6-2:ムゲンとハヤテの絆
一昨日の日暮れだった。家で晩飯の準備をしていたら兄貴がひょっこりと現れた。
――ようハヤテ――
――兄貴。どうしたんだ――
玄関に立ったまま兄貴は台所内をぐるりと見渡した。腰には剣が吊るされていた。
――静かだな。ハルキは?――
――親父は鍛冶屋の家にいってる。あそこのおっさんは相手が人だろうと猫だろうと話が止まんねえからいつも帰りが遅くなるんだ――
――サスケの長舌っぷりは昔からだからな。サユリと姫は小屋か?――
――ああ。だれに用事だよ兄貴――
――お前に会いにきたんだ。どうだ、散歩でもしないか――
散歩なんて珍しい誘いだが断る理由はなかった。
――いいぜ。どうせケイの奴は今日はこないしな――
――親類で集まって夕食会だそうだな。さっき港付近でばったり会って聞いた――
――さすが小さな島だぜ。情報はすぐに回る――
――はは。小さな島か。レイル島はむだに広いから移動が大変だとぼやく島民もいるんだぞ――
――そんなふうに感じる奴は視野が狭いんだよ――
兄貴は眉を下げて笑った。
この島の東西には数十倍もの大きさの陸地が存在する。世界地図を見てみれば自分がいかに狭苦しい地で生きているのかがわかる。
俺は昔から島を飛び出したくて仕方がなかった。一刻も早く広大な大陸に足を踏み入れてみたかった。ふだんはこの絶海の孤島から出るのは無理だが、それでも数年に一度、何人かの島民が西大陸を訪れる機会がやってくる。腑抜けの島民目線でいえば「訪れなければならない」っていい方だけどな。
直近では三年前だった。その年は冷夏で農作物不足に喘いだ。何艘かの船で西大陸へ物資を調達しにいく必要に迫られた。俺は当然志願したが、領長のババアは俺を選ばずにルイを加えた。文句をつけにいったらババアはまじめ腐った態度でこう説明した。
万が一にも水難そして西大陸で人間に襲われるかもしれない可能性を考慮すれば遠征のときまでお前を西大陸に向かわせることは絶対にできん、と。
遠征パーティーの人員が正式に発表されたのは一年前だったがババアは三年前には俺を遠征に出すと決めていたんだな。まあ当然だけどな。
俺と兄貴は家を出た。兄貴の希望で神ノ峰へと向かった。外での活動が終わる時間帯ともあって神ノ峰までの道すがらも神ノ峰に着いてからもだれにも会わなかった。
俺たちはふもとの広野で立ち話をした。
――出発を明後日にひかえての心境はどうだ――
――外に出られる喜びしかねえな――
――そうか――
――兄貴も本当はいきたいだろ――
――いきたいいきたくない以前の問題だ。負傷してしまってはお荷物になるだけだ――
――俺たちにまかせとけよ。兄貴は翼竜の体の治療に専念してくれ。つってもけがの痛みも俺たちが遠征を終えるまでの辛抱だ。すぐに解放される――
化体族が人間になれば化体という存在は淘汰される。兄貴は翼竜に変化しなくなる。俺がレイル島に帰ってくる頃にはもう翼竜の姿は見られない。
――……そうだな――
心ここにあらずな表情と湿った声に、俺はとある疑問が浮かんだ。
――兄貴は本当に人間になりたいのか――
唐突だったために向こうは目を丸くしていた。
――なぜそんな質問を?――
――兄貴の化体はかっこいいだろ。翼竜になれるのなんてただ一人だしな。ほかの奴らの化体には同情するが、兄貴に関してはもったいないとすら思うぜ。兄貴はそう思わないのか――
武骨な顔に軽く笑みを浮かべて再び
――そうだな――
と、返答した。
――だれしも多かれ少なかれ己の化体に愛着を持っている。それでも、人間になりたいというのが化体族の総意だ――
――その中には兄貴の願望も含まれているのか――
