3-2:ムゲンとの稽古
曇った表情のムゲンさんを見ておれはハッとした。ハヤテも同様だった。
「翼竜のほう、やられたのか」ハヤテがいった。
「ああ……。大公の御殿からレイル島へ戻る途中、ハーメット領の外れで矢を所持していた人間に襲われた。捕まりかけたが這う這うの体で逃げてきた。そんな厄介事があったもんで、当初はマルコス殿がお越しになる前に帰るつもりが遅れてしまったんだ」
ハヤテはチッと舌を鳴らした。「ハーメットか。野蛮な人間が集う領だけあって胸糞悪い真似しやがる」
「それで、翼竜の体はどんな状態なんですか」
「俺も無我夢中だったんで実際どのくらい負傷しているのかわからんのだ。事実としていえるのは、どうにかこうにか島まで飛んでこられた、という程度か」
「昨晩」領長が閉ざしていた口を開いた。「役所の広場に翼竜が帰着したのは0時少し前だった。暗かったのもあってけがの具合はよく確かめられんかった。明日、ルツァド獣医に診てもらう。……結果如何によっては、もしかしたらムゲンは遠征に同行できないかもしれん」
おれは頭を殴られたような衝撃を受けた。
「そんな! ムゲンさんが抜けたら――」
ハヤテがおれの口をふさぐかのように、手でおれの顔をずいと押した。
「なら今日はうだうだいったってどうしようもねえ。面倒だが明日またきてやるよ」
「ハヤテ。悪いな」
「兄貴が謝るこたあねえよ。腹立たしきはハーメット領の人間だ」
おれは大きく頭を縦に振ってハヤテに同意した。
「ハーメット領の人間の仕業と決まったわけじゃない。それに、隙をあたえてしまった俺に落ち度があったんだ。いつもなら厳戒態勢で飛行するのに、大公から書状を拝受したことによっていよいよ遠征に出るのだと浮ついてしまっていた」
いかにもムゲンさんらしい対応だ。相手が悪者であっても他人のせいにしないのがムゲンさんだ。自分に厳しく、責任感の強い、男気のある人なのだ。
「――帰る」
「あっ。ハヤテ」
ハヤテが領長室を出た。おれは領長とムゲンさんに一礼し、ハヤテを追って外へと足を運んだ。突然帰ると口にしたハヤテの顔には、不機嫌な色がにじんでいた。
ハヤテとおれと姫は、無言で役所の裏庭を歩き始めた。ムゲンさんたちが会話を再開するのが聞こえてきた。
「領長。ゆうべはほとんど眠っておられないのでしょう。顔色が優れないようです。少し休まれてはいかがですか」
「うむ……。そうだな。そうさせてもらう」
領長が意気阻喪するのも無理はない。この島の行く末に関わってくるかもしれない、入り組んだ事態に進展してしまったからだ。
昨日の午前の時点で領長の様子がちょっとおかしかったのは、ムゲンさんの帰還が遅かったからだ。気を揉んでいたのだろう。おそらくは今実際に起こっているような困難を懸念していたのかもしれない。だとしても、まさか現実となってしまうとは思ってはいなかったろう。おれもそうだが、島中の皆がムゲンさんなら心配無用だと決めてかかっていた。
それだけ信望のある人が遠征に出られないなんてことになったら、島民は落胆する。そして島民は西大陸の人間に、特にハーメット領の人間に対して怒りの感情をあらわにするだろう。きたる年明けに向けて盛り上がっていたときだったから、なおさらだ――。
「ハヤテ、ケイ」
呼び止められたおれたちは後ろを振り向いた。ムゲンさんが裏口のそばに立っている。
「どうだ。久しぶりに稽古をつけてやるか」
「稽古?」
「大丈夫なのかよ」
「けがをしたのは翼竜の体だぞ。俺も明日までは暇を持て余している身だ。付き合え」
ふっと隣から息を吐く音が聞こえた。ハヤテが笑みを浮かべていた。
おれとハヤテとムゲンさんの三人、そして姫は神ノ峰へ向かうことにした。
ムゲンさんは剣術の先生。希望者に剣の技術を教えている。島内の少年少女が中心だが、年齢制限はなく、お年寄りの生徒も数人いる。
ハヤテとおれは昨年末まで習っていた。おれは七歳から始めた。ハヤテは一歳になる前には小型の竹の刀を振り回していたらしく、物心ついたときにはすでにムゲンさんの愛弟子という状態だったらしい。弟子というよりはもう、家族に近い関係性に見える。
今年に入ってムゲンさんは剣術教室のいっさいを休講にした。遠征に備えて自身の鍛練に励むためだった。
おれたちは神ノ峰のふもとの広野に着いた。
たまに草刈りをしている大人や遊んでいる子供たちの姿があるこの場所。今日はだれもいない。
姫は緑の大地を独り占めせんばかりに駆けだした。花を咲かせた野草から蝶がひらりと舞い上がった。
おれは高くそびえる神ノ峰を仰いだ。切り立った岩山が空を目指して伸びている。自分の部屋の窓から眺めるよりずっと迫力がある。神がときおり頂上に降臨して休憩していくなんていい伝えがあって、だからおれたちはのぼってはいけないと教えられて育った。禁止も何も、そもそも急すぎてのぼれる気がしない。
ハヤテの母親のサユリおばさんとムゲンさんはのぼりはしてないけれど頂上に足をおろしたことがある。頂上がどんな場所だったかについてはおばさんは沈黙を守っていて、ムゲンさんは「ふつうだ」としかいわないので、つまりあまり明らかになっていない。
「さて。先にケイからいくか」
ムゲンさんが役所から持ってきていた稽古用の模擬の刀剣のうちの一振りがおれに手渡された。柄の部分がなめし革で覆われている竹刀だ。
