64-4:旅立ち
そうだ。欠けてる。何かが欠けている。きっと、ユリアとおれが感じているものは同じ。
おれたちは海を向いて並んで座った。手をつないでいるのは、今まで触れられなかった互いの手を通して、人間になった証を実感しているようにも感じる。
「昨晩ね、ママとゆっくり話したわ。今まで口うるさくいってたのは心配してたからだって。でもいくら心配してもあたしを止めるのは無理だってわかったって。だからこれからはあたしの好きなようにやれって」
「そっか」
ユリアが島の外に遠征に出たことによって、サユリおばさんは子離れできるようになったんだな。
「ママが宝物を見せてくれた。箱にしまってた、あたしのへその緒。宝物はもう一つあった。小さな水晶玉だった」
「小さな水晶玉……」
「見たことがない細工がされてた。玉に小さな穴が開いてた。でも変なの。ママはその小さな水晶玉に思い出がないのよ。あんな珍しい物なのに、どこで手に入れたか忘れたって。ただなんとなく昔から持ってた物だって」
「え……?」
「そういってた」
おれの胸の中で白い粉でも舞うような感じがあった。
似た話をつい昨日聞いた。これぞという理由はなく、そうしなければならなかった思いに駆られたという、そう、領長がサユリおばさんを地下牢から出した件についてだ。はっきりした理由なく地下牢から出されることになったサユリおばさん。また、はっきりした理由なく小さな水晶玉を大切に持っていたサユリおばさん。どちらもサユリおばさんが関係しているのは、単なる偶然なのか。
「あたしのへその緒と一緒に大切にしまってたくらいの物なのに、思い出がないなんて、あり得るかしら」
「ああ、もしかしたら、昔の恋人からの貰い物かなんかで――」
「あたしやパパには内緒にしておきたかったっていいたいのね。ちがう。そういうのでは絶対なかった」
早々にきっぱりといいきったな。ユリアの中ですでにいろんな考えが巡らされていたのがわかる。
「ケイ。さっきのノエルさんのことだけじゃない。記憶が、ところどころ欠けてるような、何かを忘れてるような気がする。パパとママにいったら、それはだれにでもあることだっていわれた。そうなの? ケイ」
そうなの、というのは、そうじゃないよね、といいたいようにも聞こえる。ユリアは何か糸口を欲している。
「おれも、糸口が欲しい」
「ケイ」
「ん?」
「あたしがケイをずっと男として見てなかったのは、だれか別の人をずっと見てたからのような気がする」
さざめく波の音が自分の胸の中の音のようにも聞こえた。
つないでいるユリアの手は気づけば力が強くなっていた。そして自分の手の力も強くなっていると気づいた。
「別の人……っていうのは……」おれは質問しているのか所見でも述べようとしていたのか、自分でもよくわからなかった。
ユリアは何もいわなかった。もっとも、何かが返ってくるとは思わなかった。
海の水面に反射するこがねの光が、届くことのない何かを示唆しているようにも感じられる。おれはすっかり何もいえなくなってしまった。
ケーイ、と大声で呼ばれた。
母さんだった。遠くから小走りでやってくる。おれとユリアは手を離した。
「あんたたち。ここにいたんだね」母さんはあわてている。「知ってるかい。ムゲンが近いうちに島を出るって」
「えっ……」
おれとユリアは絶句して顔を見合わせた。
「ムゲンさん!」
ムゲンさんの姿を見つけたおれたち二人は全速力で駆け寄った。
夕暮れの港でムゲンさんは作業をしていた。長旅を思わせる数々の荷物を船に積み込んでいた。やっぱり今さっき母さんがいってた話は本当なのか。
「ケイ。ユリア」ムゲンさんはたくましい腕で額の汗を拭った。
「島を出るって聞きました」おれは息を切らしながらいった。
「ああ。明日の朝に出発する予定だ」
「明日!?」
母さんは近いうちにといっていたけど、明日だとは。
ムゲンさんは作業をいったん止めておれとユリアのそばにきた。おれとユリアは息を整える。
「翼竜だったら簡単に海を渡れるんだが。人間ってのは不便だな」困ったような顔をしながらもどこかうれしそうに語るムゲンさん。
「ムゲンさん。どうして急に」
「急にではない。人間になったら西大陸にいくと決めていたんだ」
「……そうだったんですか」
知らなかった。噂でも聞いたことがなかったから、きっとムゲンさんはだれにもいってなかったんだ。
「いずれ西大陸に渡る者がどんどん出てくるだろう。もうすでに島からいなくなった者もいるそうだ。そのうちの一人が領長だ」
えっ、とおれとユリアの驚きの声が重なった。
「領長が、ですか……」
「領長がいなくなって、当然だが役所は混乱している。当面は役所の者が緊急に対処するといっていた」
「緊急に対処って、じゃあ、領長はだれにも何もいわずに、姿を消したんですか?」
