13-3:てめえの負け
龍獣はひげを首に巻きつけてのそのそと前進し、馬二頭分くらいの距離までハヤテに詰め寄った。近い。まずい。危険を避けるならもうこれしかない。
「ハヤテ! 柵だ! 柵にのぼれ!」
「やかましい!」
びくっとした。鼻風邪声でがなったのは総裁だった。
「と、思ってるぜ、あの兄さんはよ。男の勝負に水を差すな」
おれはむき出しになってる平らな胸に手をあてた。ずっとドキドキしてたのにびっくりまで上乗せされて動悸がえらいことになっている。
間合いは馬一頭分にまで縮まった。団員たちは釘づけになっている。
つと、ハヤテが一歩前に出た。龍獣は少し体を引いた。おれはハッハッと犬のように一時的に息を切らした。
二者は五秒ほど対峙。龍獣が体を一瞬だけ勢いづかせたが、ハヤテはつられなかった。
ハヤテはさらに一歩近づく。今度は龍獣のほうも身じろぎせず。その反応を即座に見極めたのか元々そうするつもりだったのかは定かではないが、ハヤテは一歩だけにとどめずに龍獣の傍らまで寄りつき、たてがみに触れた。龍獣は抵抗しない。福耳団の団員たちは一様に驚きの声を上げた。ハヤテは猫を可愛がるかのように、慣れた手つきで頭、首、背をなでる。龍獣はおとなしくなでられる。
「やった……。やったー!!」おれは両手を上げた。
なんてこった。龍獣と打ち解けやがった。ハヤテ! お前って奴は本当にすごいぜ!
「早く鍵を!」おれは総裁の背中に催促した。
総裁が耳たぶをたぷっと揺らしながら振り向いた。「だれが出してやるといった」
「……え?」
「龍獣を懐柔したら出してやると、そんな条件を俺が提示したか」
「勝ったらすぐに解放するといったじゃないか!」
「だから勝ってはいないではいか。ハーメット式格闘術での勝ちとは相手を気絶させること。もしくは相手が降参を宣言することだ。どちらの条件にも当てはまらんうちは勝ちとは認められんな」
ハーメット式なんちゃらなんて後出しもいいところだが、横紙破りな福耳団のこと、そこを追及したって解決には至らないだろう。なんにせよ勝ちの定義を明確にしておくべきだったんだ。
「龍獣に勝ちたいなら気絶させるしかねえよな。一度は気をゆるしたかもしれんが、あの男が敵意をほのめかした瞬間に龍獣も牙を鳴らす。もっとも、我らが龍獣に危害を加えんとすれば毒矢があの男に飛ぶがな」
褐色肌の男とほか二名が弓をかまえた。龍獣は猛々しく吠えた。錆びた分厚い鉄壁をまるで紙を破るかのごとく容易く引き裂いたような轟きは、耳にびりびりと振動し、不快なんか軽く通り越して恐怖の感を刺激し、心臓を縮み上がらせた。龍獣は自分が狙われたと思って威嚇したんだろう。
「ふう。へへ。バカみてえな迫力だぜ」総裁はたじろいでいった。
卑怯だ。最初からハヤテに勝ち目なんてなかったんだ。おれは眉間に力を込めて根性の汚いおっさんをねめつけた。
「野獣の帝王の眼光に比べりゃ、なんて愛らしい眼差しよ」感慨深げに述懐する総裁。部下たちの笑いを誘った。
落ち着け。福耳団を批判するよりまず考えろ。
ハヤテは龍獣を宥めるように叩いている。戦うつもりはないと見受けられる。たとえ龍獣に勝てたところで福耳団の毒矢が飛んでしまうんだ。どのみち戦うなんて選択肢はもうない。だとすれば、ハヤテはいつ解放される。どうすれば檻の外へ出てこられる。
打開策を見つけるんだ。何か、何かが、転がってはいないか。
「のんびり考えてる暇はないき」少し離れたところにいるはちまき男が人差し指で鍵をくるくると回しながらいった。「腹が減れば龍獣の機嫌は最悪になるけえ」うるさい虫を握り潰すかのように、くちゃり、と鍵を引っつかんだ。「早々に手を打たなければあの男、餌になってしまうっちゃね」
唾が強引に喉の下に落ちていった。おれは総裁に視線を戻した。
「ハヤテを……殺めるつもりでこの力試しを持ちかけたんだな」
「居丈高な男がしっぽを巻くのを鑑賞したかっただけよ。土下座をすれば見逃してやると助け船を出してやったのにふいにしやがった。窮地に追い込んだのはあの男自身だ」
「見世物小屋の件はどうするんだ。化体族の中でも二人といない特別な男をやすやすと手放していいのか」
おれは姫に目だけを向けた。おれの心情を見透かすように物静かなたたずまいでこちらを眺めている。
「あの男は化体族の中で特殊とはいえ、結局は見た目が変化しない点では人間と同じだ。お前ら二人のほうが見世物として価値がある。あの男は目の上の瘤でしかない。消えてもらう」
人でなしのおっさんめ。明言しやがったな。
「うああああああああああああっ!」おれは叫びながら膝を折った。
「なんだ!?」
「あのオカマ、崩れ落ちたぜ」
団員が騒ぎ立てる。
「ハヤテをっ、出せーーーーーーー!!」
「四つん這いで吠えてら。龍獣の真似か?」
ははははは、と嘲笑がこだました。
「ひどい。ひどいよお。ハヤテ。ハヤテーーー」
拳で地面をドンドンと叩いた。福耳団の奴らはさらにおもしろがって下卑た笑い声とおれを愚弄する言葉を場内に反響させる。嘲りに混じって靴音が近づいてきた。
「やれやれ。兄さんみっともないき。立ちんさい」
はちまき男が半笑いでおれの肩に手を置いた。やっぱりあんたは面倒見のいい人だ!
