35-3:シッコクノバンダナ
心が落ち着かない原因はもう一つある。ノエルの「不器用に優しい」という発言を思い出したからだ。いらいらする。ふざけるな。俺は器用だ。優しさなんて生っちょろい性質が俺のどこにある。俺はヤツとはちがう。ヤツのようにぬるいことはしねえ。安全な道に安んじたりしねえ。俺は生きるか死ぬかの戦いに身を置く潔さと冷徹さを持っている。不器用に優しい、そのずれた評価は黒蠍と同じで俺をそう見たいという空想の産物に過ぎない。
黒蠍はどっかの番人かのように胸を反らせて立っている。あいつの問いを保留にしたままだったな。
「剣が槍に勝てるか」俺は剣を握る手に力を入れて奴の問いを繰り返した。「それはどうでもいい。とりあえず俺はてめえに勝つ」
「ふん。精神論に帰結したね」黒蠍は地面に垂直にしていた槍を浮かせてくるりと回し、俺に穂先を差し向けた。「どんな答えが返ってこようが関係ないけどね。だって君は」
僕にやられる、といって奴は前進した。
俺は身をひるがえして駆けだす。奴に向かってではなく小屋の裏の林へ向かって走る。まずは場所変えだ。槍の本領を発揮させないため、せせこましい場所へ移るのが先決だ。
黒蠍は俺を追いながら高らかな笑い声を響かせている。逃げる相手への嘲り、追い込む自分への高揚感、といったところか。余裕ぶってりゃいい。最後にやられるのはてめえのほうだ。
――!?
変化は突如として起きた。木と木のあいだを抜けたとき、乾いた金属音とともに右足の爪先近くに急激な圧がかかった。巨大な蛇に噛みつかれたような衝撃だった。頭にキンと響く。足を取られた俺は勢いがあった分、体の均衡を崩した。しかし勢いがあった分、蛇のようなそれに完全に捕らわれることなくズルッと足先が抜けた。直後に俺は前方へ転んだ。
即座に上半身を起こして後ろを振り返る。蛇のようなそれはトラバサミだった。扉の取っ手くらいの小ささ。動物用か。あいつが仕込んだにちがいない。草や木の葉にまぎれていてまったく気づかなかった。
立ち上がると同時に黒蠍が俺の対角線上へと躍り出てきた。間一髪、という言葉を使わなければならない。もう少し間合いを詰められていたらあいつの槍が転倒した俺の体に飛んでいたことだろう。
「君はツイてるねえ」槍をだらりと下げながら黒蠍がゆっくりと前へ進み出る。「それは小動物用の初歩的な罠さ。もっと大きな仕掛けに当たっていたら骨も肉も砕かれちゃってたよね」
相手の接近に合わせて俺は後ろへ、そして横へ、歩を移す。
小型のトラバサミということもあり俺の足にがっちりと食い込むことはなかった。刃物が付いていない簡易なつくりなのも幸いした。それでも威力はあった。骨にはいってないようだがかなりの痛みが出ている。俺は痛みに耐えられる。俺でなければ悶え苦しんでいる。そろりと地に足を着けるのがやっとだ。この状態ではろくに走れない。
「ろくに走れないよねえ」俺の心を読んだかのように黒蠍がにやけていう。「これこそが僕の真骨頂だよ。この運のよさ。いつだって天は僕の味方をする。今だってどうだ。君の足に損傷をあたえ、僕にネズミを屠る好機をあたえてくれた。いいかい、君。こういうことなんだよ。これが神の思し召しなんだねーえ」
人をネズミ呼ばわりか。調子に乗ってやがるな。
群立つ木々を軸にして互いにじりじりと位置を変える。俺は奴とのあいだに木を置くよう動き、逆に黒蠍は俺とのあいだに遮りをなくすよう動く。
「俺も相当に運がいい。てめえが今さっき認めたようにな。せいぜい足をすくわれないように注意しておけ」
間合いをはかる黒蠍の顔には笑みがこびりついている。ネズミを追い詰めて愉悦を感じてやがる。悪趣味な野郎だ。
「忠告のお礼に僕も一つ警鐘を鳴らしておこう。うろつかないほうがいいとね。まだまだ罠はひそんでいる。こんなものより強力な罠が。もちろん僕はそれらの位置を把握している。君は把握していない」
俺は足を止めた。この林の中に罠がひそんでいるのはあながちはったりではないだろう。ここは奴の庭のようなもの。動き回るのは得策ではない。
「さあ。君はその足でどの道へいくんだい」
