58-2:審議
「島を去ります」
その発言に領長のオキノだけでなくムゲン自身もにわかに驚いた。頭の中で言葉を決めるより早く口が自然と動いていたのだった。
「島を、去るとは?」オキノはゆっくりと質問した。
ムゲンはうなずいた。「そのままの意味です。西大陸の港にこの子を置くことはできません。この子を再び置き去りにすることはできません。そう命じられるのであれば、私はレイル島を去ります」
ムゲンは自分の即答は出るべくして出たものだと理解した。腹は固まっていたのだ。どの瞬間に明確になったのかは定かではないが、ここに着いた時点ではもう、自分が赤子の面倒を見る気持ちは固まっていたのだ。
「ムゲン。お前は余人をもって代えがたい存在。レイル島は決してお前を手放すことはできん。それがわかっていての発言ならば、実直なおぬしらしからぬ、ずるいやり口、といえよう」
「はったりなどではありません。私はこの男児を育てます」
領長のオキノはすぐにかぶりを振った。「無理だ。人間の子供をこの島で育てるなど異を唱える者のほうが多いに決まっておる。仮に反対の声を押しきって断行したところで、どうだ。この坊は幸せか? この坊は健全に育つか? 自分一人だけが皆とちがうと劣等感を持ち、疎外感を抱き、心のゆがみが生じるかもしれんぞ。島民も不安や苦労を抱えるかもしれん。本人も周囲も不幸になるのでは、お前の真っすぐすぎる優しさの代償としては、とてつもなく大きい」
「それでは――」
「それに。その坊が人間として最悪な結果を生み出したら、どうする」
人間として最悪な結果を生み出すとはつまり、化体族の者と交わりを持つことである。たしかにその可能性から目を背けてはいけない。
「それでは」ムゲンは一度遮られた発言を再び切り出す。「百年懺悔の遠征のときにはレイル島に戻ってきますので、無人島など人間の立ち入らない地で私がこの男児を育てます」
オキノの目つきが険しくなった。「本気か」
「はい」
机の上でオキノは腕を組んだ。蝋燭の明かりがオキノの顔に複雑な影を作っている。
ムゲンは隣で仰向けに寝ている赤子に目をやった。領長のオキノのように雄弁に自分の中にあるものを説明できない。初めて会ったばかりの赤子をどうしても守りたいという気持ちを、感情的ではなく静やかに強いこの気持ちを、どのような熱の入れ方でどのような語り口で説明すればいいのかわからなかった。
「百年懺悔の遠征、か」中年の女性の体のオキノは若干高い声でつぶやいた。
ムゲンはなぜ今その言葉をオキノがつぶやいたのか不思議に思ったが、自分が今しがた口に出したからだと思い出した。次に不思議に思ったのはオキノの声が若干高かったこと。オキノにしては珍しく浮ついた印象だった。
「ムゲン。まず今のおぬしの提案を却下する。育児経験のないおぬしがたった一人、無人島で子を育むなど片腹痛し。乳汁はどうする。坊が急な病気に罹ったらどうする。おぬしが大けがでもした場合にだれが坊の面倒を見てやれる。しかもおぬしは二日に一度は翼竜なのだぞ。手には鋭利な爪。小さな者など容易く踏み殺せる体重。育てるどころか死なせてしまう可能性のほうが高いと思うがな」
ムゲンは唾というよりは空気を飲み下した。大した意見も浮かばぬうちに「それは」と言葉を発したところ、オキノが手で制した。
「それはともかくとして、私は一筋の光明を見い出した。頭の中を整理する。待っておれ」
ムゲンは待った。議論での流れはやはりオキノのものとなる。
一分後にオキノは沈黙を破った。「その坊をレイル島で育てるのだ」
ムゲンは島一番の権力者の裁決をただ真顔で受け止めた。その心を聞くまではいかなる反応も示せない。
「光明というのは?」
「人間であるその坊は毎日同じ体で鍛えることができる。今のうちからおぬしに就いて剣術を懸命に学べば、優れた剣士になるのは約束されたようなもの」
ムゲンはすやすや眠る男児に目を落とした。先ほど領長のオキノの声が若干高くなり浮ついているような印象を受けた。それはこの男児を巻き込んだ新しい可能性が見えたからだった、わけか。
