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1-3:ハヤテの家族

「ユリア。そういうのは詮索するものじゃないよ」


 母さんが声を出さずに笑った。「ありがとうハヤテ。でも大した理由はないのよ。ちょっと、今の女将と若い頃にけんかまではいかないけれど、そんなふうになってしまったことがあって。今でも少し気まずさはあるから、あまり当時について語りたくなかっただけよ」


「ふうん。だから女将もママのことは何もいわなかったし訊いてこなかったのね」


「何もいってなかった……。そう……」


 母さんはまぶたが重くなったように目を伏せた。それがどういう感情を孕んでいるかは不明瞭だった。女将さんが何もいってなかったことに落ち込んでいるようにも見えるし、安堵しているようにも見える。もっとも前者と捉えるのがふつうで、後者のような見方はあらかじめ情報を得ているからこそともいえる。


 僕は知っていた。シロハゴロモ亭の女将さん――たしか名前はチズルさん――は昔、父さんに好意を寄せていたのだ。しかし父さんはいつの間にか(()()()()()()()()()()いつの間にか)、チズルさんの僚友であった母さんと結婚していた。


 その話をケイの両親がしていたのをケイが偶然立ち聞いてしまったらしい。ケイは僕だけに教えてくれたのでユリアはこの事実を知らない。母さんからすれば僕も知らないと思っているだろうし、子供たちには知られたくないものだろう。だから、チズルさんがユリアに余計なことを話さなくて、母さんは安心したんじゃないだろうか。


「シロハゴロモ亭のご馳走もいいけれど、パパ、せっかくのシチューが食べられなくて残念よね」ユリアはそういいながら皿を手にして立ち上がった。「お兄ちゃんは、おかわりいる?」


「僕のは大盛りだったから大丈夫だよ」


 ユリアは台所の鍋へと近づいていき、うれしそうに二杯目を盛りつけ始めた。母さん手製の根菜シチューは家族みんなの好物なのだ。


「ユリア、食べすぎないでよ。明日のハヤテたちのご飯でもあるんだから」


「わかってるわよ」


「ハヤテ。明日の夕飯はシチューを温めて食べなさいね。戸棚にパンも入っているからね。朝はいつものとおり果物でもなんでもある物をつまんでちょうだい」


 僕は計三回うなずいた。


「明日も家のことを頼んだよ。いつもすまないね、ハヤテにばっかり面倒かけて」


「とんでもないよ。当然のことなんだから気にしないで」


 母さんが目を細くして微笑んだ。「本当に、ハヤテがいてくれてよかったわ」


「やあねえ。何しみじみとしてんのママ。島にお客さんがやってきたにぎやかな夜だってのに」新しくシチューを注いだ皿を自分の席に置きながらユリアが茶化した。


「ハヤテがあと二十日もすれば遠征に出るからよ」


「ふうん」ユリアが椅子に座った。「でも、毎年この時期はそんな感じに見えるけど?」


 母さんが一瞬止まった。僕は目玉だけでなく顔ごと母さんのほうを向いた。


「何がよ」


「正確にはマルコスおじさんたちが来島しているあいだ。そのあいだママはふだんとちがって神妙に見えるわ、毎回」


 僕は今までそんなふうに感じたためしがなかった。正直、昨年の今頃に母さんがどんな様子だったかは覚えていない。記憶に残っていないくらいだから僕にとってはふつうに見えていたのだろう。そんな中でユリアは引っかかる部分があったらしい。彼女はときどきハッとするような盲点を突く。女性の勘というのか、野生の勘というのか。


「私自身はそんなつもりはないわ。あなたの思い過ごしでしょ」母さんがあっけらかんと抗弁した。


「そうかしら。まあ、たしかにママが神妙になる理由は見当たらないけどね。マルコスおじさんたちとなんにも関わりがないんだし」


 ユリアは直感型であって思考や理論に頼るタイプではない。物事をごちゃごちゃと考えない。だから母さんの様子が変だと感じたとしても、そこを深く掘り下げてみたり原因を推理したりはしてないはずだ。沈思する暇があるならば相手に訊きたいことを訊いて答えを引っ張り出す。外向的で竹を割ったような性格なのだ、妹は。


「ユリア、あなたのほうこそふだんとちがうじゃないの」母さんが反転攻勢に出た。


「何がよ」


「ハヤテの遠征に関してよ。いつもはお兄ちゃんお兄ちゃんいうくせに今回はやけにさっぱりしちゃって。しばらく離れることになるのに寂しくはないの」


 おかわりしてからまだ一口も手をつけていないシチューにユリアは目を落とし、まるで汁に答えでも浮いていたかのようにすぐに視線を上げて「それは」と口を開いた。「あたしが大人になったからよ。レイル島の命運がかかってるんだもの。寂しいだの寂しくないだの抜かしてる場合じゃないわ」


 僕は思わずうなった。「驚いた。ユリア、本当に大人になったみたいだね」


「でしょお兄ちゃん。……あ、でもまだ大人じゃない。体も成長させなきゃ。ケイに負けないためにも食べよっと」


 ユリアはスプーンをつかんで再びシチューを食べ始めた。こういう素直さは子供みたいだなと微笑ましく思った。




 みんな食べ終えたところで母さんがユリアに話しかけた。


「ユリア。これからの身の振り方についていい加減に考えはまとまったの」


 少しだけ声が尖って聞こえた。僕は二人の中間あたりに視線を置いてそれぞれの表情がわかるようにした。


「まだ決めてない。一週間前に学業が修了したばっかりよ。()かさないでよ」


「早い子はすでに働き始めているのよ。迅速に行動するに越したことはないわ。アズミさんが絨毯の織り方を学びたければいつでも教えてあげるっていってくれてるじゃない。ありがたく教えてもらいなさい」


