33-2:ノエルの私書
洞窟の入口付近まで戻るととある変化が起きていた。木につないだレンの近くに、もう一頭の馬が留められていた。
「ハヤテ様」
たったっと洞窟から駆けて出てきたのはマヤという名の女中だった。
「やはりこちらにいらしたのですね」
微笑んではいても悲愴感が顔色として表れている。
「いつきたんだ」
「五分、十分ほど前でしょうか。この先の崖の下でお二人が出会われたことと、この洞窟に足を運ばれていたことは、ノエル様より伺っておりました」
どうしてここがわかったか尋ねる前に答えが出た。
「何も食べていらっしゃらないのでしょう。よければお召し上がりください」女中は鞄に手を差し入れた。
どうぞ、と手渡されたのは紙に包まれたパンだった。
「助かる」
とても腹が減っていた。貪るように食った。
「あいつらは、どうしている」食べ終えてから俺は訊いた。
たった一日しか離れていないのに変な質問だったか。
「皆さんハヤテ様を信じていらっしゃいます」
「……エデンは」
「元気とはいいがたいですが、しっかりと食べてくれています」
「そうか」
「ハヤテ様にご報告があります。鳥人族の長よりご返信を賜りました。三日後の正午、東西の大陸をつなぐ橋にこられたし、使者二名が鳥人族の里へ案内いたす。とのことです」
その報告のために俺を探していたのか。使者の一人と会い、すでに話を聞いていたとは思いもしないだろう。
「……朗報、にはならなかったみたいですね」残念そうに声がしおれた。「三日後……ゆかれますか」
「正直、迷っている。ノエルの死と引き換えになった便宜だ。このまま流れに身をまかせるのは、ノエルの死を利用していることにはならないのか」
いいきってから気づいた。迷っている、などと他人の前で口にしたのは初めてだったと。
「ハヤテ様。ノエル様の死を最初に知ったのは私でした」
丸い目がにわかに強く凛とした色を帯びた。つないでいる馬が鼻を鳴らすも、合わせている目があまりに真剣なためにそっちへ気を取られることはなかった。
「ノエル様は遺言状と一緒に私への私書を書き置いてくださいました。私がだれよりも早く発見すると信じてくださってのことです。皆はノエル様が残された文書は遺言状だけと思っています。私書の存在は族長様にすら明かしておりません」
女中は鞄の中から封書を取り出した。
「遺言状は一定の形式でしたが、こちらにはノエル様の胸の内が綴られています。どうぞご覧になってください」
封書が差し出された。
「他人宛の手紙は読めない」
パンのように受け取るはずがない。
黙して封書を鞄へしまう女中。「では、私が内容を口述いたします」
「どうしてそこまで」
「私にはわかるのです。ノエル様は、ハヤテ様に知っていただきたく私に真実を託したのだと」
ふだんは弱気とも取れる物腰なのに、まるで他者の魂が乗り移ったかのように毅然としている。
「このような内容でした。ハヤテ様とノエル様がこの森で出会われた日。ノエル様は『私の意思を、私の行動によって示します』と書き置きし、自ら命を絶つおつもりでこの森に入られ、むき出しの崖の下にその身を置かれました。激しい雨が大量に降った後です。崖崩れが起こるであろうことはノエル様には予想できていました。また、そうなることを望んでおられました。崩れなければ増水した川へ投身なさるお考えでした。そんな風前の灯といえる状況の中、ノエル様はハヤテ様によって命を救われ、一筋の希望を見い出したのです。命の恩人であるハヤテ様のために人事を尽くしたいとお思いになりました。そして運命のときを迎えたノエル様は、終焉の地となった北の岬に向かわれるご決意をこうしたためております。『私の意思を、私の行動によって示します』と。前回と同じ一文です。そして文尾には、『化体族の皆様の願いが叶いますように』と記されていました。――ハヤテ様。どうか、ノエル様の最後の望みが叶いますよう、前に進んでいただきく存じます」
よどみなく流れる独白を一語も逃すことなく聴いていた。
ノエルの最後の望みとは、化体族の願いが叶うこと。つまり、化体族が人間になること。だから前に進め、か。
――私の意思を、私の行動によって示します――