「ケイ、力みすぎんなよ」ハヤテが少し離れた場所で腕組みをしながら助言をくれた。
「さあ。いつでもかかってこい」
「お願いします」
互いにかまえをとった。ムゲンさんと手合わせするのはおよそ一年ぶりだ。鼓動が速まっている。
おれは深呼吸をして心を落ち着かせた。そして、打ちかかった。
相手の体に一撃でも食らわせれば勝ち。おれが竹刀を振り動かして攻め、ムゲンさんが防御するという、稽古でよく見られる形式だ。
「いいぞ。成長しているじゃないか」おれの攻めを竹刀で受け止めながらムゲンさんがいった。
ムゲンさんの剣術の稽古が休止になってからもハヤテと一緒に修練を積んできた。我らが師匠であるムゲンさんとおれとでは当然実力に開きがあるが、この一年師匠の目の届かないところでせかせかやってきたおれの身ごなしは、多少なりとも変化しているはず。師匠が予期しなかった角度から一太刀浴びせることもできるかもしれない。成果をきちんと示したい――。
最近編み出した技を繰り出そうとしたところ、パンッと肩に重みを落とされた。思わず「あっ」と叫んだ。相手に竹刀を当てるつもりが逆に当てられてしまった。おれはあっさり負けた。
ムゲンさんは竹刀を引き、かまえを解いた。「ケイ。何がいけなかった」
本人に考えさせるのがムゲンさんの指導法だ。
「むだな力が……雑念が入っていました」
ムゲンさんは何もいわずに微笑んだ。
その後も何度か打ち合いをした。結局、ムゲンさんから一勝も得ることができなかった。
「よし。ここまでにしておこう」
「……ありがとうございました」
納得する出来ではなかった。雑念を払拭しきれた感じはとうとうしなかった。まあ、たとえ無念無想の境地に入り込めていたとしても、勝ち負けの構図に影響はなかったと断言できる。師匠との力量の差を改めて思い知らされた。
「それくらいの手並を有しているなら、善からぬ輩に遭遇したとしても、くぐり抜けられるだろう」
いわれたらまず悪い気はしない励ましのような言葉をムゲンさんがかけてくれたのは、おれがしょっぱい顔でもしちゃってたからだろう。ムゲンさんはその後に「むろん関わらないのが一番だがな」と付け加えた。
「はい」と返事をしたおれの胸の内では、そんな状況が訪れたら果たしておれは練習どおりに動けるんだろうかという疑問が生じていた。稽古だったらたとえ打たれようが薙ぎ払われようが武器は稽古用の竹の刀だし、相手に痛めつける目的はないとわかっている。だからこっちも相手の懐に入っていける。
もしぎらりと輝く真剣を握って殺意を漂わせている敵と対峙したら、同じような精神状態で立ち向かえることはできるんだろうか。今までそんな経験は一度もないので想像がつかない。島内に悪い奴なんていないし、だれかとけんかをしたとしても本物の剣が入用になるなんてことはもちろんないからだ。遠征に出れば本番がくるかもしれない。正直、不安だ。
「ハヤテ。次はお前の番だ」ムゲンさんが声をかけた。
「待ってたぜ」
「ハヤテとはこっちでやり合うか」
ムゲンさんは、刀身に艶のある木剣を差し出した。ハヤテもそれが自然であるかのように、すっと受け取った。
重みのある木剣で打たれたら相当痛い。下手をすれば大けが、最悪は死にさえつながる危険性がある。だからこそ集中力が増して神経が研ぎ澄まされるという話だけれど。ムゲンさんはハヤテとしか、またハヤテもムゲンさんとしかこの道具を使用しない。互いの強さを信頼していなければできないことだ。
「いくぞっ」
二人の仕合が始まった。二人は打ち合う。
ああ、と感嘆の息を漏らしてしまった。
なんて華麗な太刀さばきなんだろう。この二人はやっぱりちがう。鋭さ、素早さ、力強さが一種の芸術を創り出している。堅い木と木がぶつかり合う音は小気味よささえ感じる。
両者の気迫は凄まじいもので、まるで何かを懸けて戦っているかのようだ。激しい攻防がつづく。いつの間にか姫が四本の脚を地面に据えて、二人の様子を凝然として見つめていた。
「鍛練を積んでいるみたいじゃないか」
「兄貴こそナマってねえな」
どちらも楽しそうな顔をしている。実際、あれだけの腕前があれば楽しいだろう。
正午の鐘が遠くで聞こえた。毎日、正午と深夜0時に鐘が鳴る。いったん休憩することになった。
おれは鞄から弁当箱を取り出した。ムゲンさんが昼飯を食べに自宅まで戻ろうとしたが、ハヤテが止めた。ムゲンさんの家は役所の近くなのでここからは距離がある。行き来するのは大変だ。
「ケイ、俺の分は兄貴にやってくれ。俺は家で適当に食ってくる」
ムゲンさんは遠慮したものの、ハヤテは「どっちみち家の様子を見てきたい」といって、姫に乗ってさっさと去っていった。ムゲンさんは「強引な男だな」と笑った。
おれたちは川沿いの土手に並んで座り、母さん手製のサンドイッチを三切れずつ分けた。ムゲンさんは残さず食べてくれた。
「うまかった。アズミさんに礼をいっておいてくれ」
「母さん喜びますよ」
おれは弁当箱を鞄にしまって、食事中の場つなぎとしてではなく腰を据えて話したかった話題を切り出した。
「ハヤテの奴、また一段と強くなっていたでしょう」
「そうだな」ムゲンさんは即答した。「お前も明らかに上達しているぞ」
「でもあいつのようにはとても。年々あいつとの差が大きくなってます」