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30-2:思いを伝える

 俺はノエルに背を向けた。受け入れはしないという意思表示だ。


「どうしてもだめなの?」


 返事はしなかった。


「わかったわ」


 肩の力が抜けた。案外納得するのが早かったな。


「いずれにしてもセスヴィナ領にはいたくないから、あたしは領を出る」


「何」俺は振り返った。


 再びノエルと正対する形になった。


「ハヤテたちについていくつもりはないから安心して。あたしはあたしで旅をするから」


 執着やこだわりなどないかのようにあっけらかんという。


「あーあ、大変なことになるわね。結婚式を放棄するんだからモールへーべ領から恨まれるでしょうね。よくも顔に泥を塗ったわねって、族長も憤慨するでしょうね。あたし、一生セスヴィナ領には帰ってこられないわね」


「領を出てどこへいくんだ」


「どこでもいいわ。そうね。ハーメット領なんていいかもね。大きくて栄えた領みたいだし」


 ため息が出た。真っ先に治安が悪い場所を選ぶとはな。


「やめておけ。お前は外の世界を知らない。世の中にはお前みたいに世事に疎い奴を食い物にしようとする連中がたくさんいる」


「頭の固いつまらないことをいうのね」


「つまらなくても事実だ」


「ご心配なく。セスヴィナ領の族長の娘っていう身分は捨てる。高貴なだけの動きにくい服や装飾品は置いていく。お金だって少しでいい。悪党が狙う価値もないほど身軽にするわ」


「女が案ずべきは自分の身だ。特にお前は見た目が」容貌について言及しようとして俺は言葉を切った。「……女だから、そのまま若い女にしか見えないから、外を徘徊していれば力の弱い者に見られて格好の標的となる」


 ノエルは白く細い首をかしげた。「そんな心配をするんだったら、ユリアちゃんも化体のときのケイも、外を出歩かせてはいけないってことになるわ」


「お前の一人旅とはわけがちがう。男を含めた数人で行動している。あいつら自身も、最低限自分で身を守れる程度の腕はある。それにいざとなれば化体族という血筋が盾になる。化体族を襲う人間なんていないからだ。お前にはそういった武器となるものがない」


 身も蓋もないいい方なのは自覚している。だが現実をわからせなければならない。


「どうしてあたしには何もないって決めつけるの。ていうか、どうしてあたしのしようとすることに反対ばかりするの」


「無謀だからだ。勝機のない戦いを勧める奴はいない」


 ノエルは喉の奥を引きつるように鳴らした。「夢を見るなっていいたいわけ? あたしはだれかのいいなりになれって? 自由に旅も出られずに宮城の中に閉じこもってろっていうの!?」