俺は大樹の前に歩み出、奴と直線上に間合いをつくった。奴が攻めてきてもよけられる程度の距離は保つ。
剣の切っ先を奴に向けていった。「この場で片を付ける」
黒蠍はきしきしと笑う。が、すぐに止んだ。一転して顔中に針を刺して表情を殺したような顔つきになった。奴は槍をかまえ直し、体勢を整えた。
不思議と今の状況をすんなり受け入れている自分がいる。俺は何かに導かれたのかもしれない。遠征に出たのも、ここエデンレイル領に立ち寄ったのも、あるいはこの男と事をかまえるためだったのかもしれないと、そんな気さえしている。
黒蠍が向かってきた。
俺は剣を肩の上で引き、奴の顔面めがけて思いっきり放った。剣は矢のごとく真っすぐに飛ぶ。黒蠍はよけた。一瞬の隙をついて奴の懐へ入り、槍の柄をつかんで引っ張った。相手も当然奪われまいと力を込めて引く。膠着する。黒蠍は俺の股間を蹴り上げようとした。俺は足で防御した。てめえのような外道のすることなんざ予測済みだ。
と、奴は今度は俺の顔面めがけて唾を吐き出した。俺は顔を背けた。同時に靴底を奴の腹に押し当て、グッと力を入れ、奴の体を引き離した。槍は俺の手に残った。
よろめいた黒蠍はその調子のまま後退し、落ちていた俺の剣を拾い上げた。
武器の交換という形になった。俺は耳の前についた奴の液体を拭い去った。
黒蠍は剣先を俺に向けてにやける。「君と同じように投げつけることもできるね」
「そりゃいい。そいつは大事な剣だ。てめえのきたねえ手からさっさと放せ」
奴は投げる気はない。投げられない。剣が俺の手に戻ればあいつは丸腰になる。
黒蠍は林の奥へと走っていった。
追いかけない。罠がある。
奴の家の前に戻ってきて十分ほど経った。渓谷を流れる川の音に誘われたかのように奴の歌声がときおりこだまする。
「おい。いつまで雲隠れする気だ」
林に向かって投げかけた。正確な位置はわからないが俺の声の届く範囲にいるのはたしかだ。
「隠れちゃいないよ。会いたきゃすぐ会えるよ」
きしきしと例の笑いが響く。俺を林の中へ引きずり込みたいようだな。それだけあいつにとって地の利があるということだ。
「どちらが先にしびれを切らすだろうねえ」
俺は槍を持つ手を替えた。「ヒトはせいぜい日が落ちりゃ巣へ戻る」
今のところは奴がいうようにどちらが辛抱強く待てるかだな。このまま奴をおびき寄せる手立てが見つからなければ長丁場になる。明日の鳥人族との合流の時間まで足踏み状態がつづく可能性はある。それでもいい。遠征はどうにかなる。それよりもあの変人と決着をつけるのが先だ。今あの野郎を討ち損ねたら俺は必ず後悔する。
「のんびりしてる時間なんてないんじゃないのー?」
「余計な心配してんじゃねえ」
「まあそうだね。化体族が人間にならないほうが好都合だしね」
五分経った。
「あーあ。この剣を捨てちゃおっかなあ」
煽ってきやがったか。
「ならば俺はこの家を燃やす」
沈黙が訪れた。
「へえ。剣を放棄するつもりかい」
引っかかる物いいだった。
甘ちゃんの君には燃やせっこないなどと返してくるかと思ったが、その話題には触れない、か。若干声色に変化が見られた。あいつは余裕がなくなっている。焦れている。俺を林へ引きずり込みたいというより、この場から離れさせたい念を感じる。
家から離れさせたい。家を燃やされたくない。こんなぼろい小屋を焼失したところで大して痛手ではないはずだが。何に執着している。中にだってこれといった物は何も――。
――ある。
俺は悪臭漂う小屋の中へ入り、それをつかみ取って、外へ出た。
「おい」陰鬱な色をした木々に見せるようにそれを差し出す。「手始めにこいつから燃やしてやろうか。壁に掛けてあった黒い布だ」
「やめろ!」
ドスを利かせた範囲で出せる最も高い音、みたいな声を張り上げやがった。奴はザッザッと地面を駆ける。
当たりか。予想を超えた反応を示しやがったな。
奴は林から抜け出てきて俺の前に現れた。剣を握りしめていても凛々しさの一つも感じさせない。
「返せ。それは僕以外は触れてはいけないんだよ」
風に揺れる柳のように飄々としてたくせにその影はもう消え失せた。
「価値ある布だか知らねえが。弱みは持つもんじゃねえな」
