27-1:崖の上でノエルと 【月の日/ハヤテ】
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故郷に帰って翼竜と再出発しなさい。識者である博士の出した結論はこうだった。
とにかく情報を仕入れたかった僕は、ノエルとともに物知りな人物が集う学舎を訪れていた。博士と呼ばれる人たちの中でも、特に僕が今回知りたかった海関係の情報に詳しい老人を紹介してもらった。老人、博士は、「船で東大陸を目指す利点はない」という終着点を定め、そこへ向かって他人をそして自身すらも誘導していくような、終始そんな論調だった。間断なくせき止めを食らったわけだ。
学舎を出たときには僕は打ちひしがれていた。遠征の新たな船出に弾みがつくかと思っていたけど実際は逆だった。
しばらく口を閉ざす僕を見かねてか、ノエルが気分転換に乗馬でもしようと誘ってくれた。馬を借り、中心地を離れて今に至る。
ノエルの後を追って馬を走らせる。彼女は見せたい場所があるという。
馬の蹄の音とともに流れる景色が淡々しい。近くに海はなくも吹きつける風に潮気を覚える。波音を記憶している巻貝のように、僕の頭の中で、博士とのやり取りが繰り返される。
――ということで、僕たちは船で東大陸へ向かうことを検討しています――
――必ずしも不可能ではないがねえ――
そのようないい出しから博士の知見が展開された。
人間が船で東大陸に到達した記録はいくつかある。そのうちの一例を教えてもらった。
有名な冒険家がいたらしい。冒険家はかねてから夢見ていた東大陸への旅を晩年に実現した。手練れの船員を雇い、腕利きの医師や技師などの専門家を同行させ、豊富な食料と水を船に搭載した。万全の準備には相当な資金を要したとのことだった。
冒険家がいかに財や人脈や運に恵まれていたかを説いた後で博士は、眼鏡の奥の眼光を鋭くして苦言を呈した。
――思いつきで航海できるほど海は易しくないのだよ。たとえば、座礁。たとえば、難破。遭難、漂流、沈没もある。そういった危難について君たち一行は深く考えていないように見える――
――海難については十分に認識しています――
僕がそう返すも、博士は微かに苦笑いを浮かべただけだった。
次に博士が発した言葉は、より現実への食い込みが激しかった。
――率直に問おう。危険を顧みないで協力してくれる船員が都合よく見つかると思ってるのかね。半人種である化体族のために、諸肌を脱いでくれる人間が、そこら中にいるとでも?――
僕はこの問いには答えられなかった。
――ハヤテたちに協力したいと思う人間は絶対にいます――
ノエルの激励はありがたかった。けど、博士の見方のほうが実情を捉えていると思ったし、僕たち一行もそういう見方をする必要があると思った。
船で東大陸を目指す。それは、道なき道を歩むまさに冒険と同じ行為。命を賭す覚悟で臨まなければならない。そんな冒険に加担してくれる人間を半人種が求めるのはとても難しいことだと、博士のように一歩引いた冷静な視点で見ればよくわかることだった。高額な謝礼でも出せるのならまだ望みはあるけれど、僕たちに金銭の余裕はまったくない。僕たちに協力する側には利益がないのが現状だ。
船での遠征の可能性が浮上したときから、時間でいうと数時間前から、マルコスさんの顔が脳裏にちらつくことが何回かあった。古くから化体族と交流のあるマルコスさん。立派な船を所有し、優れた船員を雇っている。理想的な条件がそろっている。しかしここは一線を引くところであるのは承知している。マルコスさんが年に一度レイル島にやってきてくれるのは交易という目的があってこそだ。長年の良好な関係は商売が介在してのことだというのを忘れてはいけない。商売にならない上にどのくらいの日数がかかるかわからない航海に誘う気は到底起きない。第一、マルコスさんの住んでる領まで戻ってマルコスさんの船に乗せてもらうのであれば、その船は東大陸ではなくレイル島に向かうべきだ。レイル島に帰って翼竜の回復を待つほうが断然効率がいいからだ。
翼竜のことも博士に話した。空を飛べる、人を乗せられる、そして人の心を持っている。まさに遠征にあつらえ向きじゃないか、と博士は怒ってるようにも聞こえる口調でいった。そしてすぐにでも島に引き返すよう僕に勧めた。
――どのみちこのセスヴィナ領に滞在していたって無意味だということを教えておこう。ここでは漁以外の目的で船を出すのは禁じられているのだよ。他領へ移って船や船員を探し求めるのは勝手だが、ほうぼうを歩き回ってるうちに月日なんてあっという間に経過してしまう。足を疲弊させたところでお望みのものが見つかるとは限らない。だったら手持ちのカネがあるうちに巣に戻って、しっかり準備を整えて、確実な方法で東大陸を目指したらいいのではないかね――
時間が経てば経つほど博士の合理的な意見が腹に落ちていく。
一から立て直す、か。必要に迫られればそれも致し方ない。ケイもユリアもリャムも、最終的にそれが一番いい方法となれば反対はしないだろう。
問題は、カレだ。別の日のこの体の主。カレがどう出るか。人間になる一心でレイル島を出発したのに、化体族のままレイル島に帰還するのは、カレの生き様に反することだ。進んできた道を逆戻りするくらいなら、エデンと一緒に橋を無理やり突き抜けるほうがよっぽどカレのやり方に合っているけど……。でも。さすがに化体族の名を汚すような行動は慎むと、信じている。
