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57-4:幕引き

 ――リュデュストス様。私はばか者です。


 ドニカルルアは心の中で悔いた。


 西大陸は人間が住む場所。その西大陸に遣いに出る使者に任命されたのは、鳥人族の族長リュデュストスの信頼を得ているからこそだった。人間の女性を美しく思い、私的な贈り物をしたことは、尊敬する族長の信頼を裏切る行為であり、使者として絶対にしてはいけないことだった。族長リュデュストスを失望させるのはとても心苦しく、身を切られる思いであり、ドニカルルアの体中にじっとりとした汗がにじみ出る。


「黙っててやる」


「本当か」ドニカルルアは反射的に返した。


 モルゼリクは片方の口の端を吊り上げて笑った。その不敵な笑みを見てドニカルルアはしまったと思った。下手につくべきではなかった。何より、いわくありげな相手の甘言にとっさに乗ってしまった自分をドニカルルアは恥ずかしく思った。


「本当だ。黙っててやる」


 まるで泥沼に足を取られてずぶずぶと沈んでいく心地。鳥人族の精鋭として自他ともに納得のいくよう真摯にやってきたつもりが、卑しい存在に落ちていくような感覚に襲われている。


 他方、モルゼリクは、そういった自らを追い詰める彼の性質を簡単に見抜き、彼が泥沼で溺れるよう特に意識せずとも導くのであった。


 一人の真面目な鳥人族は今、目の前に立つ一人の狡猾な人間に支配されかけている。


「その代わりに。条件がある」モルゼリクは赤子のエディルを前に差し出した。「このガキを捨ててこい」


「な……」ドニカルルアは自身の耳を疑った。


 赤子は指をくわえ、澄んだ目をドニカルルアに向けている。耳の上部が尖った子供。よい環境で育てられているのがよくわかるほどに健やかさが感じられる、賢そうな、愛らしい赤子。


「あ……あんたの子供じゃないのか」


「その質問になんの意味がある。私の子かどうかで貴様の心入れに差が生じるのか」


 ドニカルルアは大きく首を振った。「いずれにしてもあんたの頼みを引き受ける気はない」


「おやおや。何を勘ちがいしているんだか」モルゼリクの両腕に動きが生じた。


 ドニカルルアはハッと息を引いた――そのわけは、相手の奴めが今やろうとしていることが読めたからだった。一瞬経ち、奴めは読みどおりのことをおこなった。横の方向に腕を振って赤子を放り投げた。


 ドニカルルアは全身の気を一気に放出して飛び出した。ギュンと加速。両手を伸ばして地面に滑り込み――落下寸前の赤子をなんとか捕らえた。胸の中に収めた赤子をしっかりと抱き込み、自身の体をズザザザと地面に滑らせた。


 砂埃が立った。


 かつかつとモルゼリクが靴音を鳴らして近づき、地面に横たわった翼を踏んだ。ぐりぐりと地面にこすりつける。「貴様に頼んでいるのではない。命令しているんだ」


 ふえっ、と声を上げて赤子のエディルは泣きだした。ドニカルルアは荒い呼吸をしながら、震える手でエディルをあやす。


「案ずるな。海に放り投げろなどとはいわない。私が指定する場所に置いてくるだけだ。だれかに拾ってもらえる可能性はある」


 ドニカルルアはモルゼリクを睨み上げた。翼の毛がざわと立った。


「私を攻撃するか。私を闇に葬るか、半人種よ。私が本日ドニカルルアという名の鳥人族と面会する旨、親しい者には知らせてある。私の失跡あるいは遺体発見ともなれば疑われる者はただ一名のみだ」貴様だ、と無言で脅しをかけるモルゼリク。


 これはモルゼリクのはったりだった。だれにも外出を知られぬようこそこそと城を出てきたわけだが、そんな事実は赤の他人である鳥人族には知る由もなかった。


 翼から高級靴がどけられた。


 ドニカルルアは立ち上がった。泣いている赤子を腕に抱いたまま、上下に揺すってあやす。赤子を平気で放り投げる人間に返すはずはない。かといって、人間の子を鳥人族の里には連れていけない。


「……参考として問う。指定する場所とはどこだ」


「私の嫌いなレイル島に捨て置け」


 ドニカルルアは息をのんだ。「レイル島は……化体族の……」


「半人種の島に人間の赤ん坊が降臨。果たしてレイル島の連中は庇護するか、排斥するか。感興が湧くではないか」


 モルゼリクはかつて感じたことがないほどの悦楽にひたっていた。己の思いどおりに人が動き、己の意図したとおりに事が運ぶ。己が全知全能の神になったかのごとく己に陶酔している。にたりとゆがんだ恍惚の笑みは相手におぞけをあたえた。