どこともなく遠くを眺めていた目がゆっくりとこっちへ向いた。
――もちろんだ――
兄貴は嘘のつけない男。無理をしているなら無理が顔に出てしまう男だ。そのときの顔には嘘の色はなかった。
――ならいいよ――
明鏡止水の心境になっていた。ふざけた会話や軽い話題など不要で、深い部分を語り合うという暗黙の了解が、そのときできていた。ここから兄貴の本音が徐々に見えてくることとなった。
――ハヤテ、悪いな。お前に頼ることになってしまって――
――俺以外にだれがやるっつうんだよ――
俺は生まれながらにしてほかのだれともちがう特別な性質を有している。そして十七という適当な歳に百年懺悔のときを迎える。これはすべて必然だ。俺が島を代表して遠征に出るようになっているんだ。俺以外にやってのける奴なんかいない。俺がやってやる。そう思っていたら兄貴は俺の胸中を見透かしたように口を開いた。
――お前は腕っ節も気持ちもだれにも負けない。昔からそうだった。だから俺たち島の者はずっとお前に期待をしつづけてきたわけだが、正直それがお前の重圧となっていないか心配でもあった。つまりお前は自分がやらなければならないと――
――勘ちがいしてもらっちゃ困るぜ――
兄貴がしらけることを述べるもんで遮ってやった。
――俺は他人からやらされるのが大嫌いなんだ。俺は自分の意思でしか動かねえ。遠征だっていきたいからいくだけだ――
――……もし本意でなければ遠征を辞退する道もあるんだぞといおうとしたが、無粋だったか――
――やぼだな。俺にはそんな道はねえ。第一、俺が辞退するなんて領長のババアがゆるさねえだろ――
兄貴の表情が曇った。異を唱えるのかと思ったが結局何も発さなかった。
――話したかったのはそれか――
俺の指摘に兄貴は
――ん?――
と、小首を傾けた。
――わざわざ神ノ峰までやってくるなんてだれにも聞かれたくない話があったんだろ。遠征を辞退してもいいってことを伝えたかったのか――
わずかな沈黙ができた。冬が終わったとはいえ暗くなればまだ冷える中、山風が衣服を通り抜けていった。
――お前は聡い奴だ――
それだけいって兄貴は神ノ峰を仰ぎ、口をつぐんだ。
肯定も否定もせず。あたらずといえども遠からず、ってところか。いずれにせよ俺の遠征いきに関して諸手を挙げて送り出せないようだ。自分以外の奴にレイル島の命運を担わせてしまう負い目がそうさせてるんだろう。兄貴は外の世界をよく知っているからこそ遠征に関しても厳たる見方を持っている。兄貴こそ自分がやらなければならない使命感に駆られていたのは明らかだった。
俺は兄貴に視線を向けた。このままでは気持ちよく島を出発できない。兄貴にかかわらずレイル島民を納得させるにはこれしかない。
――その子はやがてレイル島の民を救うだろう――
島民ならばこの言葉を知らない奴はいない。
――そういったんだろ、神が――
兄貴は何も反応しなかった。ただただ神ノ峰の頂に目を凝らしていた。その無表情な横顔を見ながら俺は自分の意見を展開した。
――俺は遠征に出るさだめになってるんだ。たとえ神言がなかったとしても俺は遠征に出ることを強く望んでいた。運命と意志が合致している。なんの妨げようがあるってんだ――
兄貴はようやく俺と目を合わせ、頭を小さく縦に振ってから次は深くうなずいた。すべてを受け入れた合図に見えた。
――俺がお前にいえるのは。いいたかったのは。無事に帰ってきてくれと。それだけだ――
堰を切ったように兄貴は語りだした。
――ハヤテ。お前のことは赤ん坊の頃からずっと見てきた。お前が俺を兄貴と呼んで慕ってくれているのと同じく、俺にとってもお前は弟のような存在なんだ。年齢からいったら息子かもしれんがな。だから、俺はお前を待っているからな。無事に帰ってきてくれるのを祈っている――