カレも仲間も僕も納得する形というのは、結局は一つしかない。僕たちが最も望んでいること。それはやっぱり、セスヴィナ領の族長から許可をもらい、東大陸への橋を渡らせてもらうことだ。
自分たちの力で道を切り開きたい。そう自分でいっておいての原点回帰。
だけど、今思う。自分たちだけでどうにかできると信じ込むのは思い上がりでしかなかったのだと。どんな手段を講ずるにも他人の力が大なり小なり必要になる。船で東大陸を目指すのも故郷に帰るのも船員が必要。情報を得るにしても有識者や紹介者がいてのことなのだ。他人の力に甘えるのでなければ、他人の力を借りたって恥じる必要なんかなかったんだ。
恥じずに、あきらめずに、ここは踏ん張らなければならない場面なのではないだろうか。簡単でないのは百も承知。それでも、僕たちの思いが伝わるよう、なんとかして族長に説得を――。
――あたしが母の要望を飲めば動く可能性はあるわ――
――結婚することよ――
まとわりついた蜘蛛の巣を振り払うかのごとく頭を振った。直れば前方を走るノエルがまた視界に入る。
よしてくれ。そんな助けならいらない。そんなことは、してほしくない。
本物の潮風を吸う。手綱を木に結びつける。
「高原を駆け抜けて、少しはすっきりしたかしら」
問いかける本人はさも爽快という様子だ。ノエルは宮城用の正装のまま器用に馬を乗りこなしていた。
「そうだね。ここの見晴らしで、さらに頭が冴えるようだ」
僕たちは今、高度のある丘の、あと三十歩ほど前に進めば陸地が終わる、というあたりに立っている。人の姿はない。右にも左にも険しく切り立った断崖が大蛇の腹のようにつづいている。崖下には黄昏を感じ始めた白けた海が果てしなく広がっている。胸のすく迫力のある壮観だ。
「あの博士は悪い人ではないんだけれど、いい方が厳しいところがあるの。もし嫌な思いをさせてしまっていたら、あたしが謝るわ」
「嫌な思いなんてまったくしてないよ。貴重な情報をいろいろと教えてもらった。感謝してるよ」
「ならよかったわ」
微笑みを見せたノエルは、陸の先端に向かって歩きだした。僕ももっと際どい景色が見てみたくて前進した。
「まだ、これからについて考えがまとまってはいなそうね」
「僕の一存では決められないからね。宿に帰ったらみんなで話し合わなければならない」
「……羨ましいわ」
こちらが反応する前に「ごめん」とノエルの言葉。
「ハヤテたちからすれば大変なのに。忘れて」
僕は自然と足が止まった位置に止まった。彼女はもっと先端に立った。
波が砕ける音がした。
僕は思い出したように訊く。「連れてきたかったところって、海?」
「海というよりこの岬」ノエルはその場でくるりと一回転した。
崖に限りなく近いってのに度胸がある。
「北の岬と呼ばれているこの岬から、身投げしたとされているわ」
「――だれが?」身投げという聞き慣れない単語を耳にして僕の声が硬くなった。
「百年前に罪を犯した二人。人間のダイモンと、天人族のナビア。世間から追い立てられた彼らは、永遠の愛を誓って、ここから一緒に投身した。と、いわれてるわ」
僕は小さい子供がやるみたいに相手の目をじっと見て黙った。何をいっていいのか、どう反応していいのか、わからなかった。
ノエルの話した内容は僕の中には入ってこなかった。百年前に罪を犯した二人。その二人の結末は、書き直しなんてできないほどに、すでに色濃く僕の中に刻まれている。
「レイル島では、どんなふうに伝わっているの」
ちがった様相で伝わっていると気づくのは勘がいい。
「男は、ダイモンは、自刃した。化体族に転化したその日に、領民が見つめる前で、剣を自身に突き刺した。翌日にはダイモンの家族が心中した。天人族だった女性も間もなくして同郷の民に処刑されたと噂が流れてきた。僕たちのあいだではそう伝えられているよ」
「そう」
ノエルはうつむき加減に背を向けた。数秒してから振り返った。悲しげな笑みがほのかに浮かんでいた。
「あたしのところのいい伝えのほうが、物語になるわね」
彼女の口ぶりから推測するに。セスヴィナ領では百年前の出来事は悲恋の物語として、美談めいて語り継がれている部分があるのかもしれない。それは僕には、化体族には、違和感がある。レイル島にはそんな捉え方はない。
顔を横に向ける。ほぼ垂直の切り岸に目を凝らす。足がすくみそうになるくらいの高さだ。もしここから例の二人が飛びおりていたのなら、一溜まりもなかったろう。
「百年も前のことなんて、今さら確かめようがないわよね」ノエルはいくぶん暗い声だった。
「神のみぞ知る。それでいいんじゃないかな」
ノエルは微笑んで「そうね」と答えた。
再び彼女は大海原に向かい立った。姿勢がいい。家柄のよさを存分に知らしめる後ろ姿だ。高貴な衣装からすらりと伸びる首と手。細くて長くて、白い――直下には岩肌むき出しの断崖絶壁。ぞくりとした。あまりの落差。生と死みたいな対照。引きつるような緊張が走った。
気をまぎらすために口を動かすことにする。胸の奥にしまっていた話題を引っ張り出す。
「ねえ」
僕が「け」と発したのと同時にノエルも話しかけてきて声が重なった。言葉が切れた。




