1-2:西大陸からの船
領長の仕事場であり自宅と呼んでもいい役所は、港からいくぶん離れた場所にある。ときに領長は島の反対側にあたる北部まで赴いて不在にしていることもあるが、今日はマルコスさん一行が来島する日なので朝から夜まで役所内にとどまっているのは確実だ。
僕たちは横に長い役所の建物をぐるりと回り、裏口の前に着いた。ここは領長室への入口になっている。本来なら正面玄関から入って事務員さんに取り次いでもらわなければならないけれど、僕とケイは領長を訪れる機会が多いのもあって、直接会いにいくのをゆるされている。
僕は扉を叩いて「ハヤテです」と告げた。「入りなさい」と声がしたので扉を開けた。領長は応接用の長椅子に座っていた。いつものようにぴしっと整えられた隙のない身なりだ。
「ごきげんよう領長」
「ユリアもやってきたのか」領長が顎ひげをなでていった。
「領長。マルコスさんの船が見えてます」僕は伝えた。
うむ、と領長はゆっくり腰を上げた。「早かったようだな。迎えにいくとするか」
「会合も大事だけどまずはお客さんであるマルコスさんたちを優先しないとな」
ケイの何気ない発言に領長の顔が真剣さを帯びた。
「ハヤテにケイ。呼んでおらんがユリアも。せっかく足を運んでもらったが今日の会合は無しだ」
えっ、と三人同時に驚いた。僕とケイは間もなく始動する遠征について話し合うために役所にくるよういわれていたのだ。
「何かあったんですか」僕は尋ねた。
「それが……今の時点ではなんともいえんのだ。すまんが明日またきてくれぬか」
「えー? 明日ぁ?」
響いたのは妹の高い声だった。
「ユリア、お前はくる必要はないのだぞ」
「逆よ。きたいの。明日だったらあたしは同席できないわ。明後日なんてどうかしら」
「これは遊びではない」領長はぴしゃりと撥ねつけた。「ハヤテにケイよ。もしかしたら明日も会合を開けないかもしれんが……一応訪ねてくれるか」
「もちろんです」と僕は返した。
「それはかまいませんが、なんか気になるなあ」
「ケイ、余計な心配はせんでよい。わしの杞憂かもしれんからな。――さて」領長は声の調子を高くした。「マルコスの到着だったな。船着き場へと参ろうかの」
領長は上着を羽織って帽子を被った。壁の鏡をのぞき込み、ひげと眉毛を指でちょいちょいと直してから、上を向き、左右に顔を動かし、そして鏡に向かってニッと歯を見せた。島の外からの客人と会うものだから、いつもより身だしなみの確認が念入りだった。
僕たちは外へと出た。役所の裏庭に一匹の白い犬が迷い込んでいた。
「ん? 鍛冶屋のサスケの次男坊かの」すかさず領長が見当をつけた。
「いえ。ルツァド先生の飼い犬ですね。首輪を装着しているので」
「おお。そうか」領長は少し恥ずかしがりながら帽子の下の白い頭をかいた。
島民か、動物か。まちがえてしまうのは、この島ではよくあることだ。
港には早くも島の男たち数人が寄り集まっていた。彼らはロープを係船柱に引っかける準備に取りかかっていた。ちょうど船が接岸するところだったのだ。領長と僕たち三人は島の男たちが集まっているほうへと駆け寄っていった。
船上では船員さんたちが声を出しながら忙しそうに動いている。その中で一人甲板にたたずみ鷹揚に手を振るマルコスさんの姿が見えた。僕たちは笑顔で手を振り返した。
船の所有者であるマルコスさんは西大陸の東部に住まう商人だ。年に一度ここレイル島に交易にやってくる。マルコスさんからは本や嗜好品を中心に、島では入手できない物などを届けてもらう。レイル島は絨毯を納入する。秘伝の製法で織られるこの島の絨毯は高く評価されていて、西大陸の最高権威である大公に献上するほか、貴人や裕福な層からも絶え間ない需要がある。
大型の船がおもむろに着岸した。僕はズボンのポケットから懐中時計を取り出して時間を確認した。十時を過ぎたばかり。例年より早い。
