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16-3:ケイの秘めた気持ち

 開けた平地に出た。ベロックさんから「一休みしよう」と声がかかった。


 山に入ってちょうど一時間くらい。祭祀場までの中間地点としていつも足を休めている場所なんだろう、簡易的に作られた長椅子が四脚、登山者を待ちかまえるように据え置かれていた。


 日光を避ける体で、皆の輪から離れて木陰に座った。本当のところは気持ちが上ずってしまっているのを知られたくないための退避だ。指先に残ってる陶器のような感触。まぶたの裏に焼きついているきれいな背中。さっきの出来事の名残に気を取られてるなんてだれにもバレたくない。


 きゃはは、と朗らかな笑い声。エデンの背に反対向きに乗って遊んでる。人の気も知らないでお気楽なもんだ。


 リャムが近づいてきた。「邪魔かえ」


「いいや」


 リャムはおれの隣に腰を下ろした。蝶が目の前を横切る。


「笑顔は可愛いっちゃね」


 リャムの視線の先はユリアだった。


 本当に。わがままで生意気で可愛くないときも多々あるけど、そういうのを一瞬で吹き飛ばすくらいの天性の愛くるしさが、あの笑顔にはある。ずるいよな。


「ケイがハマってしまうのもわからなくはないき」


「……え?」


 ざわっと木の葉が揺れる音を感じた。実際に揺れたんだろうか。案外自分の胸が作り出した空音だったのかもしれない。


 リャムの言葉を待っていたら、それに気づいたのか、しゃべる前兆を備えた顔――たとえば唇をわずかに開けるなど――をおれに向けた。


「惚れとるんじゃろ」


 唇が一つの生き物のように動く様を、新種を発見したみたいにおれはじっと見ていた。


 惚れとるんじゃろ、って意味は当然理解できるはずなのに、おれはうまく咀嚼できないでいる。昔、体格がよくていつも元気だった近所のおじさんが突然病気で亡くなる出来事があった。おじさんの死を告げられたときと今と、状況はまるでちがうけど、頭の働き具合は一緒だ。


「自分では気づいとらんかったか」


 我に返った。よっぽど呆気にとられた顔をしていたかもしれない。


「いや。だれかに指摘されたのが初めてだったから、少し驚いただけだよ」


 ハヤテにもだれにも打ち明けたことがなかったのに。たった数日で見透かすなんて。鋭い奴、は悔しいから目ざとい奴と評しておく。


「じゃあ、当たってるんじゃね」


「そうだな」


「いつからかいね」


「……二、三年ぐらい前だったかな」


 こういう話は慣れてないけど、実はだれかに聞いてもらいたい気持ちもあった。ようだ。


「おれ、その前は別の女の子に憧れてたんだ」


「ほう」


 いいやもう。いっちゃえ。胸の奥にしまってたおれの秘話。


「その女の子はある男と恋仲になった。のちに夫婦になって今彼女は身ごもってるんだけど、当時は二人が友達以上の関係になるなんて意外でさ、正直いうとちょっと腹が立ったりもした。でも結局彼女はおれにとって『憧れ』だったし、そもそもおれが入り込む隙なんてなかったし。すぐに吹っきれたんだ」


「へえ」


 ミミ、ルイ。今ではお似合いだと思ってる。祝福してるよ。


「そんな一つの区切りがついた頃にさ、ふと、突然だったんだ。小さなガキとして扱ってたあいつが、急に、大人っぽく見えたことがあったんだ」


 初めてユリアを女として意識した瞬間を鮮明に覚えてる。夕暮れの海で一人たたずんでいるユリアを見つけて、おれは背後から名前を呼んだ。ユリアが振り返ったときに潮風で髪がなびき、その顔が夕日でこがね色に輝き、そして真っすぐおれを見据える目がえもいわず精悍だった。一連の動作がしなやかで凛として、金色の光をまとっていたあの瞬間は、神々しささえ感じるような超俗的な美があった。


「その頃からあいつのしゃべり方も変わってさ。あいつ、前は自分のこと『僕』って呼んでたんだ。ハヤテを真似て。ひどいときなんか『俺』を使ってたときもあった。男みたいな奴だなと思ってたのに急に女っぽくなったもんだから、意外な一面に……なんというか……」


「その差にやられたんじゃろ。よくある話じゃ」


「そうなのか」


 単純すぎる理由だから笑われるかもしれない、と萎縮する寸前だった。


「気持ちは伝えたんかえ」


「まさか」おれは強めに否定する。「さっきの虫取り事件でわかったろ。あいつはおれを男として見てない。この姿のまんま、そのまんま、あいつにとっておれは女なんだよ。女が女に告白するかよ」


「してもいいじゃろ」


「……男として見られてないのは仕方ないって思いもある。ハヤテみたいな奴が一番近くにいたら、おれなんか男に見えなくて当然だしさ」


 ふん、とリャムがまろやかに鼻を鳴らして微笑む。「兄貴に勝ちたいんか」


 おれは少し考えをまとめてから口を開いた。「遠征に出始めのときはさ、気分が高まってたのもあってハヤテを追い越せるようになりたいなんて夢見ちゃってたよ。でもこうやって知らない地を歩き回ってると、改めてあいつの凄さに気づかされるんだよな。龍獣を服従させて福耳団を制圧したときに、あ、こいつには敵わないんだって思い知らされたよ。だから『勝ちたい』はちがう。あいつと、そうだな。肩を並べられるようになりたい」


