1-1:レイル島のハヤテ・ケイ・ユリア
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――風のにおいにふと懐かしさを感じることがある。それは自分が忘れてしまった何かだ。それが何か思い出せなくても、それがたしかに存在していたことは知っている。けれど、風をつかめないように、その何かはするりと抜けては空に消える――
「いってきます」
高くて険しい「神ノ峰」を背にしながら坂をのぼっていく。親かそれに匹敵する者に見送られている気分だ。神がくるといわれている峰なので「神ノ峰」と呼ばれている。見守られているような安堵感はあながち勝手な思い込みではないだろう。
僕は道端に生えているシロハゴロモの木を見上げた。
ツバキの一種であるシロハゴロモはこの島を代表する花木。住民からは「春告げ花」とも呼ばれている。あと一ヶ月で初春すなわち新年を迎える。その頃には純白の花が島のあちこちで咲き誇り、人々は新しき一年の幕開けの喜びにひたる。
きたるべき翌年は今までになく特別な思いで迎えることとなる。このレイル島にとって非常に重要な年だ。島民は皆、節目となる次年に心から笑えることを夢見て、長くつらい冬の時代を耐え忍んできた。
ゆるやかな丘の頂を越えた。ぽつりぽつりと建ち並ぶ家々の先方に、青い空よりも濃く発色している海が見えてきた。
「ハヤテじゃないか」
声をかけられ、僕は横に視線を向けた。近所のお爺さんがお宅の前で鍬をかついでいた。
「こんにちは。畑仕事ですか」
「雑草取りじゃ」お爺さんはところどころ欠けた歯を見せた。いつもは不格好だからと隠したがるのに今日はご機嫌だ。「今日は西大陸から船がやってくる日じゃな」
「はい。正午には着くみたいです」
「あやつらと酒を酌み交わすのが今から楽しみじゃわい」
「飲みすぎにはお気をつけて」
お爺さんはにこやかに片手を上げて畑のほうへと移動していった。僕はその小柄な体を見送った。
少し歩いた先の原っぱで一頭の牛に遭遇した。
「やあ、ミミ。散歩?」
ミミは首をこくりとしてモーと鳴いた。そうだという反応だ。
「けっこう遠くまで散歩しにきたね。今日は天気がいいもんね。それじゃあよい一日を」
ミミはもう一度機嫌よさそうに鳴いた。僕は手を振って別れた。
頬をなでるそよ風が気持ちいい。日ごとに暖かくなるこの時期の気候が好きだ。例年ならばただ穏やかに季節の移ろいを肌で感じるところだけれど、今季は心の奥に凜とした緊張感がひそんでいる。物が見えなくなる緊張感ではなく、むしろ万事に対して精彩に目が働くような研ぎ澄まされた緊張感。そういったものが静かに僕の士気を鼓舞させる。二十日後、年明けよりも早く、レイル島を長き冬の時代から開放するために、「遠征」が始動する。遠征には、僕も参加する。
「お兄ちゃーん」
背後から大きな声が聞こえた。妹のユリアだ。一つに結わえた赤髪を揺らしながら駆け寄ってくる。あっという間に僕に追いつき、ユリアは足を止めた。
「今さっき出たばかりだってママに聞いてあわてて追いかけてきちゃった。お兄ちゃん、領長のところにいくのよね」
「うん」
僕たちが住んでいるのは島であって「レイル領」とはいわない。「領長」と呼ぶのは正しくはないが、三代前の領長までは本当に領に住んでいたので、「領長」という称号は今日まで変わらずに受け継がれている。
「もちろんケイも呼ばれているから先にケイの家に寄るよ」
「最近集まりが多いわよね」
「出発が近づいているからね。作戦を立てたり準備をしなきゃならないんだ」
「三週間後かあ……」
ユリアは空を仰いだ。何を考えているかはわかっている。
「やっぱりあたしも遠征に出たいな」
当たりだ。
「ユリアは女の子なんだから危険だよ」
「それならケイだって――」ユリアは言葉を飲み、唇を尖らせてうつむいた。「ケイもお兄ちゃんも何回か島の外に出てるでしょう。あたしは一度もないの」
うん、と僕は彼女の顔を見ずに相槌を打った。島の外に出たといっても近場に漁に出たくらいなんだけど、それすら経験のないユリアにとっては羨ましいにちがいない。
ユリアには同情する。彼女の好奇心旺盛で活発な性格からすれば島の中に閉じ込められているような現状はさぞかし窮屈で退屈に感じることだろう。
「大人たちは外の世界は危険だって口をそろえるのよね。西大陸には物騒な人間がうろついてるし、東大陸には半人種や猛獣が住み着いてるって。そんなの昔からわかりきってることなのに、いまだに警戒してるなんて慎重を通り越して小心者なんだって呆れちゃうわ。あーあ。大きな船があればあたしも海に出られるんだけどな。あいにくこの島にはちーっちゃいのしかないし」
