60-2:オキノ領長の視点
「五歳のハヤテは解放されるべき対象だ。重い荷物を背負わせる必要はない。ハヤテの記憶を忘れさせた代償等があるとするならば、それは我々が背負っていくのだ」オキノは鷲鼻を指で引っ張り、すんと鼻腔に空気を含ませてからいった。「ムゲン。武器を持つ者は背負わされる者なのだ」
オキノの言葉はムゲンにずしりと落ちた。まるで武器やら防具やらを装備させられて体が重たくなったかのようだった。オキノがいったように、武器を持たない幸せもあると、たしかにそれは一理あるように思える。
「ムゲン。こう思っていたか。我が領長は自分の勝手な都合で、ハヤテの記憶を奪ったのだと」
ムゲンはすっかり黙ってしまった。
「まちがいではない。私は己の、善意の都合で、ハヤテの同意なしに働きかけをした。おぬしと同じようにな」
ムゲンはゆっくりとオキノの目を見た。「私と、同じようにとは?」
「ムゲン。人間の赤子を神ノ峰の頂上で見つけたとき、人間と半人種は交わってはいけないという自然の摂理からすれば、お前はすぐにでも赤子を手放すのが自然に従ったやり方だった。私は赤子を西大陸の港に置いてくるよう示唆した。しかしおぬしは拒否し、人間の赤子を自分が育てるのだと決意した。本来の自然のあるべき形から反して、ハヤテは現在レイル島で育っている。こういう結果になったのも、ムゲン。おぬしがハヤテを救いたかったからだろう。ハヤテのためになると思ったからだろう。そこにハヤテの選択は存在せず、おぬしの善意の都合によってこうなったのだ。私とて私の善意の都合でハヤテに術をかけさせたのだ。私にはレイル島の島民たちの安全と平和を守る都合がある。『島民』には当然ハヤテも含まれる。ハヤテがすくすくと無事に成長するのと同時に、すべての島民が不安や恐れを感じずに平和に暮らせるよう、私は尽力しなくてはならない。だからハヤテが半人種に欲情しないように術をかけさせた。そしてハヤテ自身が己は化体族であると信じるよう、二つの人格の切り替わりの癖をより強化させた。さらに西大陸に出向いたことは忘れさせた。すべてはハヤテを化体族として、健全に無事に育てるため。おぬしも私も、ハヤテや島民のためを思い、善意の都合でハヤテをここまで育ててきたのだ」
ムゲンは大きく呼吸をした。
「ハヤテは化体族として強く成長するのだ。そして十七の歳におぬしと百年懺悔の遠征に出、化体族を人間にする。乗りかかった船は、もうその岸に辿り着くまで止まることはない」
ムゲンの心に乾いた風が吹いた。潮風のようなしょっぱさがムゲンの鼻を刺激した。
「……今どれだけ立ち回ろうとも、いずれ、ハヤテはすべてを知るときがきます」
オキノはうなずいた。「そうなるのが必然だ」
「時間をかけるほど、手をかけるほど、ハヤテが真実を知ったときの……崩壊は……、大きくなるのではないでしょうか」崩壊という言葉は、口にした本人であるムゲンの胸を潰した。
「どの道知るのだ。であれば、最も重要なのは、いつ知るかだ。無垢な子供の時分に知るのか。精神がある程度大人になってから知るのか。私はどう考えても後者であるべきと思うがの」
島一番の権力者のオキノはいつも悩まずに淡々と意見を述べる。話し相手のほうはその煽りで己の中に迷いが出たり自信がなくなったりする。
ムゲンは両手で頭を抱えた。「領長は……なぜ、そこまで徹底的なのです」
「ん?」
「なぜそこまで、化体族が人間になるために、徹底的にやれるのです」ムゲンにしてみれば半分皮肉のつもりだった。「なぜそこまでして、人間になりたいのです」
「今さらその答えが必要か?」
たしかに今さらな感じはある。
「知りたくなりました」
「我々は元々人間だったからだ」オキノはさらりと答えた。
それはムゲンの期待からは外れる回答だった。
「さらに加えれば。人間に戻ることは、我々の祖先が望んできたことだからだ。そして未来の者のためでもある。いずれこの島だけで暮らすのが困難になるときがくるだろう。そのときに西大陸に自由にいけるようになるには、あるいは人間と対等に貿易するには、人間になっていなくてはならぬのだ」オキノはよどみなく答えた。「こんな理由では不服だったか?」
「いえ」不服そうな顔をしていたのだろうかと、ムゲンは気持ち表情を柔らかくした。「ただ、それは島を治める方の意見といいますか、私は、それ以上の何かが、領長の中にあるのではないかと思ったものですから」
「個人的な理由、ということか? 領長としてではなく、オキノ個人として、この胸を突き動かすものがあるのかどうかを、訊きたいのか」
