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59-5:術

「私は……」ムゲンは次の言葉が思い浮かばなかった。


「あんたが望まないのであれば、こっちは実行できねえ。あんたの返答次第だ」


 ブッチギールは商売人としてまともな取引をしてくる。予想以上にまともだから困惑する。催眠術などは信じる者を食い物にしたうさんくさい商売であり、芝居あるいはそれらしい雰囲気から成り立っている眉唾物でしかないというのがムゲンの理解だった。しかし一瞬でハヤテを眠らせることができた。自分が知らないだけで催眠術が根拠のある学問か何かであるのならば、その催眠術を簡単にかけるというのは考え物である。しかもかけられる者はまだたったの五歳。


「五秒以内に答えを出しな。五、四……」


 ムゲンは息を切った。視線こそオキノを真っすぐには捕らえてはいないものの、しかしムゲンが今見えているのはオキノだけであった。


 我が領長オキノはハヤテに去勢を施すと語っていた。我が領長ならやりかねない。催眠術こそが去勢を防ぐ策。


「――お願いします」


 残り一秒を切ったところでの回答だった。


 ブッチギールは寝ているハヤテを連れて部屋に入っていった。




 閉められた戸からぶつぶつとブッチギールの声が漏れる。廊下までは意味の通じる言葉として伝わってはこない。煎じ詰めれば、その程度には防音されているということでもあった。


 急に甲高い叫び声が上がった。下を向いていたムゲンは素早く顔を上げた。ムゲンの耳を抜けたのは、純粋なる恐怖を素直に表現して助けを求めるような、五歳の子供らしい、叫び声だった。同時にそれは太陽の日のハヤテらしからぬ叫びでもあった。ハヤテの声でまちがいないが、ハヤテは中で何をされているのか。ムゲンは思わず部屋に入っていきそうになった。が、オキノに止められ、こらえた。


「遅いですね……」


「まだ五分も経っておらん。焦らずに待つのだ」


 中でしゃべっている言葉を把握できない状況はムゲンをやきもきとさせる。どれくらい時間がかかるのか不明なのがまた焦れったい。ムゲンは下唇を強く噛んだ。下唇の痛みが鋭くなってきたところでいったん力を抜いた。そのときだった。


「――れろ」ブッチギールの声が漏れた。


 ムゲンの背筋に冷たいものが走った。完全には聞き取れなかったが、とても不穏な響きとしてムゲンの耳に入ってきた。命令をあたえているような「押す力」みたいな調子がありつつ、それと同時に何かを己のほうへ引っ張っているような「引く力」みたいなものも音として出ていた。それら両性の同時的な発生は、たとえば、息の吐くと吸うを同時に聞かされているようであり、不均衡なような巧妙なような未知なる不気味さが含まれていて、とにかくブッチギールの短く不完全な一言からとても不穏な気持ちにさせられたのだった。


 ムゲンの呼吸がにわかに浅くなった。家中に漂う甘くてつんと刺激のある香りがさらに胸を不安にさせるかのようである。部屋の中から声はしなくなった。ムゲンが唾液を嚥下する音が廊下に大きく響いた。


 戸が急に開いた。


「終了だ」ブッチギールがハヤテを抱えて出てきた。


 ハヤテはするりとブッチギールの腕からおりた。床に着いた足は動かない。その場に立ち止まって一点を見つめている。


「ハヤテ? 大丈夫か?」ムゲンが問いかけた。


 ハヤテは返事をしなかった。ぼうっとしている。


「今は寝惚けているような状態だ。二、三日経てば治る」


「そんなに?」


「なんせけっこうな仕事だったからな。変なもんを飲ませたわけじゃねえから安心しな。心配ならこの家の中をくまなく調べりゃいい」


 ムゲンは静かに息を吐いた。施術の部屋には二つの長椅子しかなかった。変な薬のような物は置いてないことは目視できる範囲でとうに確認済みである。


 会計の段になった。ブッチギールから高額な料金を請求された。領長のオキノがいわれたままの金額を払おうとしたのでムゲンは黙っていられなかった。


「失礼ながら、催眠術は確実な効果が期待できるものではありません。本当に効いているのか、どの程度効いているのか、今は確認しようがない。それでこの金額というのは、適正ではないと思います」


 ブッチギールは下に曲がっている口角をわずかに上げた。「催眠術と一緒にされるとはな」


「え?」


 領長のオキノはお金が入っている鞄に手を差し入れたまま、二人のやり取りを静観している。


「それはどういう意味です」


「催眠術ってのは、()()()作り出したものだ」


 ムゲンはブッチギールの緑色の瞳に目がいった。翼竜の眼と同系の色。珍しい。このハーメット領にきてから数多くの人間を見たが、このような色の瞳を持つ者はいなかった。どこの出身なのか。


「つまり、どういうことなんです」


「ムゲン。落ち着くのだ」


「百聞は一見にしかず」ブッチギールがしゃがんだ。「この子供の膝は、わんぱくの証だな」


 ハヤテの日焼けした膝にブッチギールの手が添えられた。その手から突如として光が発生した。すると膝の上のすり傷がすっと消えてなくなった。


 ムゲンは息をのんだ。


「催眠術で()()ができるなら、ぜひ見せてほしいもんだ」


 ムゲンもオキノも声を出せないでいる。膝の傷が消えてなくなったハヤテは、人形のように一点を見つめてぼうっとしている。


「今の分の料金はおまけしておく」


 ムゲンの頭の中は正常に働かない。というよりは、傷が突然消えたという目の前で起きた不自然な事実に対して到底論理は当てにならなく、頭には意識がいかず、思考は主人の監視や統制なしに勝手に頭の中で泳いでいる状態だった。その分、といってもいいだろう、腹の底から湧き上がる大きな懸念だけはしっかりとムゲン自身が感知できた。