息巻いていたユリアはいったん息をつき、ばつの悪そうな顔を作った。
「なんかお兄ちゃんに愚痴っちゃってるね……。ごめんなさい」どんぐりのような眼がしおれた。
僕は微笑んで首を振った。「いいんだ。ユリアの気持ちはわかるよ」
ユリアはつぼみが花開くようにぱっと笑顔を咲かせた。「ありがとう。お兄ちゃん」
僕たちは曲がりくねった道を進み、数分後に一軒の家の庭に到着した。風見鶏や、帆船を模したテーブル、丸太と縄で作られた遊具などが置いてある庭だ。その庭をでんと眺めるようにして小洒落た木造家屋がある。
僕は小さい頃から数えきれないほどこの家を訪れている。だから、庭の花が季節によって彩りを変えることを知っているし、台所や居間など家の中が常にきれいに片付けられているのも知っている。窓からの光がよく入ってうららかに明るい印象なのは、ここの一家の性格そのものでもある。
玄関の戸がガタッと音を立てた。家族のだれかが僕たちがきたことに気づいてくれたようだ。
栗色の髪が見えた。ケイだ。戸が開かれた。
「ようハヤテ。ん、ユリアも一緒か」
僕はぎょっとした。ケイが上半身をむき出しにして現れたからだ。片手で胸の中心は隠しているけれども、大部分が露出してしまっている。
「ちょっと待っててくれ。おれも今すぐ着替えて準備してくる」
ケイがいい終わるのを待たずに、ケイの背後から「こらー!」と怒声が轟いた。
ケイの母親のアズミさんだ。物凄い形相で走り寄ってくる。まずい、といって逃げようとするケイの首根っこをむんずとつかんでげんこつを脳天に食らわせた。
僕は目をつむって肩をすくめた。アズミさんのたくましい腕から放たれた一撃はハンマーのように重いはずだ。
「なんてはしたないんだい! さっさと上着を着ておいで!」
「っつー……。わかったよ」
ケイは頭を手で押さえながらふらふらと奥へ引っ込んでいった。まるでその足取りはご近所のお爺さんが酒を飲んだときのようだった。アズミさんも酔っ払いを見るような厳しい目つきでケイが階段に上がるのを見届け、やがて柔和な顔になって僕のほうを向いた。
「悪かったねハヤテ」
「いえ」
「まったくあの子はねえ。少しは女の子としての恥じらいを持ってくれてもいいんだけどね」ふんっ、と大きく息を吐く。「それじゃ、すまないけどもう少し待ってておくれ」
アズミさんは家の奥へと下がっていった。
「ケイの奴、相変わらずデカくていい胸してるわね。腹立つわ……」ユリアが隣でぶつぶつつぶやいていた。
すぐにケイが支度を終えて戻ってきた。玄関から出て庭を歩きながらもケイが頭をさすっていたので僕は心配になって尋ねてみた。
「大丈夫? ケイ」
「大丈夫じゃない。あの怪力は島でも指折りだぜ、きっと」
僕は眉を下げて微かに笑った。
「それよりケイ。なんで半裸の状態で出てきたのよ」ユリアが尋ねた。
「ああ。山羊乳を飲んでたら服にこぼしてしまったんだ。上着を脱いで自分の部屋に着替えにいこうとしてたらハヤテがやってくるのがちらっと見えてさ。そのまま玄関の戸を開けたら母さんに怒られたってわけだよ」
じと、っとユリアがケイを横目に見た。
「なんだよ」
「あんた、それでお兄ちゃんが喜ぶみたいに勘ちがいしてるんじゃないでしょうね」
唇が振動する音が聴こえた。ケイが思わず驚きと不快を混ぜた息を吐き出してしまったようだ。
「そんなわけないだろ気持ち悪い。なんでおれが男を喜ばせなくちゃならないんだ。こんなふうに、男そのもののおれが」
ケイは片手でズボンを引っ張り、もう片方の手で自身の栗色の髪の毛を指差した。髪が短いことを訴えている。ケイは絶対に髪を伸ばさない。だけど短すぎるのも変だと思ってるらしく、耳が隠れるぐらいの長さを維持している。
ユリアは腕を組んだ。「じゃあ自慢かしら。ちょっと胸が大きいからってひけらかしちゃって」
「あのなあ」
「身長も体格も同じくらいなのにどうして胸だけ差が出るのかしらね」
「おれに訊くなよ。好きで乳がデカいわけじゃない」
僕は話題が話題だけに口をはさめずにいた。
ユリアとケイの軽いいい合いを耳にしながら坂道を下っていくと、小高い墓所によってしばらく姿が隠されていた海が再び見えてきた。
あっ、と僕たちは声をそろえた。海上に一隻の大型船が浮かんでいる。
「マルコスさんの船だ」僕がいった。
「うわー。相変わらず立派な船だなー」と、ケイ。
「早く領長に教えてあげましょう」
ユリアが走りだしたので僕とケイも後に従った。