精族、そしておいらたち鳥人族。この三種族は取り分け仲がよかったんだ。妖精族が諸肌を脱ごうとしたのも、仲のいい天人族のためならば、ってのがあったんだと思う。でも、当時妖精族の副族長だったメルギール様が、それでは本人たちのためにならない、って反対したんだ」
メルギール様。東大陸の現大公だ。
「結局みんなメルギール様の考え方を受け入れたんだよ。それからはメルギール様がみんなをまとめるようになって、妖精族も雰囲気が変わってきた。徐々に堅いのが和らいできてる印象だ。優しさや他人思いな部分は残しつつな」
「ほーん。いい方向へ導いたんじゃの。さすがは大公さんじゃ」
「肩代わりが実現しなくてよかったよ。もし無関係の妖精族がとばっちりを受けるなんてことがあったら、それこそおれたちは罪悪感でいっぱいだったろうからな」
「うん」僕はケイに同意した。
外から笛の音のような小鳥のさえずりが聞こえてきた。美しい。鳥人族の里ではいろいろな鳥の鳴き声を耳にする機会がある。
「人間ってそんなにいいものなのかな」
チコリナットの疑問に、僕たちは外に向かいかけていた意識をぐっとテーブルの中央に戻した。
チコリナットは僕とケイを指差した。「お前たち化体族は人間に戻りたがってる。けど、天人族だったセスヴィナ領の奴らは天人族に戻ろうとはしてない」
「そうだね。今のところそういった計画はないみたいだね」
「人間のままでいたいってことじゃんか。リャムがいる前で悪いけど、なんでなんだろうって思うんだ。特別なものを持ってないのが人間だろ。翼を持ってないし、妖術だって使えないし」
「目も鼻も耳も優れておらん。そう考えれば、取り立てて能力がないのが人間じゃね」人間のリャムがいう。
「寿命だって短い。でも、そんな人間になりたがってる。おいらには理解が難しいよ。人間がとっても立派な心を持ってるってんなら憧れもするだろうけど、そうでもないみたいだし」
「チコ坊は人間が卑しい生き物だと思ってるんかえ」
チコリナットは首を左右させた。「そんなふうには思ってない。いい人間だっている。いるけどさ……」
「けど?」リャムがどこか愉快そうに尋ねる。
「ドニカルルアに会っただろ」
僕はそっと耳を触った。牢に入っていたドニカルルアさん。自責の念から号泣していた姿が忘れられない。
「あいつは今でこそひねくれてしまったけど、昔は穏やかで性格がよくて……なんていやいいんだろ。あ。誠実な奴だったんだ。どんな奴に対しても誠実だったし人間に対してもそうだった。なのに、今じゃひどく人間を嫌ってる。昔のあいつからは考えられないよ。あいつは何もいわないけど、人間に何かひどいことをされた気がしてならないんだ」
「『化体族は人間よりも会いたくない』っていってたけどな」ケイが牢獄で聞いた発言を口にした。「シトヘウムスさんがいったように同属嫌悪なんだろうけどさ」
「まあ、ドニなんたらさんが人間を憎む理由は、人間に恋をしたからじゃろ」
「人間の女を好きになったのに、あそこまで人間を嫌うってのはなんでなんだろうな」
リャムが歯の隙間から息を吐くように笑った。「やっぱりチコ坊はガキじゃのう。愛と憎しみは表裏一体っちゅうのは大昔からの法則じゃ」
キィ、と小屋の戸が開いた。
ユリアだった。ユリアはテーブルに集まっている僕たちを一瞥し、何もいわずにゆっくりと戸を閉めた。散歩帰りにしては表情にすがすがしさがない。というか、冴えない。




