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60-4:遠征への出発の陰

 月日は流れ、遠征まで約一年に差し迫った。遠征に出る者の名前が領長のオキノより発表された。ムゲン、ハヤテ、ケイの三名。ムゲンからすれば自分とハヤテはずっと前から確定、残りの一名がだれかを待つ状態だった中、ケイが選ばれたのはもっともな人選であると納得した。ケイはまだ剣の腕は未熟なところがあるにせよ、芯の強さのある子。ハヤテと親しく、大人とも話せて、だれとでも打ち解けられるような心の明るさがある子。旅においてそういった対人能力は大きな助けになる。振り合いのいい三人構成に思えた。ハヤテとケイを守りながら神のもとまでいき、必ずや神にゆるしを得て人間になるのだと、ムゲンは改めて気を引きしめた。


 遠征出発が近くなったある日、ムゲンは領長のオキノに呼び出された。


「ムゲン。重々承知しているであろうが確認しておく。神に会うには、神族である〝王〟の許可が必要となる。その王に会うには、人間の中で最も権力のある者と半人種の中で最も権力のある者、それぞれ〝大公〟と呼ばれるが、この大公二名の許可が必要になる。ムゲン。まずは人間側の大公の許可をもらうために、西大陸に向かうのだ」


 ムゲンは単身、西大陸に向かった。複数で向かわなかったのは、西大陸への用はこれだけであり、あとはすべて東大陸への遠征となるため、複数の必要性がなかったからである。結果として同行者がいなかったのは、この後に起きる難を防げぬ一因となった。


 大公の許可を記した書状をもらってきた帰り道、翼竜のムゲンは人間に襲われてしまった。きたる遠征やあれこれについて、ものを思いながら空を飛んでいたため、人間の気配に気づくのが遅くなった。矢で翼を撃たれ、落下のような形で地面におりて脚を痛め、胴部を剣で斬られた。あっという間に重傷を負わされた翼竜のムゲンは人間二人組に捕まりかけたが、なんとか逃げ、レイル島まで帰った。獣医のルツァドからその体では遠征いきは無理だといわれた。無理をして遠征に出たところでハヤテたちの足を引っ張ってしまうことになると領長のオキノにさえいわれた。ムゲンは遠征いきを断念せざるを得なかった。自分を情けなく思った。自分は遠征にいくものだとずっと信じていて、それが自分が生まれてきた意味なのだとさえ思った日もあったが、現実は意外にもそうはならなかった。運命とは、人生とは、思ったより簡単に別の道にそれるのだとムゲンは思った。


 ムゲンの代わりに遠征に出るのはユリアに決まった。彼女はハヤテとケイと心を通わせている。自分たちで状況を変えていくのだという気持ちが人一倍強く積極性がある人物。遠征の仲間として心強い存在になってくれると島民たちは応援した。とはいえ、翼竜の不参によって遠征はかなり難儀な道になった。空の移動が不可能になり、東大陸まで直行できたものが西大陸を回り道しなければならなくなった。人間が住んでいる西大陸を通るあいだに様々な困難や問題が発生するのが予想される。遠征にかかる時間と労力、危険は増える。翼竜の重症を目にした領長のオキノが「神よ。試しておられるのか」と天に向かってつぶやいたが、近くにいたムゲンは、試しているのだろう、と心の中でつぶやいた。


 遠征出発の二日前になった。ムゲンはハヤテに会いにいった。二人で神ノ峰のふもとの広野に移動した。


「ハヤテ、悪いな。お前に頼ることになってしまって」ムゲンは詫びた。


「俺以外にだれがやるっつうんだ」〝太陽ハヤテ〟が自信たっぷりに返した。


 十七歳になったハヤテ。立派に成長した。今や化体族のだれよりも期待されている。


 もしハヤテが皆からの期待によって無理して遠征に出ようとしているのであれば、つまりもし遠征を辞退したい気持ちがわずかにでも彼にあるのならば、全力で協力するつもりでいたムゲンだった。しかし当のハヤテからはそんな要素は微塵も伝わってこない。