結局のところ、具体性には欠けている。何がノエルを突き動かしたのか、どんな感情があそこまでの行動に至らせたのか、明らかにされていない。それぞれが勝手に想像するしかない。そんな中ではっきりしていることは、これだ。初めから、俺と知り合う前から、ノエルは死ぬつもりだったということ。
「申しわけございません。こちらの願望ばかりを押しつけました」
案じ顔で身を縮めている。いつもの女中に戻ったように感じた。
「謝る道理なんてないが」
俺が何もいわずにいたから気を回しすぎたか。たった今湧いた疑問を投げる。
「ノエルはずっと深い闇の中にいたのか」
女中は胸のあたりを押さえた。多少動揺をあたえたのかもしれない。女中は何かを飲み込むように軽く顎を引き、「ときおり」としゃべりだした。
「ときおり、ふと気づけば、陰のある表情をなさっていました。ノエル様ご自身はそのようなご様子を他人に見せようとはなさいませんでしたので、そば仕えしていた私しか知らない一面だと思います。皆の前では明るくご活発に過ごしておいででした。自由で行動力があっておてんば。ノエル様が多くの方から持たれる印象とはそのようなものでした。ですからノエル様が四日前に宮城を飛び出した際には、宮城の皆も、族長様でさえも、家出であるとしか見なしていなかったのです。私はそのような軽いものではないと感じていました。ハヤテ様たちとご一緒していたノエル様を見つけたときは、どれだけ安心したことか……」
この女中は倒れるまで必死に探し回っていた。
「ノエルのよき理解者だったんだな」
「えっ。私ですか? いえ、そんな。恐れ多いお言葉です。私はノエル様に大変よくしてもらったので、いえ、たとえそうでなくても、ノエル様をお慕いしておりますので、ノエル様を思うのは当然といいますかなんといいますか……」
「ノエルがいっていた。一番大切な友達だと。家族よりも家族に近い存在だと」
女中はじわじわと驚きを顔ににじませた。そしてゆっくりと空を仰いだ。
「そうでしたか……。もったいないお言葉です……。ありがとうございます……」
祈るようにつぶやき、はあっと大きな息を吐いて、涙ぐんだ目を俺に向けた。
「多くの人間がそうであるように、ノエル様も闇に取り囲まれる瞬間があったのでしょう。しかし、心の暗い部分だけが命を絶つという選択に結びつくとは限りません。ノエル様の場合もまたしかりだと思っています」
「どういうことだ」
「うまくは説明できないのですが、高尚なおもむきがあったのかと思います。ノエル様は美しい御方です。美しいがゆえに、何もかも美しくあらねばならなかったのかもしれません」
何もかも、美しい?
「あの死に方は美しいのか。あの遺体は美しいといえるのか」
女中が丸い目をさらに丸くしてたじろいだ。責めているみたいになっていると気づいた。
「悪い」
会話が途切れた。しばし無言の時間が流れた。
「ハヤテ様」
沈黙を破ったのは向こうだった。
「ロキサーヌ領を訪ねられてはいかがでしょうか」
「ロキサーヌ……」
「ご存知ですか」
「いや」
何か感じるような響きに聞こえたが自分で口にしてみればまったく馴染みのない名前だった。
「その領がどうした」
「世界一と謳われる立派な大聖堂がございます。あの大聖堂を訪れるとおごそかさや偉大さに畏怖しながらも、心安らかになれるのです。族長様の実弟様であられますモルゼリク様がロキサーヌの領長家に婿入りされましたので、セスヴィナと縁のある領でもあります。残念ながらモルゼリク様は他界しておりますので現在ではほぼ交流はないのですが……」
「族長の弟ならばまだ若いだろうに、亡くなったのか」
「流行り病に罹られたのです。私が生まれる前の話ですので、すでに流行り病は根絶しています。ご安心ください」
「そこの大聖堂を見てみろと?」
「人生観が変わるという人もいますので、もしよろしければいかがかと」
なるほど、と俺は気無しにつぶやいた。
「そして、ロキサーヌ領を北上すれば、エデンレイル領です」
ハッとした。エデンレイル領。レイル島の民の先祖が、つまり俺たちの先祖が、百年前まで暮らしていた地。
「化体族の皆様にとって遠き故郷となるその場所を訪れれば、きっと、見えてくるものがあると思うのです」
俺は空を見上げた。灰色の空に、何か別の色がほの見えた気がした。




