63-4:精神の部屋(5)
これが、現実……。ノエル。もう二度と、この手で触れることはできない。
ノエル。生きているうちに、知っていてほしかった。ハヤテは人間だったと。死者は空の上から見守ってくれているとか、死んだのだからもうすべて下界や自分のことを見通してくれているだとか、たとえそういう境地があったとしても、今はそんなものは何の意味も持たない。ただ、生きているうちに、ハヤテは人間だったと知ってほしかった。生きて知ってほしかった。ノエル。生きてさえいてくれたら――……。
「生きてさえ……いてくれたら」
ハヤテの声によって眠りから覚めたような気分になった。意識が今ここに戻ってきた。気づけば自分は四つん這いの格好だった。
「……ありがとうございました」
「なに。お安い仕事だった」
神族の見習いの声が、どこか懐かしく響く。
四つん這いの手を丸める。
「おかげで、導きのようなものが、見えた気がしました」
「そりゃよかった」
「君も、同じはずだ。太陽ハヤテ」
互いに起き上がって向き合った。悪い表情では、ない。自分の表情は見えない。相手の表情と同じであるのは、感覚でわかる。
「ムゲンの兄貴が助けてくれなけりゃ……赤子はレイル島の山の上でとうの昔に死んでいた」
「レイル島で育てられなければ……少なくとも、今のハヤテはいなかった」
巨大な蝋燭の火のような中に映し出されたレイル島。ただ、懐かしく、そして美しく感じた。
この先、ハヤテがレイル島の地を踏むことはないだろう。だからこそ、十七年過ごしたあの島が、尊く、美しく見え、ノエルと重なったのかもしれなかった。
「化体族が、この命を拾ってくれた。レイル島が、この命を守ってくれた。――だからこそ、君も僕も存在している。太陽ハヤテ。今、こうやって君と僕が向き合えているのは、これまでの日々や経験、すべてがあったからこそ」
わずかな沈黙。
「そんなことはわかっている。わかっているが……それですべて、なかったことにするってのか?」
「なかったことにする?」
「そういうことだろ。すべてに感謝しすべてを『ゆるす』、そんな流れだ。『ゆるす』という裁きは、結局は、なかったことにすることにもつながる」
「ちがう」
「ちがう部分があろうが、どれだけ講釈を垂れようが、俺の中で少なからずそんなふうに感じるのは拭えねえ。俺は! 一時の生ぬるい感情にほだされるわけにいかねえ。自己犠牲で高尚な気分にひたるつもりもねえ。ここで譲ってなんになる。それは化体族に対しても不誠実になるってことじゃねえか。俺は、ムゲンの兄貴やら、ケイ、姫、家族やら仲間やら、大事な奴らに、ただ真正面からぶつかるしか、それしかしたくねえんだよ! 化体族を嫌いになりたくねえんだよ!」
深く呼吸をした。相手の、もう一方のハヤテの目を、見据える。
「ちがう。譲るんじゃない。裁くんじゃない。これは、僕たちが、ハヤテが、初めて自分の道を選ぶことなんだ」
しんとした。かつてないほどの静寂を感じる。
「太陽ハヤテ。僕たちがゆるすもゆるさないもなかった。裁くのは、神だからできること。ハヤテができるのは、自分の道を選択すること。――太陽ハヤテ。君も、僕と同じことを感じた。僕にはわかる。思っただろう。生きてさえいれば――」
ノエルに、生きてさえいてくれたらと思った瞬間に、その考えは雪崩のように入ってきた。
「……生きてさえいりゃ、まったくちがう真実が見えることもある」
「新しい世界も見つけ出せると」
じわりと、まるで雪解けした清涼な水が、胸の中に広がっていくような心地。
「新しい何かを手にするには、何かを手放す」
似たような言葉があった。思い出した。東大陸の大公がいっていた。何かを得るには何かを失うと。まさに。
