20:崖の下のノエル 【太陽の日/ハヤテ】
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ようやく晴れやがった。
目が一個だけの気持ちわりぃ石像を見たのは、四日前か。あの日ぐらいからぐずついた天気がつづいていた。度が過ぎる本降りへと発展したのが一昨日。滝のような豪雨が二晩大地を打ちつづけた。激しい雨は俺たちの足を止め、昨日なんぞは丸一日宿屋に閉じこもるしかなく、まったくもって無意義な一日となった。
明けて今日。連日の悪天候が嘘だったかのように太陽が眩しく照っている。道がぬかるんでいるが先へ進めるだけまだいい。
現時点での目的地であるセスヴィナ領,、それ自体は近い。が、セスヴィナの中枢となる区域はセスヴィナ領に入ってからもけっこう距離がある。早くともあと半日はかかる目算だ。こう道の状態が悪くては、今日のうちに着くかは微妙なところだ。
「兄貴ー」
はちまきが後ろから呼びかけてきた。俺とエデンが先頭。次いで荷物を運ぶ姫。それぞれの馬に乗ってケイとはちまきが後尾についている。太陽の日は大概この隊形で移動する。
「次の道を左に曲がってください。右には大きな川があるんで。増水してるはずですけえ」
左手のほうの手綱もどきを軽く引いた。指示どおりエデンは左の道をいく。
龍獣は旅の供として馬に匹敵するほどにふさわしい。「龍獣」という種名の由来となった、龍に似たひげ。ひげというよりしっぽ、しっぽというより鞭のようなそれは、うまいことに手綱代わりとなる。エデンの堂々たる背に乗り、鼻の脇のひげを後ろに回してつかみ、方向転換や停止の命をあたえる。わずかな訓練で俺の意思を汲み取れるようになった。龍獣の潜在的能力は計り知れない。何より俺とエデンは呼吸が合う。東大陸に抜けたらこの相棒を手放すことになってしまうが、こいつにとってはそれが一番いい。龍獣にとっての安息の地は東大陸だ。いくら人間に馴れていても人間社会では生きられない。人間に二度と捕まることなく、東大陸で自然とともに生きろ。
「――ん?」
林道を走行している途中で、不意にエデンの足が止まった。
頭を横に向けている。エデンが見据える先には草木がはびこる細道があるだけ。動物などはいない。取り立てて気を引くものはない。
「おい、どうし――」
声をかけている最中に急にエデンが跳ねた。落下しないよう俺はひげを強く握りしめる。風に殴られたような反動を受けて勢いよく前進し、細道へと入り込む。姫とケイとはちまきがあわてた声を上げるもすぐにそれらの声は遠くなった。と感じている瞬間にもぐんぐん進み、すでにあいつらと互いに気配を感じられないほどには離れてしまった。足早に風景が去る。
「エデン、落ち着け」
手綱もどきを両手で引っ張って停止の合図を送っている。しかしエデンは止まらない。命令を無視して速度をゆるめず突き進む。こんな暴走は初めてだ。
「おい。どうしたってんだ」
答えるはずもなくエデンは地面を蹴りつづける。木々のあいだをすり抜け、ときに水溜まりを踏みしだいて激しい飛沫を上げながら道なき道をいく。もはやどの方角へ進んでいるのかは不明。緑の中をひた走り、しだれた枝葉に体当たりするようにして開けた場所へ出たとき、ようやくエデンの足が止まった。
目の前に広がるのは険しく切り立った大自然の壁。――こんな崖の下になんの用事だ。
エデンが峭壁に平行になるように体の向きを変えた。ハッとした。少し離れた場所に一人の女が立っていた。
髪の長い、白い服を着た女。まあ、当然だが、驚いた顔をしている。俺と歳が変わらないぐらいか。
「クルーノ……」女はエデンを凝視して口を動かした。「あなた、クルーノね」
クルーノ? 名前のつもりか?