俺は崖の縁まで歩き、布を持つ手をだだっ広い空中へ伸ばした。黒い布が風にはためく。
「落としてやるか。川で洗われてきれいになるぜ」
黒蠍の片頬がぴくりと動いた。無意識の反応の後に奴が意識的にとった行動は、なんでもないというふうににやりと笑うことだった。
「じゃあ僕も崖の下にぶん投げるよ。君が大事だといっていたこの剣をね」
「丸腰になりたきゃやれ」
「ふふ。武器なんていくらでもあるんだよ」黒蠍は鬱蒼と茂る木々に顔を向けた。
林の中に武器を隠してるとでもいいたいのか。単なるはったりか。相変わらず藪睨みの目は、中心、本心といったものを読みづらくさせる効果がある。
「そうだねえ。一つ取引しようか」黒蠍は虫を追い払うかのごとく軽く剣を一振りした。「僕は君の剣を返す。君は僕のものを返すんだ、全部ね」
「槍と布か。剣一本に対して贅沢な要求だな」
「そうかい? こんな上等な剣を取り戻すんであれば妥当な――」
「条件が釣り合うようにしてやる」
俺は腕を振って黒い布を投げ捨てた。空に舞うそれに黒蠍は気を取られ、愛らしいほどに無防備な隙を生み出した。すかさず奴に向かっていく。奴は息をのんで俺へ意識を戻した。もう遅い。互角以上に対処できる見込みのない黒蠍は逃げるしかなく、真っ当に退路を求めた。俺は奴の逃げ道を断ちつつ追い込み、船首を彷彿とさせる崖っぷちまで詰めた。
目玉だけを動かす黒蠍。置かれている状況の確認か。奴の背後は断崖。前方には槍が待ちかまえている。袋のネズミだ。
「運が尽きたな」
奴はずれた目で俺を見た。「君はなかなかに冷酷だね」
――あなたは不器用に優しいわ――
「いったろ。てめえが想像する俺はてめえの願望に過ぎないとな」
「つまり君は冷酷なのかな」
「好きに判断しろ」
歩を進め、馬二頭分ほどまで迫った。崖下で流れる水の鳴りが雨音のようにも聞こえる。例の布は川へ落ちた頃か。
「取引はどうなったんだい。武器は持ち主に帰らず終いかい」
「もちろん取引には応じる。てめえを始末した後でな」
俺は一歩前へ出た。黒蠍はじりじりと後ずさる。
「あの世で五十人に詫びろ」
「君は……シッコクノバンダナとはちがう。英雄になれないタイプだよ」
「だれが英雄になりたいといった」
さらに一歩距離を縮めた。直後、黒蠍は奇声を発して全力で剣を投げてきた。俺は槍ではじき飛ばし、隙間をかいくぐろうとしゃにむに向かってきた黒蠍の腹に槍を突き刺した。肉に食い込む感覚を得た。
と、グンと前方へ引っ張られる――。
俺は手を離した。黒蠍は両手で槍の柄を握りながら後方へ踏鞴を踏み、そのまま止まれず落ちた。俺はつんのめりはしたものの、高台に残った。
悲鳴のような笑いのような狂った叫びが降下していく。
剣を拾い上げたのちに渓谷へとおりていった。黒蠍は川のほとりの岩場で、顔を血みどろにして死んでいた。
あっけなく死にやがって。戦い方は執拗だったくせによ。この男は、腹に刺さった槍を引っ張って俺を道連れにしようとしていた。どうせやられるなら、か。気高い根性だ。
こいつが消える寸前、俺からすればこいつと目が合ったのだが、藪睨みの目が俺を捉えていたかはわからない。
あたりを散策した。黒い布は見当たらない。川に流されたか。
俺は川岸で四つん這いになり、水に頭を浸した。
バンダナがどうこう抜かしてやがったな。君はなんとかのバンダナとはちがう、と。なんのバンダナといっていた。聞き覚えのない言葉だったのはたしかだが。忘れた。まあいい。確かめようがない。
水中から頭を上げた。水滴したたる前髪を後ろへかき上げた。
数多くの人間を殺した末に、最期は名も知らぬ旅人に攻め込まれて孤独に死ぬ奴もいれば、豪奢な宮城で育てられ、死後すら多くの領民に見守られる者もいる。あの男とノエルの人生はどう考えても正反対だが、崖から落ちて命尽きた点は同じだ。生きてるあいだどう暮らそうが死ねば一緒。死ねば終わりだ。
あの男と戦ったことによって、思考がすっきりとした。
ああいう輩にエデンレイル領を乗っ取られないよう、俺たちは早く人間になって、この領へと帰ってこなければならない。それにはどうすればいいか。わかっている。さっさとセスヴィナ領へ馬を走らせる。