それにしても近くで見ると本当に大きい船だ。おそらくマルコスさんは遣り手の商売人なのだろうが、気取ったりえらぶったりする部分がない。僕からすれば気のいい内地のおじさんだ。レイル島民から好かれているおじさんだ。
そのマルコスさんが下船してきた。「今日は〝月の日〟だったかー」
柔らかみのある顔の輪郭をにこにことさらに丸くさせながらこちらに近づいてくるマルコスさんに、僕とケイは「はい」と返答した。
「マルコス。遠路はるばるご苦労だったの」
「オキノ領長。ご無沙汰ですー」
「今回は少しはゆっくりできるのか」
「ええ。たっぷり暇をもらってきましたー。一週間ほど厄介になってよろしいですかいー」
「もちろんだとも。遠慮せずにくつろいでくれ。ではちょっと失礼する」
そういって領長は歩き始め、船の中へと入っていった。毎回船員さんたち一人一人と挨拶を交わすのが領長の恒例儀式になっている。
領長の後ろ姿を見送っていたマルコスさんはくるりと振り返って僕たち三人を順繰りに一瞥した。
「前回は時間がなくてお前さんたちとは会えなかったから、およそ二年ぶりになるなー。みんな成長したじゃないかー」
マルコスさんの語尾を伸ばす独特のしゃべり方は島の少年少女たちのあいだで一時期流行した。
「ハヤテ。背が伸びて男っぽくなったなー。骨組もさらにしっかりしてきたー。いくつになったんだー?」
「十七歳です」
そうかそうかとマルコスさんは頭を数回上下させた。ケイと僕が同い年で、妹のユリアが二つ年下なのはマルコスさんは承知しているから、僕の年齢を聞いただけで自然と全員分の年齢がわかったことだろう。
「ユリアとケイはますますめんこくなってー」
「マルコスさん。それ、おれにとってはうれしくない……」ケイが顔を引きつらせた。
「ははは。すまんかったなー。けれど『めんこい』は女の子にとって褒め言葉だぞー」
ケイが何かいおうと息を吸ったが、先にユリアが声を発した。
「おじさん! あたしとケイ、どっちが成長した?」
「んん」マルコスさんは目を大きくした。「ユリア。『あたし』といえるようになったかー。以前はハヤテを真似て『僕』や『俺』と呼んでいたがー」
「ママが男言葉は使うなってうるさいんだもの。それよりあたしとケイ、どっちが成長してる?」
やれやれ、とつぶやくケイの横でユリアはこれから一つ剣術の打ち合い稽古でも始めるような気合いの入った顔つきをしていた。
「両方ともめんこく成長してるぞー」マルコスさんは顔をほころばせながら答えた。
「何それ。つまんない」ユリアはくるりと僕のほうに向きを変えた。「お兄ちゃんはどう思う」
悩む質問ではない。
「二人とも強く成長してるよ」
ユリアは息を吐いた。「どっちかを選ばないと思った。お兄ちゃん優しいから」
「よかったなユリア。一番いい回答じゃないか」ケイが朗らかにいった。
「どこがよ」ユリアは腰に手をあて、人差し指を突き出した。「ケイ。あんたには絶対負けないんだから」
挑み顔のユリアと呆れ顔のケイをよそに、マルコスさんがこそっと話しかけてきた。
「えらいぞー。差をつけないのが大人の嗜みってもんだー」
どちらかに気を遣ったわけではなく本心だったのだが、後学のためにその教えを頭の隅に置いておこう。
「それにしてもおじさんの船は大きいわよね」ユリアの関心の的はすでにほかに移っていた。切り替えの早さが彼女の持ち味だ。「おじさんの船がクジラだとしたら、島にある船なんて、さながら稚魚ね」
マルコスさんは優しく笑い、クジラと評された対象物に視線を注いだ。「こんなの小さいもんだー。世界にはもっとデカくて豪華な船がたくさんあるぞー」
「へえ」ユリアの目がきらりと光った。
まだ見ぬ世界に大きな想像が膨らんだんだろう。ますます島の外に出てみたくなったにちがいない。マルコスさんの船だったらユリアも余裕で乗船できるな、と僕は思った。
領長が船員さんたちとの挨拶を終えて僕たちの近くに戻ってきた。