エデンの喉が鳴った。
「クルーノだわ。クルーノ!」
女が嬉々として駆け寄ってくる。危険だ、とふだんなら注意喚起するが、エデンから物々しさは感じられず、むしろ喜んでいるから大丈夫だと判断した。俺はエデンの背からおりた。
女は真正面からエデンに抱きついた。
「なんて奇跡なの! あたし、あなたを思ってここに足を運んでいたのよ」
歓喜の声を上げてエデンに全身をあずけている。龍獣に対して恐怖心の欠けらもない。エデンも頬をすり寄せて懐いている。この女は何者だ。
女がはたと睨んできた。「あなたがこの子をさらったの?」
「何?」
「二年前。この付近で。黒いマントの男たちがまだ小さかったこの子を連れ去った」
俺は微妙な変化に気づいた。
「それはあなただったの?」
――! まずい。
「きゃあっ」
女をかついだら悲鳴が上がった。
「何するのよ! あなた人までさらう気!?」
「バカ野郎。崖崩れだ」
崖から小石がぱらぱらと降ってきている。おとなしくなった女をエデンの背に乗せ、俺も飛び乗り、エデンの脇腹を蹴った。エデンは疾走する。背後から湧き起こった飛瀑のような音が加速度的に大きくなる。音に追いかけられてる感じさえする。前兆が現れてからすぐにきたな。
俺は後ろを振り返った。急斜面の表層が雪崩れている。岩も木も滑り落ちてゆく。砂塵が舞う。なかなか見応えのある変災じゃねえか。大雨の影響だな。
距離を稼げたところでエデンから飛びおりた。生き物のようだった自然の脅威は鳴りをひそめた。出遅れたといわんばかりにいくつかの小石がせかせかと転がり落ちる。
「止んだか」
何もなかったかのように静まった。女はエデンにまたがったまま茫然と騒乱の跡を見つめている。無理もないか。少し前まで立っていた場所が土砂や木やら石やらで埋まってるとなれば。
「悪かったな。バカなんていって」
女は目と眉を上げた。夢から覚めた、みたいな感じだった。
「いいえ。助けてくれてありがとう」
黒いマントの連中が連れ去ったと息巻いてたな。この女のいうクルーノってのはエデンでまちがいない。
「こいつはハーメット領の福耳団に捕らえられていた。檻から出して今は一緒に旅をしている」
「そう、だったの。……失礼な疑いをかけてごめんなさい」
女が地面におりるのに手を貸した。
「ありがとう」
白い服が汚れている。足元も泥だらけだ。馬は見当たらないし、徒歩でほつき歩いていたようだな。
「あたしはノエル。あなたは?」
「ハヤテ。こいつの今の名前はエデンだ」
「そう。素敵な名前を付けてもらったのね」
やはりエデンを触るその手つきがこなれている。
「飼い主だったのか」
「いいえ。この子は野生の龍獣だもの」
「こいつは急に進路を変えてここまで駆けつけたんだ」
「……そうだったのね。うれしいわ。ありがとう」
感無量の様相でエデンを愛でる。エデンは目を細めて上機嫌そのものだ。
「友達だったの。クルーノ……エデンが子供だった頃、よく遊んでいたわ。エデンは親とはぐれて、この人けのない森に迷い込んでしまっていたみたいね。あたしは散歩中に偶然この子を見つけて、すぐに仲よくなったわ。それこそ家で飼おうかとも思って、そうね、本気で思い始めていた矢先だったわ。いつものように会いにきたら、黒いマントの集団に縄で縛られて運ばれているのを目撃したの。エデンはぐったりとしてた。血は流していなかった。なんらかの方法で気絶させられたのよ」
毒矢だな。俺の体に食らわしやがったあれにちがいない。
「エデンを助けるために飛びかかろうとしたわ。でも、その日たまたまついてきていた友達が、危険だからとあたしを草陰に押さえつけたの。エデンは連れていかれてしまった。とても落ち込んだわ。あの子を飼ってあげてればって自分を責めた。あたしを守ってくれた友達のことまで当時は責めちゃってたわ……。それからはここに足を運ぶことができなかったんだけど、ふと、今日になってエデンと出会ったこの場所を訪れたくなったの」