 声が大きく揺れている。感情的になっている。


「そんなことはいってない。ただ、お前が一人で放浪の旅に出るのは無茶だ」


「他人にとやかくいわれる筋合いはないわ! あたしは自分の好きなように生きる!」


 ノエルは髪を振り乱して後ろを向いた。手摺りをつかむその手が小刻みに震えている。


 俺は深く息を吸い、吐いた。宴の喧噪が遠く聞こえる。


 しかつめらしく議論をしたって意地になるだけだ。今いうしかない。どうせ今夜のうちに伝えなければならなかったことだ。


「ノエル」


 振り向かない。


「この領にいてくれ」


 反応はない。


「この領で、待っててくれ」


 頑なにじっとしていた頭がぴくりと動いた。


「俺は一ヶ月以内に必ず人間になって、ここに戻ってくる。――お前に会いに」


 これはヤツの決意でもある。ゆうべ珍しくケイらに自らの意志を告げていた。


 ノエルの婚儀は一ヶ月後。それまでにすべてを終わらせればいい。すべてを新しくすればいい。


 化体族が人間になりさえすれば、何もためらうことなく意思を貫くことができる。やらない手はない。俺もヤツも志は同じだ。


 ノエルがゆっくりと振り返った。


 夜の暗さで細かい部分までは見えないが、穏やかな表情をしているのはわかる。


「ハヤテを待ったら、そしたら、好きなところに連れてってくれる?」


「ああ」


「結婚式が済んでしまっては、遅いのよ?」


「わかってる。一ヶ月以内に迎えにくると約束する」


 俺は絶対にやり遂げる。自信がある。


「俺とヤツ。どっちが会いにくるかはわからないけどな」


 ノエルが口元に手を持っていった。初めて気づいたような感じだな。


 その手はすぐに下がった。


「ハヤテはハヤテよ」


 ノエルがふわりと浮くように動いた。直後に俺の胸にぶつかってきた。


「なんて……過酷な運命の人なの」


 どういう状況なのか一瞬わからなかった。なぜ、俺に抱きついている。


「おい」


「今だけ……。こうするだけだから」


 ノエルの手が俺の背中に回った。胸の内がびくりと跳ねた。まるで長蛇が骨と骨のあいだを這うような、恐ろしく危険な快楽の渦が心身の奥底から生じた。


 柔らかい肌。鼻先に触れそうな髪の毛。男からは漂わないような甘い香り。毒と表裏一体の鋭い甘美が、頭の中に侵蝕してきているのを感じる。このまま麻痺してしまいたい衝動に駆られる。昨日ヤツは断崖絶壁でノエルを抱き寄せた。罰など受けていない。触れるだけなら、こうしているだけなら、別に問題は――――。


 いや。


 何を流されそうになっている。昨日のは人助けだ。感情も欲もいっさいないとっさの処置だった。わずかでも気持ちが入っている接触は問題がある。引き離さなければならない。


 俺はノエルの腕をつかんだ。


「何をしておる」


 ノエルの体が一瞬で強張った。


 教会と露台の仕切り口から人影が二つ現れた。


「お母様」ノエルの体がやにわに離れる。


 族長と、ランプを持つガタイのいい男。昼に鎧を身に着けてた側近か。


「何者かが神聖なる教会に無断で立ち入ったようだと報告を受けたのできてみれば。これは一体どういうことですか」族長はいたく冷静だ。


 ノエルの指がぎゅっと自らの衣服をつかんだ。族長に見せまいと、後ろ手で、藁にすがるかのように。


「転びそうになった、などのばかげたいい逃れはできませんよ。ノエル。あなたがしかと寄りすがっていたのは一目瞭然でした」


「……いいわけはしません」


「そうですか。ならば軽率な行為です。百年前と同じ過ちを繰り返すつもりですか」


「ちがう! あたしはただっ……」


 ノエルと族長は暗い影を落とした中で互いに見合う。


「ただ…………」


 ふっと鼻で笑うノエルの母親。「近頃の女性のいじらしいこと」


 えもいわれぬ不穏な空気が漂った。族長の語り口、側近の挙動、ノエルの黙り方。それらの要素一つ一つがどこか殺伐としたものを孕んでいるように感じた。


「私には、真似できません」族長が冷ややかにいった。


 深い沈黙に包まれた。そしてやはり殺伐としていた。直感でしかないが、族長が目に見えない攻撃を仕掛け、ノエルが思惑どおり痛手を食らったような、そんな水面下の争いが繰り広げられている気がした。


「ハヤテ」ノエルが戦意を喪失したかのように沈黙を破った。感情のまったくないような乾いた声は族長とよく似ていた。「突然抱擁なんかしてごめんなさい。――さようなら」


 さようなら?


 ノエルは踵を返し、長い髪を揺らして仕切り口へと歩いていく。


「ノエル」


 急な上にさようならという別れ方はおかしいだろ。もう会わないようないい草だ。


「おい、待て」


「幸運を祈ってるわ」


「ノエル!」


 外にわんと響くほどに呼びかけてようやくノエルの足が止まった。


 俺はノエルの背に語りかける。「さっきいったとおりだ。俺は人間になって必ず戻ってくる。ここで待っててくれ」


 族長と側近がこっちを凝視している。無視しときゃいい。


「ありがとう」


 それだけいい、ノエルは振り返らずに再び歩を進めた。すっと室内の闇に消えた。


 教会の床には絨毯が敷かれている。ノエルの足音は絨毯に吸収されて聞こえなかったが、しかしたしかに気配は遠のいていった。


 完全に気配が消えたとき、気づいた。待っててくれという俺の思いに対して、ノエルから明確な答えをもらっていなかったことに。

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