「はい」
「ちなみにムゲン。おぬしも人間になりたい気持ちはなかなか強いほうだと私は認識している」
「はい。そのとおりです」
「おぬしにはあるのか。人間になりたい、個人的な理由が」
「……個人的といいますか、ほかの者とちがう理由という意味でのといいますか、まあ、個人的に、あるにはあります」ムゲンはしどろもどろになった。
「個人的な理由といえるかわからぬが、ほかの者とはちがう何か、という点でいえば、私もあるにはあるという答えになる」
常に頭と口とが滑らかにつながっていそうな領長に対して、しゃべればしゃべるほど気持ちと口とがうまく合わなくなっていく自分にムゲンは歯がゆさを感じた。
「それはたとえれば、そうだ。ハヤテの剣の腕が同年代のほかの子に比べて際立って優れているのと、根本は同じところにある」
ムゲンは小首をかしげた。「たしかにハヤテの剣の腕は優れています。しかしそれとなんの関係が?」
「ハヤテの剣の腕がなぜ優れているのか。身体能力や勘のよさなど、生まれ持ったものもあるだろうが、一番の大きな理由は、やらされているからだ。毎日毎日鍛えなければならない環境にある。またそれが自分の使命であるかのように本人は感じている。その環境がハヤテを強くしている。私も生まれたときから祖父や父より毎日のようにいわれてきた。いずれ領長になるお前が化体族を人間に戻すのだと。それがこの時代に生まれたお前の使命なのだと。毎日毎日、いわれてきたのだ。そうして蓄積された私の使命感や、なさねばならぬある種の強迫観念は、他人から見れば、徹底的だと評されるほどに、強固なものなのだろう」
ムゲンは思わず同情の言葉をかけそうになった。自分やハヤテだけでない。この人もまた物心がついた頃から期待され、背負わされてきたのだ。
「……帰ります」ムゲンは立ち上がった。
領長のオキノに同情の言葉をかけるようなことはしたくなかった。
ムゲンが出ていき、暗い領長室に一人になったオキノは蝋燭の明かりをじっと見つめていた。椅子に座り、机に肘をついたまま、ただ蝋燭の明かりだけを見ていた。
オキノはその後、蝋燭の明かりをじっと見つめるときと同じ眼差しで、特別な少年ハヤテを一定の距離から注意深く観察しつづけた。一般的に少年少女が異性を意識し始めるような年頃になってもハヤテからはそういった性の兆しが見えてこなく、また五歳のときの西大陸の旅を彼自身が思い出す気配すらないこと、その他あらゆる細かい点を含めて検証してみた結果からも、彼には五歳のときの術が効いているのだと確信した。性の兆しが見えてこないとはいっても、それはレイル島の女性つまり化体族の女性に対してであり、ヒトの女性の肉体ということには並の男子同等の興味関心があるのが窺えた。その展開はまさにオキノが例の術者に依頼したとおりであり、ハヤテに術が効いていないと心配するような材料は湧いてこなかったのである。そして、観察対象のハヤテは紅茶等がいつからか苦手になっていた。紅茶等というのを突き詰めてみれば植物に由来する香りの強い物が苦手であると分析できた。彼がそういった類いを苦手になったのは、五歳のときの独特の香が焚かれている部屋で術をかけられた強烈な体験が影響しているだろうとオキノは考えた。あの日にまつわるあれこれを記憶としては持っていなくとも、潜在意識には深く刻まれているのだとオキノは断定し、頭で考えるのではなく生理的なところに浸透している状態はより盤石であると考え、そのようにハヤテはもう盤石な状態にあることから、また、彼の名付け親でもあるムゲンを敵に回したくないことから、ハヤテに去勢を施す考えは外してもいいだろうと思い、オキノは実際外した。――のちに新たなよそ者が現れた。獣医を名乗るルツァドという老人が島にふらっとやってきた。西大陸の北部の領に住んでいた彼は人間社会に疲れたので島に移住したいと申し出てきた。動物の化体を持つ者が数多くいるレイル島で獣医の存在は魅力的ではあった。彼の年齢や、まぶたが大きく腫れたおぞましさ感じる見た目、そして人嫌いな性質から、化体族と交わってしまう危険性は無に近いと判断したが、それだけで移住を認めるわけにはいかなかった。去勢するならよしと条件を出したところ、彼は元より持っていないのを知った。持っていない理由はどうあれ、その事実を確認したオキノは特例で彼の移住を認めた。島の者はその獣医が初めてレイル島に住む人間だと思い込んでいるが、すでに、本人すら人間と認識していない人間が、住んでいる。オキノはますます知らぬ者は幸せ者であると強く感じるのであった。




