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2:レイル島の領長・オキノ

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 笑う者あれば泣く者あり。走る者あれば転ぶ者あり。出会う者あれば別れる者あり。同じときを刻み、異なる(うつつ)に生を浮かべる。




 ハヤテが自宅前で天を仰いでいる頃、レイル島の長であるオキノは一人、役所の領長室で置き時計を睨みつけていた。文字盤も針も輪郭がぼやけて見えている。オキノの視力が悪いのでない。むしろ彼は高齢の割には目はよく、いつもなら視界ははっきりしている。今彼は時刻を確かめるために目の位置がそこにあるわけではないので不要な情報がかすんでいるのだ。数分前に手元の書物から視線を移したときにはそういう目的が――本来時計を見るにふさわしい動機が――あった。針が思いのほか深い時刻を指していたためにオキノは虚を衝かれ、一瞬の焦りが胸の内にひそんでいた暗雲を呼び起こし、そうして物思いにふけっているあいだ、彼の両眼はその場にとどまっていたのだった。


 ついと瞳が横に流れる。じっとしていることに疲れたのだ。窓に映る自分の姿からオキノは今日が〝月の日〟であると図らずも再認識する形となった。たまに日付を度忘れするも、己の肉体を確認すれば少なくとも〝月の日〟なのか〝太陽の日〟なのかは即座に判明する。


 オキノはカーテンを閉め、今夜もここで夜を明かすことになるだろうと考えた。


 役所に泊まることは珍しくない。ややもすれば幼い島民はここが領長の自宅であると推定する。領長であるオキノ自身、家に帰ったところで何が待ってるわけでもなし、いっそ家財道具を運び入れようかと思っているほどである。


 こつ、こつ、こつ。


 廊下から聞こえ始めた足音が近づき、開けっ放しのこの部屋の前で止まる。


「領長。武器庫に異常はありませんでした」


 報告にやってきたのは初老の事務長。役所で働く者を事務員と呼び、つまりはその長であり、領長を除けば役所で最もえらい人物に当たる。


 事務長の数ある任務の中でも特に重要視されているのが役所付近に粛然とかまえる武器庫の点検。島の治安に関わってくるため管理は厳しく、領長と事務長を含む数名しか武器庫への立ち入りをゆるされていない。


「うむ。ご苦労だったな。お前もシロハゴロモ亭に向かうがよい」


「領長は顔を出されないのですか」


「ムゲンが帰るまで浮かれてはおれん」


 だれが見てもまじめと感じるその顔を渋くさせて事務長は「それなら私も」といいかけた。オキノが途中で遮る。


「客人の歓迎会をわびしくさせてはいかん。わしの分までもてなすように」


 半ば命令のように指示をしたのは狙いがあってのことだった。身分も年齢も上の者を仕事場に一人残して宴に向かうなど、この謹直な事務長には無理難題にちがいなかった。ならば、と。宴に向かわなければならないという使命感をあたえれば立ち去るだろうとオキノは考えたのだ。彼の読みは当たっており、事務長は「わかりました」とむだな気遣いをはさまずに承諾した。そして「彼ならきっと大丈夫ですよ」と残して帰っていった。




 オキノは応接用の長椅子にどっかりと腰を下ろした。大きく息を吐いて後頭部を椅子のてっぺんに乗せる。


 ムゲンなら大丈夫とだれもが信じている。ムゲンという男がそれだけの器を持っている証でもあるが、皆、大丈夫でなかった場合を想像するのが怖いのだ。そんな絶望的な未来は想像すらしたくないのだ。オキノはする。それは領長としての務め、そして彼の性分。感情を横に置いて冷静に思考を巡らせるのは幼い頃からの癖であった。


 腹が鳴った。彼は空腹に気づく。長机の上の弁当箱に手をかけた。一時間ほど前にシロハゴロモ亭の女将のチズルが届けてくれたものだ。独り身が長いために料理はできるも仕事にかまけてつい適当に済ませてしまう。こうやってときどき差し入れをしてくれるのはありがたいことだった。


 齢六十五のオキノは三十年前に妻に先立たれた。子は無し。まわりからは再婚を勧められ、いくつかの申し出や縁談が入ってくるもすべて丁重に断ってきた。亡き妻を忘れられないのだとある者はいう。勝手に作り上げられた美談である。彼は必要となれば結婚はするし、今日までその必要に迫られていないから一人でいるだけの話だった。家族を持たないほうが潜思できる。やるべきことをやれる。すべては政務に集中するため。オキノの優先順位はとっくの昔に完成していた。


 食事を終え、途中まで読み進めていた書物を再び開いた。ふだんの半分も内容を咀嚼できない。現在の状況下では本に集中するのは難しい。




 雑事と休憩をはさみつつ数時間が経過した。何も起きぬまま時計は0時十分前を示している。


 ムゲンが帰ってこない異事に関して今オキノができることは何もなく、しからば就寝するしかなく、せめて寝つけるようにと、気分を変えるために隣の炊事場へいって顔を洗った。冷たい水が気持ちいい。領長室に戻ると、見慣れている長机の上の燭台にオキノはふと目を奪われた。


 三本の蝋燭(ろうそく)のうちの一本が燃え尽きている。消耗するのは当然なのだからそれ自体はどうでもよく、彼が意識を向けたのは残りのほうであった。闇を照らす二つの火明かりが、この島の希望として双星のごとく光り輝く「二者の魂」と重なって見えたのだ。