 この人間は、とドニカルルアは身の毛をざわざわさせながら思いを凝らす。この人間は狂人だ。悪魔に魂を売ってしまったのだ。この残酷な人間は何を仕出かすかわからない。必ずやよくないことが起こるだろう。魔手の及ばないところへ避難させたほうが、この無垢な赤ん坊のためになる。ドニカルルアはそう自分にいい聞かせ、非道な命に従う決意をした。


「レイル島の……どこだ」


「放置場所か? レイル島であればどこでもいい。貴様の好きにしろ」


「……わかった」


 虚脱するドニカルルアが翼を広げた瞬間、「待て」と呼び止められた。


「ついでに、ガキの件が終わったらこの書簡を鳥人族の族長に届けろ。いうとおりにしなければ貴様の破廉恥な行動を公にする」


 ドニカルルアは書簡を受け取った。さっさと話を終わらせてその場を立ち去りたかった。血も涙も感じられぬこの男はもちろんのこと、人間にも二度と関わりたくないと思った。


「ご苦労」モルゼリクは歪んだ笑みで見送りした。


 ドニカルルアは優しくエディルを抱き、大空を飛翔した。その目からは自己嫌悪の涙が流れた。赤子のエディルは空の旅を怖がらなかった。ときおり楽しそうな声も上げた。そのたくましさにドニカルルアは一度だけ泣きながら微笑んだ。




 レイル島で最も高き山の主峰「神ノ峰」の頂上に、耳の尖った赤子が置かれた。人里までは近寄れず、ならば古くより神が憩いにくるといわれている神ノ峰がよかろうというドニカルルアの考えだった。遠くの空を飛んでいる翼竜が小さな命に気づいてくれるのを願った。そしてお守りになればと、かつて別の人の幸せを願って加工した小さな水晶玉を小さな小さな手に握らせた。


 鳥人族の里に戻ったドニカルルアは、いいつけどおり、書簡を族長リュデュストスに渡した。匿名で書かれていたのは次のような内容だった。ドニカルルアが人間の女性にひいきの感情を抱いていること、彼女の気を引くような贈り物をしたこと、彼女と密会するために西大陸の森まで足を向けたこと、など、太らせた表現にはなっているが否定できぬ事柄の列挙であった。ドニカルルアは事実であると認めた。道に背いた罰としてドニカルルアは百年のあいだ牢獄に監禁されることになった。




 一方のモルゼリクは、鳥人族と対面した森から城に帰る途中、人けのない湖の付近で、妻のセイラに刺されて死んだ。意気揚々とアランとエディルを手にかけたことを妻に告白した後だった。セイラが夫を探しに出る前、城では、アランの遺体が発見されたと大騒ぎになっていた。セイラは夫のモルゼリクの遺体を湖に落とし、自身も身を投げた。


 こうして暗く激しい野心の炎はあえなく収束した。流行り病で亡くなった前君主への悲しみが癒えぬうちに、ロキサーヌ領の城には次々と遺体が運ばれることになった。近衛兵団長アラン、前君主の一人娘セイラ、セイラの夫のモルゼリク。団長も夫妻もロキサーヌ領の未来を背負う名のある若者たちだっただけにその喪失感は計り知れなかった。夫妻の子のエディルも遺体は見つからないものの死亡と認定された。数日前にモルゼリクが「男同士の散歩に出かける」と告げてエディルを連れ出したことは、その場にいた女中が証言している。エディルがモルゼリクと一緒であったのは疑いようがなく、一家の無理心中であると城の者たちは結論づけた。夫妻と子の死については、領民の混乱を避けるために、流行り病が原因であったと発表した。モルゼリクの故郷のセスヴィナ領にもそのように伝えられた。


 アラン団長についてはどこかのならず者に命を奪われたと断定された。広く情報を求めるも、犯人の手掛かりはまったくつかめなかった。彼を慕う兵士らや領民らはただ憤っては嘆くしかなかった。一部の兵士から疑いの目を向けられていたネイトは間もなく精神を患った。彼は近衛兵団を退団し、父親の大臣の意向によって辺鄙な地にある施設に収容される運びとなった。


 黒き渦の中心にいたモルゼリクだったが、彼の悪評の類いはついぞ上がらなかった。彼は自身の不都合になる証拠はいっさい残さなかった。どのような死因であれ身分の高い者の死には様々な憶測が出るように、モルゼリク一家の死は、アランの死と関連づけられたりあるいは関連づけられなかったり、まったく関係ない人物まで巻き込んだりしては、やはり様々な説が繰り広げられるのであった。しかしどれも妄想の域を越えるものはなく、新しい物語が生まれては一陣の風のようにそのうち消え去るのだった。いずれにしても亡くなった彼らはいつでも美しき善人であり、彼らを主役にした物語は悲劇と愛に満ちた美しいものであった。


 彼らの葬儀のときには、領民たちの涙に負けじと大雨が降った。そして一陣の風のごとく月日は流れた。もはやロキサーヌ領の名のある若者たちの突然の死の真相を知る者はいない。

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