 それだったらいつか叶う日がくるかもしれないから。


 リャムがおれの背中を叩いた。「現状をすべていい意味で捉えたらええ。恋敵が兄貴っちゅうことは好きな女を奪われる心配はないっちゅうこっちゃ。兄妹での恋愛なんてこれはこれで禁忌じゃ」


 おれはうなずいた。もしそんなことが起きてしまったら、神から罰を受けることはないとしても、世間がゆるさない。奇人扱いされ、のけ者にされ、一生白い目で見られる。


「ぜひとも神に会って人間にしてもらわなきゃいかんね。今のままだったら女同士。ケイが男のときは向こうは馬。どうこうしようにもどうにもできん」


 どうこうの部分は具体的には訊かないでおく。


「おれさ、昔は人間に戻ろうが戻らまいがどっちでもよかったんだ。それが、自分の気持ちに気づいてから、完全な男になりたいって、人間になりたいって思うようになったんだ。大人になればだれしも人間になりたくなるものだってレイル島ではいわれてるんだけど、こういうことかって腹落ちしたよ――と、ここまでだ」


 ユリアがこっちに向かって歩いてくる。おれたちは会話を切り上げた。


「ユリア。どうかしたか」


「はいこれ。領長が飴をくれたわよ」


 すっと差し出した手のひらの上に四角い飴が二個。わざわざ持ってきてくれたのか。


「ありがとう」


 おれが二個取って一個をリャムに渡した。さっそくいただく。甘くておいしい。


「あんたたち、さっきからずっと二人でいるわね」ユリアが手についた砂糖を払い落としながら怪訝そうにいってきた。


「話してただけだ、いろいろと。東大陸のこととか」おれはちょっとしどろもどろする。


「話題が尽きんくての。うらは日頃福耳団であちこち歩き回ってる分、いろんな情報を持ってるんじゃ。胸をデカくする方法を知りたけりゃ教えてあげるっちゃね」


 ……またそういうことをいう。


「最低ね」ユリアは冷ややかにいい放って踵を返した。


「一つ質問があるけえ。馬姫様は」とリャムがいいかけたところでユリアが振り向き、「だれが馬姫様よ」と反感を示した。「ユリア様は」とリャムが訂正したら、つんと取り澄ましながらも話を聞く姿勢を見せた。


「なんでそんなに兄貴のことが好きなんかえ」


「とっても優しくて強くてかっこいいんだもの。当然でしょ」


 用意していたかのようにすらりと言葉が出てきた。夜は暗くなるもんでしょ、ぐらいの調子でいいきったな。おれは一人っ子だからあくまで外から見た推察になるけれど、きょうだいって、特に若いきょうだいって、自我を知っていく上で最も身近な比較相手になるから、たとえ肉親としての情があったとしても、あんまり好きとかどこが優れてるとか思わないものなんじゃないのかな。歳の近い肉親をここまで敬慕してるのはまれなことに思える。


 ユリアは自分自身の回答に満足そうにしてから、そのまま得たり顔をくるりと裏返して、ハヤテたちが集っているほうへと戻っていった。


「お前な。おれを落ち込ませたいのか」おれは冗談でリャムを責める。


「照れるかと思ったんじゃ。それが臆面もせず。悪かったけえ」


 照れるかと思った、か。ふつうそうだよな。


「まあ、優しいもんな、ハヤテ。強いもんな。かっこいいもんな」


 ハヤテはエデンのたてがみを手で解かしながら、及び腰になってるベロックさんとトンピーさんに向かって何やら語りかけている。この龍獣はいい子ですよ、とでもいい聞かせてるのかな。再三になるけど龍獣を手懐けるってすごいよな。たしかにあんな兄貴がいれば気後れすることなくみんなに自慢できるよな。


 おれだってハヤテのことを誇らしく思っている。誇りに思うものを嫌う理由はなく、つまりおれはハヤテが好きだ。ユリアがどれだけハヤテを敬愛してるのかは測れないけれど、おそらくユリアに負けないくらいおれは、ハヤテが好きだ。


 ユリアを初めて意識した日、あの夕暮れの海の振り向き様、あのときに、ユリアのきりっとした貴いたたずまいがハヤテと重なった。


 ユリアの魅力はたくさんある。可愛い容姿、天真爛漫で素直なところ、男勝りでばか正直で怖いもの知らずな面。ただ、おれが最も魅了されているのは、理屈じゃない、外見とも中身ともつかないそこはかとない部分。ハヤテから影響を受けて、ハヤテの魂の片影を帯びている、あのたたずまいなんだ。詰まるところ、おれが惚れてるのはハヤテの魂なんじゃないかって、そんなふうに考える日もあった。


 おれは男。一日置きに女の姿になろうが心はいつだって男。だからハヤテに対する好意にはもちろん性的な欲は含まれていない。性的な欲がないからこそ、あるいは神聖さを感じる。


 おれにとってハヤテは、恋敵めいた相手であるし、憧れのような存在であり、神聖さを含んだ好意を寄せる人物であって、なんだかとてもやけに、その存在感はおれにとって大きい。

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