「その子はやがてレイル島の民を救うだろう」


 ハヤテが唐突に口にした言葉にムゲンの心臓がぎゅっとつかまれた。


「そういったんだろ、神が」


 それは領長のオキノがいった。この島の一番の権力者が物語を作ったのだ。ということを、ムゲンは教えられるはずもない。


「俺は遠征に出るさだめになってるんだ。たとえ神言がなかったとしても俺は遠征に出ることを強く望んでいた。運命と意志が合致している。なんの妨げようがあるってんだ」


 ムゲンはハヤテと目を合わせた。ムゲンは小さくうなずき、もう一度深くうなずいた。


 ハヤテは本気だ。心の底から遠征に出ることを望んでいる。やらなければならない義務感の類いもあるかもしれない。それでも、今ここに立っているハヤテが自ら望んで遠征に出ると、強い眼差しではっきりと主張しているのだ。それを、他人が自己の安心感と満足感を得るために、彼の望みとは別の進路を望むのは、不誠実だ。彼の意志を尊重し、彼を送り出すのが、しなければいけないことだ。


「俺がお前にいえるのは。いいたかったのは。無事に帰ってきてくれと。それだけだ」ムゲンはいった。「俺はお前を待っているからな。無事に帰ってきてくれるのを、祈っている」


 ――無事でいてくれればいい。帰る場所としてこの島を選ぼうがそうでなかろうが、ハヤテが無事でいてくれれば、それで。ハヤテをどうか守ってくれ。


 ムゲンはハヤテに自身の剣を渡した。翼竜の眼と同色の翡翠の石が鍔に象嵌されている、大切な剣。この剣が、ハヤテとともに遠征に出る。


 出発の日になった。遠征に出る三者が船に乗り込んだ。ハヤテは堂々たるたたずまいでいる。ケイは緊張が隠せない面持ち。馬のユリアははつらつとした気力が全身にみなぎっている。


 港に集まった大勢の島民たちに見送られ、船が出発した。大歓声が響く中、ムゲンはただ黙って船が広い海に進み出るのを見ていた。最後までハヤテと目が合っていた。


 船が見えなくなった。ぞろぞろと人々が散っていく。


 領長のオキノはじっと海を眺めたままでいる。ムゲンは後ろから眺める。領長のオキノは年老いた。髪の毛の色は白く量は少なくなった。背がいくらか縮んだ。力のある者も必ず衰えると教えられているようで、ムゲンは哀愁を感じずにはいられなかった。


 いよいよ港に二人だけになり、ムゲンはオキノの隣まで歩み寄った。


「旅立ちましたね」


「ムゲン」オキノは潮風を飲み込んだ。「正直にいえば、わしは今、不安の念が湧いている」


 オキノの弱気な発言をムゲンは初めて聞いた。


「ハヤテがレイル島で育つことになった責任はわしにある。十七年前、おぬしは人間の男児を見つけ、わしのところに連れてきた。わしは、百年懺悔の遠征に出られる若き強き男が現れたと、一瞬にして輝く希望の虜になった。その輝く希望のために、後戻りできぬ判断を下したのだ」


 ムゲンは広い海を見てから、領長のオキノを見た。「領長は、何を不安に思ってるんです」


 オキノは真っすぐ海を見ている。「たとえれば、枝を矯めて花を散らす、かのごとく」


 ムゲンには理解できなかった。「どういう意味です」


「もう少し付け加えれば、こうか。枝ぶりをよくしようと挿し木をし、花を散らす結果を生む、と」


 風が吹いて海に何かが落ちた。それは島民が作った旗だった。ハヤテ、ケイ、ユリア、三人の名前が大きく書かれているそれは、係船柱に棒付きでくくりつけられていた物だったが、外れて風に飛ばされて海に落ちた。


「今、そんな不安がある」そういって、オキノは港から去っていった。


 翌日、翼竜のムゲンは空を飛び、広大な海面に漂っていた旗を拾い上げた。旗に書かれていた名前はもう、にじんで読めなくなっていた。彼の名前は本当はハヤテではないのだと、いわれているような気がした。


 ムゲンは願った。ハヤテが真実を知ること。ムゲンも含めたレイル島の関係者がおこなってきたすべてのことをハヤテ本人が知って、その上でハヤテが自らの意思で未来を決めることができるよう、切に願った。

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