58-4:日の目
「――サユリ。出なさい」
突然現れた領長のオキノの指示に豚のサユリは耳を疑った。
その言葉は冗談などではなかった。檻の鍵が開けられた。
豚のサユリは何が起きたのかわからず戸惑った。なぜ突然檻から出られるようになったのか、あるいは出なければいけない状況になったのか、思い当たる節はまったくない。
豚のサユリは檻と檻のあいだの通路を震えながら歩いた。途中、犬を化体に持つ男の檻の前を通りかかった。この地下牢にて、サユリ以外に唯一正常に言葉を発せる人物である。とはいえヒトの姿になる日がちがうのでサユリは彼とは直接は会話はできず、たまにそれぞれが言葉を投げることがあれば不満や皮肉などが主であり、互いに親しみとは逆の感情をぶつける関係性になっていた。
サユリは初めて彼の顔を見た。犬を化体に持つその男は三十五歳くらいと聞いていたが、その風貌は初老のようにも見えた。彼は檻の格子をつかみ、不公平だのなんだのわめいてはサユリに向かって汚い言葉を投げかけた。豚のサユリも鳴き声を上げて反発した。領長のオキノが「やめよ」と両者に注意した。
豚のサユリはオキノに抱えられて暗い外を移動した。役所の領長室に入ると、ムゲンが長椅子に座って待っていた。彼は赤ん坊を抱いている。
「サユリ。この坊の母親になるのだ」
領長のオキノの口から事の顛末が語られた。神ノ峰の頂上に置かれていた人間の男児。ここレイル島で化体族として養育するという。領長のオキノは男児の母親となる人物を探しており、その適任者として白羽の矢が立ち、自分はこうやって外の空気を吸えるようになったのだとサユリは知る。
この子が助けてくれたんだ。この子が私を絶望の淵から引き上げてくれたんだ。豚のサユリはまばたきせずに赤子を見つめた。その目からは水分が流れ出た。
「名はハヤテだ」名付け親のムゲンがいった。
「サユリよ。ハヤテはおぬしの子だ。一緒の家に住み、お前がハヤテを育てるのだ」
サユリの心に驚きはあっても嫌な気持ちなどいっさいなかった。再び外の世界を見る前に独房の中で死んでしまうのではないかとさえ思っていた。ハヤテ。神が授けてくれた、尊き我が子。
「そういえば」ムゲンはハヤテの衣服のポケットからとある物を取り出した。
小さな水晶玉だった。
「ハヤテを見つけたときから、ハヤテが手に握っていた物だ。サユリ。大事に保管しておいてくれ」
「玉に小さな穴が開いている。この島でそのような高度な加工ができる者はおらぬ。いわば外の世界の証拠となる物でもある。ほかの者には見つからぬようにな。ハヤテ本人にもだ」
豚のサユリはうなずいた。この島の物ではないきれいな水晶玉。美しい赤ん坊と重なるようである。サユリは何かその、小さく、丸く、美しい、遠くからの賜に、陶酔するような心地であった。
「さて。今後のことだが」
オキノの重さを含んだ声に豚のサユリの体は正直に強張った。
「お前たちが安全に暮らすには父親が必要だ。サユリ。ハルキと夫婦になりなさい」
汚れた作業衣を着た無精ひげの彼の姿が思い出された。
「ハルキは坊と同じ黒髪。口が堅く信用に足る人物。これ以上ない適役と見込んで事情を説明したところ、ハルキは承諾してくれた」
それは縁談の打診ではなく決定事項の報告だった。サユリは自分の意見など求められていないと知った。自分は物申せる立場ではないと理解した。自分には断る権利などない。選ぶ権利などない。家畜以下に成り下がっていた自分が家庭を持てるようになるなんて身に余る幸福ですらあるのだ――。領長のオキノを筆頭とする体制側のやり方に散々憤りと批判の念を募らせていたサユリだったが、地下牢から解放してもらった時点でそういった敵愾心は忘れるばかりか、感謝の気持ちすら芽生えていた。
ハルキのことは人として好きであると受け入れた瞬間、サユリは同じシロハゴロモ亭で働いていたチズルの顔が浮かんだ。彼女はハルキに恋をしていた。彼女の気持ちを思うと心が痛むが、サユリにはどうしようもなかった。
後日、母となったサユリと化体しない赤子の男児がお披露目された。島民たちは夢想だにしなかった展開にレイル島の大地を揺らすのではないかというほどの驚きの反応を示した。
領長のオキノが説明した。
「サユリがハルキの子を身ごもって間もなくに神のお告げがあった。今、諸君らにも神の言葉を共有せん。神はこう述べた。――その子はやがてレイル島の民を救うだろう。祝福をあたえるのでわたしの傍らでその子を産みなさい――。事の重大さを悟った私は、サユリの身が絶対的に守られる場所に、つまりは静養できる隠れ家に、サユリを住まわせた。この前代未聞の案件は一部の者だけの秘匿とした。諸君らには何も伝えずに申しわけなかったと思っている。だが、決してゆるがせにできぬ重大な使命を全うするためだったと理解してもらいたい。かくして万全の準備を整えたサユリは、翼竜のムゲンの飛行能力を借りて神ノ峰の頂上に降り立った。そして神の慈しみに触れながら、無事に健康な男児を出産した。化体しない、特別な子である。つまり同じ肉体を毎日鍛えることができるのだ。十七年後の遠征のときには強き男となり、我々化体族が人間に戻るという積年の大望、それを盤石なものにする希望の光となるであろう」
領長のオキノの演説は力強く、本当の事実を知るムゲンでさえ神聖な雰囲気に少し引っ張られそうになった。
何も知らぬ島民たちは熱心に架空の話に耳を傾け、何より人間の異性とは口を利くなと命を下したばかりの領長がまさか人間の子を育成するなど思うはずもなく、島一番の権力者が作り出した物語をある者は感動の涙を流しある者は震えながら天を仰いで信じるのであった。
サユリの無事を泣いて喜んだ元同僚のチズルだったが、ハルキとの結婚そして出産の話を聞いてひどく心が冷めた。サユリが彼との子を産んだということは、自分に対してハルキへの想いを冷やかす素振りをしていた時分から二人は親密な間柄であったと、そう思い至っては、なんて腐った根性なのだとサユリに幻滅した。また、サユリが単に静養していただけならせめて世話になっていたシロハゴロモ亭にはいうべきだったと、そうすれば女将が無理をせずに済んだのだと、憤った。シロハゴロモ亭の女将はサユリが行方不明になってから、衰えた足腰で彼女を探し回っていた。無理がたたって女将は肺炎となり、急速に心身を弱らせては帰らぬ人になった。その事実を知ったサユリは膝からくずおれた。
不幸はこんなところにも起きた。食事の配給や衛生の管理のために地下牢に定期的に入っていた役所の事務員の男性二人が相次いで急死した。彼らをよく知るムゲンは突然の出来事を不可解に思うも、彼らの死には他殺の影は見られなかった。間もなくして地下牢に長年閉じ込められていた男も独房の中で死んでいるのが発見された。化体の犬の姿で複数の色の液体を吐いて死んでいた。男は生前、不調を申告してはいなかった。
こうしてサユリが地下牢に入っていたことを知る者は、サユリ本人と、夫のハルキ、領長のオキノ、そしてムゲンの四人のみとなり、レイル島が抱える秘密の防衛はいよいよ強固なものとなった。
その四人にとっても思いもしなかった変化が起きることとなる。化体族として育てられ始めた人間の男児ハヤテは、半年が過ぎた頃から一日ごとに性格が入れ替わる傾向を見せ始めた。