「きてみたら久々の再会を果たしたってわけか。出来すぎた話だな」
「でも事実よ。会えるとは思ってなかったけど。それも今日だなんて、神のご厚情かしら」
「今日は何かあるのか」
「今日は特別な日よ。この子と再会したとっても特別な日。になったわ」
煙に巻いたな。別にかまわないが。
「とりあえず移動したほうがいい。崖の近くにとどまる利点はない」
「そうね」
「道はわかるか」
「ええ。何度もこの子に会いにきてたからこの辺は詳しいわ。――そうだわ! 洞窟にいってみない?」
「洞窟?」
「この子が住処にしてた場所なの。この子も喜ぶわ。こっちよ」
返事を聞く前に動きだした。
「そこも崩れたらどうするんだ」
「そんな柔な洞窟じゃないわ。ちょっと歩くけど、そう遠くないから大丈夫」
エデンを率いてすたすたと歩を進める。強引な女だ。
鼻歌を歌う後ろ姿を眺める。ケイと同じ栗色の髪だ。身長も男のときのケイと同じくらいあるな。女にしては高い。荷物は腰に吊るされたごく小さい袋のみ。武器は所持していない。身軽な上に一人でこんな人けのない森にいたのか。
「お前は」
「ノエル」
「……ノエルは、こんなところで何をしていたんだ」
「散歩よ。やっとざんざん降りの雨が晴れたんだもの」
激しい雨の後に崖下をうろつくなんざバカかてめえは。と、野郎相手だったらいっていた。
「ハヤテは旅をしているのよね。故郷はどこなの?」
そのうち出る質問だとは思っていた。
「忘れた」しらばっくれる。
「何それ」ノエルがおかしがる。「でも、いいわねそれ。いい答えだわ。どこの人間かなんて関係ないわよね」
人間ならばな。半人種は単に明かせないだけだ。
林道を歩いている最中、ノエルが「あら」と口にしてしゃがんだ。
「あたしの大好きな花だわ」
そういって紫色の花を摘んだ。
「雨に負けなかったのね」
エデンが地面に鼻をすりつけた。何か落ちていたようだ。旧友に再会してからは猫のように穏やかだな。エデンを見ていたら、目の前に紫の花が差し出された。
「いい香りがするの。嗅いでみて」
香り――。例の香を思い出す。ハーメット領の怪しげな通りで嗅いだ、天目香とかいう香。あのにおいの記憶をよみがえらせただけで軽く船酔いしたような気分になってきやがる。あれ以来強い芳香を発する物は虫が好かなくなっているが、たかがにおいに心身を支配されるのは癪だ。
花に顔を近づけた。天目香とはまったくちがう種のにおいがする。
「ね。いい香りでしょ」
「悪くはない」
相手と目を合わせた。すぐに目線は流れるはずだったが、妙な違和感を覚えて俺は釘づけになった。ノエルの、日の光のまとい方がちがう。ふつうの人間よりも多くの光が注がれているかのような。清明、というのか。
肌が白いのか。それもあるが、目の色か。奥深くどこまでもつづいているような、透き通った茶色い瞳。珍しい色調だ。見てしまう。見すぎていることに気づく。相手は目をそらさない。互いに無言のまま突っ立つ。
視線が外れたのは遠くから馬が駆ける音が聞こえたからだった。人間の、女の声も聞こえてきた。何か大声を発している。
――さま。のえるさまー。
ノエル様? ノエルを探しているのか?
「おい。あれは――」
ノエルが俺の腕にしがみついた。「ハヤテ。あたしをどこか遠くに連れてって」
早口でいい立てた。真剣な表情をしている。
「悪い奴らに追われてるの。捕まりたくないの」
悪い奴らの気配はしないが。馬一頭に人間一人だけの気配。そしてその人間が出している「ノエル様」という呼び声は、心配している声だ。
「お願い、ハヤテ!」
近くなったり遠くなったりを繰り返す馬の音と人間の声。
俺はノエルをエデンに乗せた。俺も後ろにまたがり、エデンを前進させた。