「あなたは、人の体に、肉体に、変化を生じさせることができるのか」


「――ムゲン。ちがう」オキノが前のめりになるムゲンの肩をつかんだ。


「顔が青いぜ」ブッチギールが顔色を変えずにいう。「あんたの問いへの答えなら簡単だ。できる、だ」


 ムゲンはしゃがんだ。ハヤテの下半身の服を一気に下げた。


 ――全身の力が抜ける勢いでムゲンは息を吐いた。


「なるほどな。欲情しねえよう元から断ったと、そんな心配をしたってわけか」


 無言でハヤテの服を元に戻すムゲン。


「いったろ、今のはおまけだったと。あんたの疑いの心を払うための、本当に気まぐれな、見せ物だった」ブッチギールが説明する。「人の肉体を直すのは、こっちの生命力がかなり奪われる。だから、客に頼まれようがカネを積まれようが、体に関する要望はいっさい受けねえ。いっさいだ。こちとら受けつけるのは、精神や心の要望のみよ」




 三人はレイル島に帰った。ぼうっとしていたハヤテは家に着くなり一日以上の長い睡眠をとった。


 目を覚ましたハヤテは西大陸での出来事をきれいさっぱり忘れていた。西大陸に赴いた記憶すらなくなっていた。


「ハヤテ。今度、競技場にいってみるか」ムゲンは鎌をかけてみた。


「競技場? なんだそれ?」


「人や動物が戦う場所だ」


「どこにあるんだ?」


「……島の外だ」


「島の外にいけるのか!?」ハヤテは目を輝かせた。ハーメット領で遠くから競技場を見たときと同じ輝きだった。「いつだ? いきてえ!」


「ハヤテは島の外に出たことがないもんな」


「ああ。いついくんだ? いけるのか?」


 ムゲンはふっといろいろな部分の力が抜けた。「そうだな。せめてハヤテが十歳を超えたら、だな」


「ちっ。なんだよ。全然今度じゃねえ」


「はは。悪かったな。じゃあ、またくる」ムゲンは精一杯に笑顔を作ってハヤテと別れた。


「あっ。ムゲンさん!」自宅の庭にて、その少年、ケイは、太陽の光を浴びながら座って読書をしていた。


「よう、ケイ」ムゲンは挨拶した。


 笑顔を見せた幼きケイはすぐにしおれた表情に変わった。「ムゲンさん。ハヤテは大丈夫かな。ここ何日か、ずっと具合が悪くて寝てるって」


 当初は秘密の遠出を隠すためにハヤテの両親が偽っていただけだったが、家に帰ってきたハヤテは本当に寝込むことになった。


「さっきハヤテの家にいって見てきた。今はすっかり元気になった。もう遊べるぞ」


「よかった!」ケイは満面の笑みになった。


 ムゲンは頬がゆるんだ。ハヤテと同い年で一番仲のいい、ケイ。ハヤテがいい友達を持ててうれしく思う。


「読書か?」


「はい」えへへ、とケイは持っていた大きな本を前に差し出した。


 図鑑のようなそれは、半人種に関する本だった。様々な種族が絵と文で紹介されている。


「本当にケイは本好きだな。お父さん譲りだな」ざっと目を通したムゲンは、この家にきた目的を切り出す。「そのお父さんは、家にいるか?」


「います。呼びますか」


「大丈夫だ。ありがとう」


 しっかりした子だ。そう思いながらムゲンは一人で家の中に入っていった。真っすぐ向かうは書斎。


「はっはっは。記憶の喪失についてか」ケイの父親のケイゴは爽やかな笑顔でムゲンの用件を繰り返した。


「そうだ。突然に失われることもあるのかと、ふと疑問に思ってな」


 ケイゴは学舎にて子供たちに勉強を教えている。知識が豊富な読書家だ。


 一方、こうやって本棚に囲まれることには無縁なムゲン。難しい物事について、たまに彼に知識を求めにくる。


「はっはっは。もちろんある。外部からの物理的な衝撃によって脳が損傷し、記憶の回路にも影響を及ぼしてしまうことがある」


「うむ……」ムゲンは小さくうなずいた。


「はっはっは。つまり、鈍器で頭を殴られたり、高い場所から落っこちて頭を打ったり、そんな衝撃が原因で記憶が飛ぶことがある」


「なるほど。わかりやすい」


 そのほかにも、老化、発熱、病気、毒や寄生虫などが原因になることもあるとケイゴは爽やかな笑いを添えながら述べた。そして心が原因での記憶の障害もあり得るという話になった。ムゲンは関心を持たずにはいられなかった。


「精神的な苦痛がかかりすぎてしまっての記憶の喪失。それは苦痛から逃れるための、自衛のための記憶の喪失ともいわれている。そんな例も世界にはあるそうだ。はっはっは。ヒトの仕組みとはおもしろいものだ」


 これだ、とムゲンは納得した。西大陸に出向いた記憶をハヤテがなくしたのは精神的なものが影響しているのだと確信した。五歳にはあまりにも強烈すぎる旅だったのだ。まったく慣れていない場所にいったことや変わった人物に会って怖い思いをしたこと、それらが心の負担や大きな苦痛となり、その苦痛から逃れるために、自衛をするために、記憶の喪失が起きているのだと、ムゲンは考えた。


 この時点では、ムゲンはそう考えるしか術がなかった。

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