ムゲンさんは何もいわずに役所のほうに目を向けた。その横顔は憂いを帯びて見える。おれは深く追求してはいけない気になった。
「レイル島が、変わっていってるわね」ユリアがいった。
「うん……。そうだな」
急激に変化している。化体族が暮らす島だったのが人間が暮らす島になり、今まで徹底的な姿勢で島を治めてきた領長がいなくなるって、根本からがらりと変わるようなもの。きっと領長以外に今この島をまとめていけるのはムゲンさんくらいしかいない。そのムゲンさんも島を出ようとしている。
「だれにも止める権利はないですが、でも、ムゲンさんが島を出るとなると、不安になる島民も多いでしょうね」
「何よケイ。だれにも引き止める権利はないんでしょ」
「あ、うん、そうなんだけどさ……」
ムゲンさんがふっと優しく笑った。「求められるのは光栄なことでもある。しかし俺は、自分が進みたい道を進むと決めた」
「そうよね」ユリアが即座に同意した。
「俺にはいかなければならない場所がある」
「西大陸……ってことですよね」
ムゲンさんはうなずいた。
自分が進みたい道を進む。そういいきったムゲンさんはとてもかっこいい。と思うのと同時に、一抹の焦りのようなものがおれの中に生じた。遠征をやり遂げて今達成感に包まれてはいるが、この先、おれは具体的にどこに進みたいんだろう。
「ケイ。ユリア。お前たち二人には話そう。今までだれにもいわなかった、いえなかった俺の昔話を」
おれは一気にムゲンさんに意識が向いた。ムゲンさんの昔話って、そういえばあんまり聞いたことがない。しかも何やら重大なようだ。
「二十数年前、俺は初めて西大陸へと渡った。そのときに一人の人間の女性と出会い、おれたちは、惹かれ合った」
おれは思わず息を漏らした。
「俺は彼女に化体族であることを告げた。そして、必ず人間になり、会いにくると、約束した。その約束だけの関係であり、それ以来もちろん彼女とは会ってないわけだが、それでも俺はずっと彼女を忘れられずにいた」
そんな相手がいたとは。だからムゲンさんはこの島では女性の影がまったくなかったのか。だから遠征にかける思いも強かったんだ。
「長い年月が経った。彼女はすでに俺のことなど忘れているかもしれん。しかし約束がある以上、俺は会いにいかなければならない」
「素敵ね。どんな女性なのかしら」
「シオンという名の、素晴らしい女性だ。――これを俺にくれた人物でもある」ムゲンさんは腰元に装備している剣をつかんだ。
鍔に翼竜の眼と同じ色の翡翠の石が象嵌されている剣。ムゲンさんがとても大切にしていた剣には、そんな背景があったんだ。
「きっと、そのシオンさんて方は、ムゲンさんを待ってますよ」
「そうね。そんな理由があるなら、西大陸に向かわないわけにはいかないわよね」
「それに……引っかかるんだ」ムゲンさんは物思いにふけるような眼差しで自身の剣を見つめている。「彼女とは別に、何か、大切な、とても大切な何かを忘れている気がする」
おれとユリアは顔を見合わせ、互いに目が大きく開いているのを確認した。
「ムゲンさん。それ、おれたちも……おれとユリアも、感じてました」
「いつからだ」
「えっ、と」
「遠征を終えてからじゃないのか」
「はい。遠征後です」
「そうか……。俺たちは人間へと戻ったことで、何かを失ったのかもしれんな」
おれたち三人は黙った。潮風がさあっと頬をなでる。
「もっと広い世界に出れば、糸口がつかめるかもしれん」
広い世界。糸口。おれの前で新しい扉が開いたような気がした。
おれは拳をぎゅっと握りしめた。「ムゲンさん! おれを西大陸へ連れてってください!」
「あたしもいくわ!」
「ユリア」
そうだよな。ユリアがいかないわけがない。
「遠征から帰還したばかりで大丈夫か。特にユリアは母親が心配するだろう」
「もう好きにしろっていわれたわ。まわりが反対しようが何しようがあたしは船に乗り込むわよ。だれの娘だと思ってんの」
おれとムゲンさんは顔を合わせて思わず笑った。ユリアには負ける。
「おれも、自分が進みたい道を進みます」
「よし。お前たち二人、俺が面倒を見よう。時間はあまりないがしっかり準備をしてくるんだ」
はい、と大きく返事をしておれとユリアは走りだした。
空の色は段階的に染まっている。上のほうの暗い青から、下のほうの落ち着いた金へと。昼と夜のあいだというような、この、太陽の時間なのか月の時間なのかわからない空の下を、がむしゃらに走った。
なぜなのかわからないがおれたちが忘れてしまったもの。失ってしまった大事なそれを、必ず見つけ出してやる。風とともに今感じているのは、おれは、昔からこうやって、今見つけ出そうとしているそれを、ずっと追いかけてたような、そんな気がするんだ。