おれは渾身の力を振り絞って体当たりをぶちかました。はちまき男は後ろに倒れ、その手から鉄柵の鍵がこぼれ落ちた。地面に放り出されたそれを爪が削れそうな勢いで素早く拾う。
「こいつ!」
「姫!」
鍵を投げた。ほぼ同時にはちまき男が覆い被さってきたが、すでにおれの手を離れた鍵の軌道には影響がなく、それは狙った方向へ飛んだ。鍵を口に咥えた姫はハヤテへ向かって駆けだした。
「矢をッ。早く撃てー!」
総裁の号令によって射手の三人が直ちに弓を引いた。
「こっちだ!」
ハヤテの誘導によって姫は横っ飛びに方向転換。姫を射当てようとして放たれた矢はすべて外れた。
福耳団の連中は冷静な判断力を失っている。姫に命中していたところで毒矢は瞬時に効くものじゃない。少し先を見越して龍獣を狙っておくべきだったんだ。
ハヤテは柵の隙間から手を伸ばして姫の口内から鍵を取り出し、錠前の鍵穴に差し入れる。福耳団の数人が悲鳴を上げた。
扉が勢いよく開かれた。ハヤテにつづいて龍獣が鉄柵の外へと出てきた。大声で叫ぶ者、後ろへ向かって走りだす者、その場であわただしく足踏みする者。場内は瞬く間に混乱状態に陥った。
「矢だ矢ー! あいつらに毒矢を――」
総裁がいいきる前に龍獣が信じられない速さで突進し、矢をつがえていた褐色肌の男に体当たりをお見舞いした。おれの倍は体重がありそうな男だったが、その筋骨隆々の体は陸に揚げられた魚の尾っぽのごとくびたんと地面に叩きつけられ、頭と背中を強打。そのまま気を失った。恐るべき動物界の帝王の強襲を目の当たりにし、場内は水を打ったように静まり返った。そしてだれも動かなくなった。
「弓矢を捨てろ!」ハヤテの雷声が沈黙を切り裂いた。
物音を立てれば龍獣に襲われるかもしれないという恐怖感が漂っていた中で、だ。かくも堂々たるたたずまいで大声を響き渡らせる強心臓、そして龍獣に襲われるどころかすでに従わせている現状。ふつうの人間には到底無理だろうということができているハヤテは完全にこの場の支配者になった。もはや逆らえる者はいない。
弓矢を捨てろという命令に該当する二名は、素直に弓矢を足元に放棄した。ハヤテはそれらを拾い上げ、また、倒れている褐色肌の男の弓矢も奪い取って、中央に寄せ集めた。その間龍獣がじいっと遠くの一点を見つめていた。おそらくそれは周囲の気配に集中するためであり、隙のない最強の見張りを前にして福耳団の連中は手も足も出せずにいた。
「さて」ハヤテが総裁に目をやった。
総裁は、はああ、と声にならない息を吐き、脚をがくがくと震わせている。胸の前で両手を合わせているのは心の中で神に祈っているのだろうか。
ハヤテが龍獣の背中に手を置いた。そしてともに総裁のほうへ近づいていく。歩が刻まれるたびに総裁は「わ、わ、わ」と声を大きくして取り乱す。間の抜けた姿だがそうなってしまうのは仕方がない。ハヤテと龍獣は総裁から馬一頭分くらいの距離で立ち止まった。
「こいつは俺がもらう。いいな」
「は、はははは、はい。も、も、もちろん」
震えてほとんどしゃべれていない。
「てめえらのせいで馬を失ったんだ。てめえらが所持してる馬を一頭よこせ。馬に持たせていた荷物も失った。食料、衣服、地図、野宿に必要な物一通りだ。新しいのをよこせ」
総裁はハヤテが話しているあいだずっとこくこくとうなずいていた。ハヤテの要求がきちんと頭に入っているのかいささか疑問だ。
「それからてめえらの悪行を改めろ。ゆすりたかり、その他危害を及ぼす行為は今後いっさいゆるさん」
「わ……わかりました」
この状況ではそう返事をするしかないだろうな。
「破ったら、どうなるかわかってんだろうな」ハヤテは剣を抜いて総裁に差し向けた。
戦いが始まると感じたのか、龍獣は鋭い牙を見せつけてグアッと哮った。ある程度離れた場所にいても肝を潰すような凄まじい咆哮だ。不幸にも真っ向から受けた総裁はぶるぶると天井に向かってひきつけを起こしたのち、背中からバタリと倒れた。
何か変化を感じた。総裁の股座を目を凝らして見てみた。失禁していた。
「気絶したか。てめえの負けだな」ハヤテは剣を収めていった。