――遠征の途中でくたばるとでも思ってんのか――
――そういうことではない――
即答だった。
――けどな、ハヤテ。死の影とは不意に忍び寄るものだと、俺は翼竜の体に奇襲を受けて改めて思い知らされた。俺が命拾いしたのはたまたまだ。落下時の打ちどころが悪かったり剣で斬られた場所がちがっていたら土に帰っていた可能性は十二分にあった。油断や慢心が生死を分ける。俺がもっと用心して空を飛んでいればけがの一つもせずに済んだんだ。ハヤテ。お前は強い。皆お前を信じている。だが、お前自身は遠征の途中でくたばるかもしれないと心しておかなければならない。無謀な真似はせず、用心を怠らず、石橋を叩いて渡るくらいで進んでいけ――
兄貴も丸くなったもんだ。つい最近危険な目に遭ったばかりだから無理もねえか。
――俺は突き進む。おびえてたら何も始まらねえ――
――ハヤテ――
兄貴は黄昏と溶け込むかのように暗いものを声と顔に表した。せっかくの助言を俺が完全に否定したと捉えたんだろう。そうとは限らないという意思を次の発言に込めた。
――死ぬのはバカらしいから死なねえようにするさ――
兄貴は俺の言葉を心の中で二回繰り返すくらいの間を取ってから、表情をふっと和らげた。そして腰元の剣帯の紐を解き、くくりつけていた物を差し出した。
――お前に譲る。受け取ってくれ――
珍しく真剣を携えていたのにはそういう意図があった。
――一番大事にしてた剣じゃねえか。いいのか――
――こいつだけでも遠征に連れてってくれ――
レイル島で最上の刀剣が俺の手に渡った。鍔には翼竜の眼と同色の翡翠の石が象嵌されている。
俺は鞘から刃を抜いて空を切り始めた。兄貴は傍観していた。
――どうだ――
最後の一振りを終えた直後に兄貴が問いかけてきた。
――悪いわけがねえよ――
――そいつはよかった――
剣を鞘に収めた。そして兄貴を見ていった。
――俺も兄貴にいっておくことがある――
その瞬間兄貴の顔がにわかに強張った。
――なんだ――
――いい加減に身を固めろよ――
兄貴は今の俺ぐらいの歳に北部の実家を出た。それ以来ずっと一人で暮らしている。親兄弟とは折り合いが悪いらしく、よほどの用事がなければ会うことはないという。家族に縁遠い兄貴。早く新しい家族を作ったらいいんだ。
兄貴は頭を後ろに反らせて笑った。
――まいったな。お前もそんな生意気をいうようになったか。そうだな。お前たちが遠征を成し遂げた暁には嫁さん探しに精を出そう――
――さっさと遠征を終わらせてくるから今のうちから身だしなみを整えておけよ――
――頼もしいな――
兄貴は微笑み、俺の肩に手を置いた。
――皆を代表して礼をいう。ありがとうハヤテ――
――早すぎるぜ。人間になれたときに礼をいってくれ――
――つらい旅になると思う。どうか無理はするなよ――
――そこまで大変な旅になるとは感じてねえけどな――
兄貴は顔に笑い皺を作り、
――素直じゃないな――
と、いった。そして俺の髪をわしわしとかき乱した。他人に頭を触られてゆるせるのは兄貴ぐらいなもんだ。
俺〝太陽ハヤテ〟が一番身近に接してきた大人はムゲンの兄貴だ。太陽の日には俺の親父とお袋はヒトの言葉をしゃべれぬ動物。大人の手が必要な乳幼児のときには、俺の面倒はほとんど兄貴が見てくれた。生活する上でわからないことがあれば兄貴に訊いていたし、剣術だけでなく多くの面で兄貴から教わることがあった。ずっとその背中を追いかけ、ともに遠征に旅立つ日を心待ちにしていた。それだけに翼竜に深手を負わせた人間には沸々と怒りが込み上げてくる。