「百年懺悔の遠征は生易しいものではない。道は険しく、厳しい試練が待ち受けている。現況、おぬし以外に頼れる実力者は皆無。おぬしに何かあった場合、代わりになる者がおらず、我々は一つの柱に寄りかかっている脆い状態なのだ。私はおぬしと並んで立てる存在を求めていた」
蝋燭の火がボッと音を立てて揺れ動いた。壁にオキノの握り拳の影ができた。
「生まれたばかりの男児。見るからによい顔容で、健康な心身の能力を感じさせる」オキノの目に陶然たる光が宿っている。「十七年後、おぬしとともに遠征に出るのはこの坊だ。この坊はやがて化体族を救うだろう」
ムゲンは翼竜の姿で広い海の上を飛んでいるときの感覚に連れていかれた。大空の翼竜はやおら頭を振り、そして意識は現実に戻り、ムゲンは人道的な思考を巡らせた。
我が領長のいうことはつまり、化体族のために戦う兵士を作れといってるようなもの。それでも、見捨てるよりは――マシだ。西大陸の港に置き去りにして、赤子が衰弱死したり、心ない人間に連れていかれたりするよりは、マシだ。今は何よりもまず赤子を保護することが最優先。
「わかりました。そのような目的があると説明すれば、島民も人間との共生を認めるでしょう」
「人間であることは島民には公表せぬ。本人にも伝えぬ」
「……え?」
「その坊が人間としての自我が目覚めた姿を想像せよ。化体族に協力すると思うか。半人種のために遠征に出ようと、ときに命を懸けて戦おうと、するだろうか」
ムゲンは肩の力が落ちる思いだった。化体族のために死力を尽くせよの前提で話しているような自己本位な見地。それに、将来を見通す以前に目を留めなければいけない部分がある。ムゲンは根本的な問題に着目した。
「太陽の日も月の日も体が一緒なのですから、人間であるとすぐに気づきます」
「化体しない化体族として育て上げるのだ」
ムゲンは島一番の権力者の意図を理解できなかった。
「人間であれ動物であれ突然変異は出てくるものだ。化体族にも毛色のちがう者が生まれたとて、道理が通る話」
権力を持つ中年を独善的な大人であると卑しめては己をその反対側に置いて高次に大人ぶることもできたが、しかしムゲンは己もいえた義理ではないと思った。
――十七年後、おぬしとともに遠征に出るのはこの坊だ。この坊はやがて化体族を救うだろう――
この言葉を聞いた瞬間、化体族の未来を一人で背負っている自分に初めて同士ができた気がした。初めて仲間の存在が見えた喜びが胸の中に広がった。化体族ではない子に重荷を背負わせることになるというのに。
「まとめる。その坊は化体族。しかし化体はしない。なぜなら突然変異だからだ。この設定でいく」
人を人として見ぬようなオキノの発言がところどころに出ている。もっとも、ムゲンがこのようなオキノの性質を見るのは初めてのことではない。
「皆も、この子も、騙すのですね」
「ムゲン。――その坊を死なせたいのか」
あまりにもばかげた問いにムゲンは閉口した。
「その坊を死なせず、健康に、健全に、整った環境と教育をふつうの子と同じようにあたえてあげようとしたときに、私が示した以上のいい方法はあるのか?」
ムゲンはいい返せなかった。整った環境と教育。それらが不要であるなどとは強がりでもいえない。赤子にとって、レイル島でまわりの子たちと一緒に育つことは、現況最も恵まれた環境となる見込みだ――少なくとも百年懺悔の遠征が始まる十七年後までは。生後十七年はとても大切な期間。この期間に、最もよい環境に身を置かせ、健康で強い子に育ててあげることが、何より赤子のためになるのではないだろうか。
「本性を隠すのは、人間の子供が我々化体族と平穏に暮らすため。必要悪なのだ」
ムゲンがしゃべろうとしたところ、オキノが「いや」とつづけた。
「こんなものは必要悪にもならぬ」
「は?」
「まだ措置は足りておらん」
ムゲンは嫌な予感がした。
「化体族として育てるのであるのだから、化体族の女子に恋をし、また化体族の女子からも好かれることが出てくるだろう。何も知らずに化体族の女子と性行為に及ぶ可能性は高い。その可能性を根本から潰す必要がある」
ムゲンの鼓動が速くなっていく。恐ろしい内容が発せられる気配がある。
「去勢を施す」