 二者の魂の片一方がムゲンだ。ムゲンという男の存在がどれだけこの孤島の民衆に希望をあたえていることか。わしの代わりは、とオキノは沈思する。わしの代わりはいくらでもいるが、ムゲンに取って代わる者はただ一人としておらぬ。島民を明るい未来へ導く点において、レイル島の真の統率者といってもいい。この光を失うわけにはいかないのだ。絶対に――。


 そのとき、文字どおりの大地を揺るがす異変が起きた。大岩が落下したような凄烈な地響きが発生したのだ。


「なんだっ!?」


 尋常ではない音と振動はオキノの肝の裏まで伝わった。禍々(まがまが)しい響きの余韻が収まりきらぬうちにランタンを持って外に飛び出す。広場だ。感覚でわかる。オキノは裏庭を走り、広場へ通ずる角を曲がった。


 ぎくりとした。


 闇夜に妖しく光る両の眼。猫より遥かに大きい双眸(そうぼう)だが猫の目線とそう変わらないほど低い位置でぎらついている。オキノは心内に萌芽する不吉な予感をさらに膨らませて近づいた。


 その全貌が明らかとなり、彼は息をのんだ。


「これはっ……」


 地面に腹這いになった翼竜(よくりゅう)。からっ風のような息遣いに合わせて動く大きな体、どのくらい大きいかといえば大形の象と同程度であるが、その大きな体には、血としか思えぬ液体が付着している。黒、赤、紫、茶、などの色を混ぜ合わせた後に黒檀(こくたん)琥珀(こはく)を溶け込ませたような、深々として神秘的であり、見る者の不安をかき立てる色だ。オキノは翼竜の胴部に傷口を発見した。翼竜の血だと確信する。


「なんという……。何があったのだ!」


 オキノは頭上を見上げた。静寂な夜空であった。あまりの物静かさに、今この場で何者かに襲われたという可能性は彼の中で排除された。どこかで痛手を負い、ひたぶるに海を越えて、やっとのことでこの広場に辿り着いたのだと推測する。先ほどの地震のような衝撃は着地のつもりが力尽きて倒れ込んでしまったか。かなりの体力の消耗が窺える。


「水を持ってくる。待っておれ」


 (きびす)を返し、裏庭の井戸へ急いだ。井戸のポンプをつかむ手が震える。オキノは呼吸を整えてポンプを押した。いくら最悪の事態を想定していても、いざそれに近い出来事が目の前に現れれば心が乱れる。


 鐘の音が響いた。一、二、三回。毎日特定の時刻を知らせる鐘。


「0時か……」


 オキノは深呼吸をした。――落ち着いた。腰回りの紐を結び直し、かがんで裾を折り返した。体に合わせて衣服を調整したのだ。彼は半分まで水を汲んだ手桶はそのままにし、裏口から領長室に入った。机に置いてあった水瓶を手に取り、コップに水を注いだ。


 コップを持って広場に戻った。(いわお)のごとき生物の姿はない。その生物が伏していた場所で一人の男がひざまずいている。男の名はムゲン。


「ただ今戻りました」ムゲンが口を開いた。


「うむ」


「西大陸で人間に襲われました。私が至らぬばかりに申しわけございません」


 報告は明るいものでありたいとだれもが思うだろう。残念ながら今は暗い。


「生きて帰ってきてくれて何よりだ」


 島の主導者の言葉にムゲンは黙礼した。そして彼は(かばん)から巻物を取り出し、顔の前に差し出した。


「書状を拝領いたしました。お受け取りください」


 ほお、と縦に(しわ)の入ったオキノの唇から息が漏れた。感心と安堵の息だった。


「さすがだ……。ムゲンよ」


 オキノは巻物を手に取り、身軽になった相手にコップを持たせた。


「飲め」


「頂戴します」


 ムゲンは一気に水を飲み干した。よほど喉が渇いていたのだ。ぐい、と口を拭う太い腕は鍛え抜いてきた日々を物語っている。


「難局に見舞われたにもかかわらず任を全うしたおぬしを誇りに思う。誠に大儀であった」


 この男にしかできぬ。オキノは改めて彼の存在の大きさを思い知った。そして改めて不安がよぎった。


「わしは取り乱してしまってけがの具合をよく確かめておらん。明日になるまで状態はわからんな」


「はい」


「……そうか」


 ムゲンにも把握できていないということだ。あるいは把握している上で「はい」と返事をするしかなかったのか。


「出発が近づいている今になって、このような深刻な事態に陥るとはな」


 オキノはムゲンに背を向けた。


「もし、おぬしが遠征に出られないとなったら……ハヤテに西大陸に渡ってもらわねばならん」


 もう一つの希望の光。ハヤテ。


「渡らせたくはないが、それ以上に成し遂げてもらわねばならぬ」


 ムゲンからの返答はなかった。無理もない、とオキノはやり過ごす。ハヤテに対して一方ならぬ思いを抱いているのは昔から熟知していた。翼竜の血のような複雑な色をした感情がたくましき男の中で渦巻いているのが、老いた背中にひしひしと伝わってくる。


 四十年余り前にムゲンがこの島に生を享けたこと、そしてその後にハヤテがこの島に巡り合わせたことをオキノはいまだに神の恩寵と信じ、日々の懺悔とともに感謝の気持ちを忘れないでいる。――レイル島の長である彼は、すべてうまくゆくと信じ込んでいた。


 彼、オキノは、天を仰ぎ、ぽつりとつぶやいた。


「神よ。試しておられるのか」

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