63-3:精神の部屋(4)
「僕は『ゆるす』ほうに気持ちがある。たしかに、いろいろあった。いろいろ複雑な事情はある。だとしても、やっぱり領長たちが悪だというふうには、そういう考えには振りきれない。人間の赤子を拾って、十七年も育ててくれた。その恩というのか……その事実は、あるのだから」
「そんなもんは当然だ。おい、月ハヤテ。物事には光と闇があるのを忘れたか」
「光と、闇」
「てめえがいったのは事実の光の部分だ。闇の部分も見ろ。人間のガキを化体族と偽って育てたこと。本人に真実を黙っていたこと。奇妙な術によって本人の記憶や精神に勝手に手を加えたこと。本人の意志など初めから無視し、尊厳を踏みにじるような行為があったのは、闇の事実として存在している。その闇を見ねえふりして光しか見ずに『ゆるします』じゃ、化体族にとってもよくねえだろ」
数十分経った。
「太陽ハヤテ」
「あ?」
「僕は今、『ゆるさない』ほうに、気持ちが傾いている。いや、『ゆるさない』というより、化体族は今は人間にならないほうがいいんじゃないかという考えに」
「いいから早く述べやがれ」
「……僕が化体族の立場だとしたら、ハヤテという人間の境遇に対して、申しわけなさで一杯になってしまうと思う。たとえばこれで今、ハヤテが『ゆるす』判断をして、化体族がなんのお咎めもなしに人間になったところで、彼らが心から幸せになれるとは思わない。喜びより苦しみのほうが強くなると思う。ハヤテに一生返せない借りを作ってしまったと、くびき、みたいなものを一生背負っていくことになると思う。ならばいっそ、十七年のあいだ、浄化をする期間とでもいうのか、化体族のまましっかりと反省なりなんなりしてもらって、晴れて人間になる日を待ってもらうのがいいと思えてきた」
「それだとハヤテがくびきを負う。結局はハヤテがあたえてやってるってことじゃねえか。ハヤテの苦痛を差し置いて化体族の浄化のために尽力してみろ。貸しを作ってやった意識は一生消えねえ。それがいつか何かに摩擦を生じさせる。リャムの野郎もいってただろ。優しさや同情みてえなことから化体族に譲るような判断を下してしまった場合、ケイや妹たちとのあいだに一生消えない溝ができると。ハヤテが心から納得する判断でなければ、だれも救われねえと」
「……君は、『ゆるす』にも『ゆるさない』にも反対なんだね。だったら、どうすれば」
「うるせえ。だから考えてんだろ。とりあえずてめえは考えの軸が化体族になってやがる。もっと自分がどうしたいのか考えろ」
「自分がどうしたいか……。太陽ハヤテ。君は、どうしたい?」
「何もかもぶっ壊してやりてえ」
「本気で訊いてるんだ」
「こんなときにふざけるか。本気でいってる」
深く呼吸をした。自分ともう一方のハヤテの呼吸の音だけが耳に入ってくる。離れた場所にいる神族の見習いの呼吸の音は聞こえてはこない。
この精神の部屋は下界とは時間の流れがちがう。結局、下界ではどれくらの時間が経っているのか。まったく不明。朝も夜もなく、太陽が出ているのか月が出ているのかも、知る手立てがない空間。深く深く沈んだ海底にいけることがあるとすれば、いき着く先はこういう場所なのではないかと、そんな気さえしてくる。
「懺悔自体はゆるされた」
両方が同時に口にした。思考の根元は同じなのだと思い知らされる。
「で、なんだっつうんだ」
「化体族の百年の懺悔自体はゆるされた。それを、僕たちが、ハヤテが、存在したことによって、ゆるされない方向に変わってしまうかもしれないのは――つらい」
「……やっと本音が出始めたか」
「レイル島が、見たい」
「あ?」
「故郷を、育ったあの景色を、見たい」
レイル島。ハヤテが十七年のあいだ過ごした場所。
神が憩いにくるといわれている神ノ峰があり、一応、外部との交流の玄関口となる小さな港がある、世界のほんの一部の絶海の孤島。島を駆け回っては狭いと思っていた。いつか海を越えて世界を見るのだと、ずっとレイル島の片隅で思っていた。今、海を越え、西大陸と東大陸の両大陸を旅し、神族の住む領域まで辿り着いた。遥かにそびえる天王の宮殿からレイル島を見たとき、自分は何を感じるのか。
「おい、神族の見習い。てめえは一応神族だな」
「一応ね」
「球体のマナみてえにレイル島の景色を映し出すことはできねえのか」
「マナのようにそのままを映し出すことはできない」
「チッ」
「が、まったくできないこともないね」
「できんじゃねえか」
「少しくらいなら、見えるかもしれないね」
「もったいぶりやがって」
「ぜひ見せていただけないでしょうか。お願いします」
「どれ。やってみるかね」
数秒後、自分も隣に立つハヤテも息をのんだ。
まるで特大の蝋燭の火のようなものが前方にゆらりと発生した。明るく輝く性質を持っている。眩しくはない。熱さも伝わってこない。その蝋燭の火のような謎の物質は神族の見習いとの中間くらいの位置に現れた。一瞬神族の見習いの全体が見えた気がするも、結局は把握しないままに謎の物質のほうに意識が集中した。
思わず声が出た。隣のハヤテも声を上げた。巨大な蝋燭の火のようなそれの中に、鏡のように色彩のはっきりした風景が映し出された。
レイル島の景色だとすぐにわかった。構図としては、海の水面から島の一部を眺めている構図。地形や木々の配置などからレイル島だと把握できる。何よりもレイル島であると決定づけているのは、レイル島を代表する花であるシロハゴロモの存在。一面に白いツバキの花を咲かせている。そして白い花びらが風に舞って散っている。シロハゴロモが咲き誇っているのも散っているのも、初めて見る光景ではない。ただ、こんなに美しかったのかと、新しいものを見ているような気持ちになっている。
足が前に出た。レイル島の風景が迫りくるかのように大きくなった。こっちもレイル島も、互いに近づいているような感覚になる。自分が記憶しているレイル島の風景と細部まで一緒。巨大な蝋燭の火の中に、レイル島が実在しているような錯覚が起こる。
しばし棒立ちで眺めては、一歩、もう一歩、足が自然と前に出た。この足を動かしているのは、シロハゴロモだ。シロハゴロモがもっと見たい。もっと近くで見たい。なぜかあの白い花に今、吸い寄せられている。
――――あれは!
「ノエル……!」
全身が震えた。突然見えた。シロハゴロモの花びらが風に舞う中、ノエルが、白い衣に身を包んで、空に浮いている。
「あんたにはそう見えるんだね。なるほどね。かつて天人族は白き羽衣をまとっていたからね」
白く透き通った肌、美しい瞳のノエル。天人族の子孫のノエル。こっちを向いて微笑んでいる。
足を前に進める。一歩、また一歩、近づく。ノエルがすぐ目の前にふわりと浮いている。声が出ない。ノエルも声を出さない。
ノエルが手を伸ばした。自分も手を伸ばした。その白い手をつかむ。
空をつかんだ。
「あ……」
消えた。この手が空をつかんだ瞬間、すべてが消えた。蝋燭の火のような物質も、その中にあったレイル島も、ノエルも、すべて消え、元の、何もない暗い空間に、現実に、戻った。