「オキノ領長。さっそく積荷を運び出したいのですがー」マルコスさんが切り出した。
「よし。島の男たちに手伝わせよう。ハヤテも協力してくれ」
「はい」
「あたしもやるわ」
「おなごはだめだ。ユリアだけ特別扱いするわけにはいかん」
「ケチね」
「ケイも今日は手伝わんでよろしい。このおてんば娘をどこかへ連れていってくれ」
「領長、何よそのいい方」
ぶうたれるユリアの腕をケイが引っ張った。
「いいからユリア。ほらいくぞ」
ケイが強引に連れ去る形で二人はいなくなった。
「相変わらずユリアは元気ですなー」マルコスさんが笑いながらいった。
「元気というかなんというか。〝月の日〟で一番のお騒がせ娘だからのう。片や〝太陽の日〟で一番引っかき回すのが……」
領長は僕にちらりと視線をよこした。
「この兄妹には手を焼かされるわい」
からかいではあるが事実でもあるので僕は決まり悪くうつむいた。マルコスさんが声を出して笑った。明日の〝太陽の日〟が待ち遠しい。マルコスさんはそんなふうにもいった。
荷おろしの作業が始まった。木箱、麻袋、樽などすべての荷物はいったん船着き場の近くの倉庫で保管する形になる。領長や役所の係員が数や品質を確認して話し合った後に島内のしかるべき場所へ分配・支給される。島からのお返しについては、マルコスさんと商談の上、等価分の絨毯が後日船内に積み込まれる。
マルコスさんの到着を知った島の男たちが続々と集まってきて、作業は手早く円滑に進められた。荷おろしが終了した後はマルコスさんと船員さんたちは多くの島民に囲まれて身動きが取れず、領長も何やら忙しそうだったので僕はそばにいた知り合いのおじさんに帰る旨を告げて家路についた。
途中、ケイの家に寄った。もしかしたらユリアがお邪魔しているかもしれないと思ったからだ。
お宅にはアズミさんしかいなかった。居間でアズミさんと世間話をしているうちにケイが帰ってきた。ユリアと一緒に「シロハゴロモ亭」にいってたらしい。港の近くにあるシロハゴロモ亭という名の食堂は二階に多くの空き部屋を有しており、片手間で宿をやっている。マルコスさんと船員さんたちには毎年そこで寝泊まりしてもらっている。ケイとユリアが港付近をうろついていたらシロハゴロモ亭の女将さんに呼び止められ、宿泊と宴会の準備の手伝いをまかされたらしい。それはいい仕事をしたね、とアズミさんが笑っていた。手伝いを終えた後、ユリアは真っすぐ帰宅したということだ。
僕とケイは庭に出て剣術の自主稽古をおこなった。ここ数ヶ月は特に多くの時間を剣の修行に費やしている。
ケイと別れ、家に着いた頃には晩ご飯の時間を優に過ぎてしまっていた。玄関で迎えてくれたユリアはお腹が減っていたのか僕の帰りをいつにも増して喜んでいた。
すぐに食事にすることになった。玄関先のにおいで予想がついていたとおり、今晩はシチューだ。
四人掛けのテーブルに腰掛けた。僕の正面の席には料理は運ばれなかった。
「父さんはシロハゴロモ亭?」
「そうよ」椅子に腰を下ろした母さんが一つにまとめた赤髪を触りながら答えた。「さっき出かけていったわ」
「そっか。マルコスさんたちの歓迎会に参加するなら夕飯はいらないね。向こうでたくさん食べられるから」
お酒も入るだろうけれど遅くとも日付が変わるまでには戻ってくる。0時をまたいでしまうと、〝月の日〟から〝太陽の日〟になってしまうと、大変だからだ。
「今日のシロハゴロモ亭のご馳走は格別においしいはずよ。なんせあたしが手伝ったんだから。あとケイも」
「……シロハゴロモ亭にいってきたの?」母さんがスプーンを持つ手を止めて正面に座るユリアに問いかけた。
「そうよ。女将さんにつかまっちゃったの」
母さんはユリアを一呼吸のあいだじっと見つめたのち、力が入っていた眉をふっとゆるめた。「それはご苦労様」
「ねえママ、結婚する前はシロハゴロモ亭で働いてたのよね」
「ええ」
「その割には当時のことを話さないのはなんで?」
一瞬しんとした。