「それは嫌」


「どうして。大公にも献上している名産品をこしらえるなんてとても素晴らしい仕事よ」


「本人にやる気がなければ意味がないでしょ。あたしはやりたいことをやるの」


「あなたのやりたいことって何」


「だから前からいってるじゃない。あたしは――」


 世界をこの目で見たい。今朝のユリアの言葉がよぎり、僕はとっさに止めなければならないと思った。その類いの願望を口にしたら母さんの腹の虫を刺激してしまう。僕はテーブルの下でユリアの手の甲を握りしめた。と同時にユリアは勢いづいていた主張をぴたりと切ってくれた。


「……『あたしは』、何?」


 母さんはいやに冷静だった。その後につづく語を何がなんでも聞き出してやるという意志が目に表れていた。どうか同じ舞台に上がらないでくれ、とユリアに触れる手に力を込めた。


「あたしは、お兄ちゃんと結婚する」


 予想外の回答に僕の首は鶏並の素早さで横に振り動いた。ユリアは真っすぐに母さんを見つめている。ちょっとびっくりしたけどうまいはぐらかしではある。


「そんなこと、前にいってたかしら」


 まじめに取り合う感じできたか、と僕はだれにも気づかれない程度に唇を噛んだ。こんなの冗談だって母さんもわかっているはずなのにおちゃらけた方向に持っていかないのは、そこまで今の心の状態が愉快じゃない証拠だ。


「あら、いつもいってるじゃない。お兄ちゃんが好きって」


 この場に流れる空気を変えたかったから、僕は努めて明るく「ありがとう」とお礼を告げた。


 母さんがため息をついた。「おふざけはその辺でいいわ。どうせまた島の外に出たいとかいおうとしてたんでしょ。それをハヤテに止められたのよね。ハヤテの腕の動きでわかっていたわよ」


 気づかれていたのか。僕はユリアから手を離した。


「島の外に出るなんて御大層な夢見てないで、現実的に物事を考えなさい」


「夢どころかすぐに実現する日がくるわ。だって遠征が成功すれば実現するじゃない。それともママは遠征が成功しないとでも思ってるの? お兄ちゃんたちを信じてないわけ?」


「そういう問題じゃないの。私がいいたいのはもっと身近なものに目を向けなさいということよ」母さんは空っぽになった皿を重ねながら「それから」とつづけた。「わざわざ言及するまでもないけれど、あなたたちは兄妹なんだから結婚は無理よ。冗談でもそういう禁忌に抵触する発言はしないでちょうだい」


 母さんは立ち上がり、食器を持って台所へと歩きだした。皿と皿がかち合う音がする中、ユリアがぽつりとつぶやいた。


「ママはことごとく縛りつけるのね」


「え? 何かいったかしら」


「なんでもないわ。こっちの話よ」


 ユリアが独り言で済ませずに僕に同意を求めるように語りかけてきていたならば、僕は「ユリアを想ってだよ」と返していた。つまりうなずきはしないけど、否定もできないんだ。


 僕の勘だ。母さんが絨毯織りの仕事を勧めるのはユリアを自分のそばに置いておきたい私情が絡んでいる気がしてならない。


 遠征が成功したら僕たちレイル島民はあらゆるしがらみを脱ぎ捨てて西大陸へ飛び出すことが可能になる。当然ユリアは島でじっとしているわけがない。世界を見たいという願望を叶えるために勇往邁進する姿が目に浮かぶ。彼女を食い止めたいならば今のうちに手を打っておく必要があって、その布石となるのがアズミさんに絨毯づくりを教わることなんじゃないかな。アズミさんに弟子入りすれば、途中で仕事を放棄して島の外に出るなんてできなくなるのだから。


 しょせん推測に過ぎないけれど、推測は根拠となる要素があってこそ。ユリアが感じているように「縛りつける」要素が母さんの中に潜在している。と、僕は思っている。僕はその片鱗を垣間見るたびに、胸の奥に薄雲のようなものが立ち込める。


 母さんは皿洗いを始めた。ユリアは習慣となっている手伝いをせずにさっさと部屋へ引っ込んでしまった。そのことに触れずに黙々と流しに向かって水仕事をしている母さんの背中がうら寂しい。


「手伝おうか」


「いいのよ。こんなことまでハヤテにさせられないわ。ありがとう」


 僕は台所の壁棚に積まれたナッツを一個つまみ、新鮮な空気を求めるようにして外へと出た。暮夜の中、シロハゴロモ亭がある方角を見やる。


 父さんやマルコスさんたちはさぞかし愉快な夜を過ごしていることだろう。お酒好きの近所のお爺さんや、ケイのお父さんも、絶対参加してるだろうな。酔っ払った大人たちの陽気な笑い声が今にも風に乗って聞こえてきそうだ。今夜、澄んだ風を感じられるほどに寂寞としている場所は、レイル島ではここだけかもしれない。


 ふと透明な糸で胸を釣り上げられたような感じがして、空を見上げた。


 ――ムゲンさん。まだ帰ってきてないんだろうか。

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