「……てめえ。生ぬるい奴だと思っていたが、冷徹な判断もできんじゃねえか」
「君こそ。心の底にあった優しさや誠実さを、ようやく素直に吐き出せた」
「チッ。バカらしい。元々は一人の人間の話だ」
互いの目を見据えた。目の中に宿っているものを今、感じ取ることができる。
「あんた、光明が差したようだね」
神族の見習いの声。
「――あ、あなたは!」
「――てめえ! ……だったのか」
神族の見習いの姿が見えた。顔も体も着ている服の色もはっきりと見えている。ということは。
「明るくなってやがる」
「いつ、こんなにも明るく?」
白くて広い、何もない空間。本当に何もないということを、目で見てわかるくらいに明るくなっている。
「徐々に明るくなってはいたのさ。だが、見ようと思わなければ見えないもんでね、あんたの視界は今開けたのさ」
深く息を吸い込んだ。あたりを見渡せるようになり、視覚的には別の場所に移ったも同然となった。そのためか、空気が新鮮になったように感じる。
「ここでの私の役目は終わった。それでは」
突如として神族の見習いの姿が透明になった。消えた。気配も消えた。この空間からいなくなったのを肌で感じる。
「あっという間に、去ってしまった」
「変なじいさんだと思ってたが、やっぱり変なじいさんだったんだな」
この空間に残っているのは二人になった。正確にいえば、一人の人間の中の、二つの人格。互いに顔を向ける。
「そんで、てめえは。ハヤテから分離した二つのこのハヤテについて、どうするつもりでいる」
「君と同じだよ、太陽ハヤテ。君のいったように、元々一人の人間の話だ」
「はっ。つまりは化体族と何も変わらねえじゃねえか」
二つに別れて見えても、元々は一人の中にあるもの。
「そうだね。なんせハヤテは、化体族とともに成長した身だから」
レイル島の住民の顔が浮かぶ。レイル島に穏やかな風が吹いているのを想像する。シロハゴロモの白い花びらも舞っているだろう。
「化体族が人間になれば、化体は消えると、多くはそんなふうに表現されてきた。でもちがった。馬のユリアだってユリアだ。女性の体のケイだってケイだ。人間になったとしても化体の魂は消えない。本体と化体は、融合するんだ。一つになるんだ。僕たちも、融合する。一つになる」
一つになる。太陽ハヤテでも月ハヤテでもなく、ハヤテに。
「僕は君を忘れないし、君も僕を忘れない。きっと、必ず、僕たちは一つになれる」
「これからの道は新しい道だ。俺たちは新しい道をいくために一つになる。すでにてめえもわかってるとおり、何も失わずに元に戻るなんてことはあり得ねえ。これからを得るために、なくなっていくものがある。その覚悟はできてるな」
どちらからともなく手を差し伸べた。互いの手を握り合った瞬間、互いの心の声ともいうべき鮮烈な信号が全身を駆け巡った。
ハヤテの心の声、どのような道を進むべきか、通じ合った。やはり心の中で考えていたことは同じだった。
「俺たちの……ハヤテの答えは決まった」
「うん」
「戻るぞ」
手を離し、それぞれが白い空間を歩き始めた。ここから出て、神にハヤテの答えを伝える。その一つの方法が浮かんだ。
球体のマナが浮かぶ場所で、神、天王、そして仲間が待っている。太陽と月のハヤテの冒険はここでお終いだ。そして、0の地点へ。
「何かを得るには、何かを失う」
左右なのか前後なのか不明な中、とにかく二手に分かれ、真っすぐに向き合った。そして同時に駆けだした。相手に向かって一直線に走る。相手は自分で、自分は相手であると心から信じて、全速力で風を切った。そしてそのときはきた。正面衝突、という瞬間に光が中心から発生した。明るい色を発しながらも眩しくなく、強烈な力を持ちながらも熱くない光だった。ハヤテは光に包まれた。そしてハヤテは戻った。




