57-1:近衛兵団のいつもとちがう朝
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生暖かい風が吹く。ある者にとってはのどかと感じ、ある者にとっては不穏と感じる朝だった。
モルゼリクはざわざわと揺れる木々の下を一人で歩いていた。向かうは近衛兵団の野外訓練場。朝の全体行動がおこなわれている時間である。
しかし訓練場にはいつもとちがう景色が広がっていた。兵士たちはばらばらに散らばって自主訓練をおこなっている。
「今朝は全体行動はないのか」モルゼリクはその辺にいた兵士に尋ねた。
入隊して間もないその兵士は初めて君主一族の人間と話す現実にしどろもどろし、幹部が不在だというただそれだけのことを回りくどく説明した。
モルゼリクは移動した。幹部の宿舎の前で複数人の兵士を発見した。その中には上位の地位を示す腕章を着ける者の姿があった。「副団長」の腕章である。
近衛兵団の副団長は強面ながらも気がいい男で通っている。しかし今モルゼリクの視界に入っている彼は気のよさは感じられずに強面の威圧感だけが存分に発揮されている状態だった。彼そして彼の付近に固まっている兵士らは不穏な空気を放っている。それは遠くからでもわかる。彼らはこちらには気づかぬほどに会話に集中している。何をしゃべっているかは聞こえない。モルゼリクは近づく。
「どうした」
「モルゼリク様」眉のない強面の副団長は珍しい客に目を大きくした。
彼だけでなく居合わせた兵士一同が驚きの顔を隠せなかった。
「なぜこちらに。いかがなさいましたか」
質問を返されたモルゼリク。「アラン団長に報告があってきた」
「団長に……」副団長は言葉を詰まらせた。
モルゼリクの視線が副団長の背後に流れた。兵士六人が一人の兵士を囲んでいる。さながら捕虜のごとく仲間に両腕をつかまれているその兵士は、大きな図体で、大きな顔で、細い目をした男。大臣の息子、ネイトである。
「大臣の息子、だな」モルゼリクは声をかけた。
「はいっ」ネイトは声を震わせた。
「昨日、ヨランカの街の大通りで騒いでいた者でまちがいないな」
ヨランカは南方にあるロキサーヌ領第二の街である。その名前が出てきて兵士たちはさらに驚いた。
「はい……」
「どういうことです」副団長はモルゼリクとネイトを交互に見た。
「昨日の夕方だ。出先から城に戻る途中、先に述べた場所で、この男に遭遇した。この男は酒に酔い、聞けば近衛兵団の任務を放ってきたという。この男には以前にも無礼な振る舞いをされたことがある。そろそろ戒める必要があると、報告と警告をしにきたのだ」
実際ネイトは前日はヨランカの街でうろうろしていた。一日中そうしていたのは、なんてことはない、今こうやって体たらくな一兵士の批判を品よくおこなっている本人、モルゼリクに命令されたからだった。
モルゼリクがネイトに下した命令は、無断でヨランカの街に出かけること。一日中いること。その事実を正直に明かすこと。ただしモルゼリクが関与していることはいっさい口にはしないこと。だった。
体たらくな一兵士のネイトは果たして命令どおりに重い足を運んだわけだが、昨日はヨランカの街でモルゼリクと遭遇はしていない。つまりモルゼリクの話は大部分が脚色されたものであったが、ネイトにはそれを指摘することなどできなかった。
前君主の一人娘の夫であるモルゼリク。初めは物柔らかな、いかにも世間ずれしていない温室育ちの貴公子かと思っていた。他領から婿入りしてきて不安もあるだろう彼。そんな美男な彼にうまく取り入って仲よくなれれば、いろいろ得になるだろうとネイトは考えた。少しずつ近づいていくうちに様子がちがってきた。彼はだれよりも鋭い牙を持っていることに気づいた。一番の転機となったのは、団の規則に違反する交際をしていることを彼に知られたこと。黒い秘密を出しにして、彼はネイトに対して支配を試みる言動や無茶な要求を示すようになった。ネイトは彼の命令に背くことなどできなかった。口出しや質問の類いもできなくなっていた。ヨランカの街を訪ねる目的についても問えなかった。ネイトはモルゼリクの指示にただ従うだけの人形に成り果てていた。
爽やかな面で牙を隠した傀儡師が、自分の近くに立っている。ネイトからすれば強面の副団長よりも怖い。
他方、強面の副団長は、部下の不始末とモルゼリクの足を煩わせたことを深く詫びた。そして部下のネイトを睨みつけた。いいたいことはあるが後回しにする。今はそれより優先することがある。
強面の副団長は息を一つ吐いてからネイトに尋ねた。「では、昨日ヨランカの街にいたというのは本当なのだな」
「――っ本当だっていったじゃないですかっ」
自分は指定されたとおり早朝に出かけて夜遅くに帰ってきただけだ。それなのに一夜明ければ仲間に囲まれ犯罪者のように尋問され、加えてモルゼリクが現れてはあることないこといわれてじわじわ首を締められている。何がなんだかもうわからない。ネイトの中で焦りと緊張が交錯し、そうして求められた受け答えは苛立ちと同類の語調となって吐き出された。
ネイトのぞんざいな態度に副団長の強面がさらに険しくなった。「いずれにせよ職務放棄だ。後で罰する。――解け」
ネイトの拘束が解かれた。副団長が次の言葉を発しようとしたときだった。
「なぜ、この男の主張を疑ったのだ」君主一族であるモルゼリクが怪訝な表情を作って問うた。「何やら様子がおかしいように見える。何かあったのか。アラン団長はどこにいる」
兵士たちは顔を見合わせた。黙っておくには無理がある状況となった。
「実は。昨日、団長お一人でどこかへ出かけたきり、まだ戻られてないのです」
「何?」
「この男、ネイトも、ご存知のとおり昨日は無断で外出していました。この男は職務怠慢をすることはあっても、一日中だれにも何もいわずに消えるというのは今までありませんでした。おかしな偶然だと思い、それで、アラン団長がいなくなったことについて何か知らないかと問いただしていたところでした」
おかしいと思うのも当然である。もっとも、こうして矢面に立たされているネイトが元より信頼するに足る人物であれば、両腕をつかまれて厳しく問われることもなかったはずだがな、とモルゼリクは冷視する。
「アラン団長は何かよくない事態に巻き込まれたようでした。これは自分の直感に過ぎませんが、ネイトに関連していることのように思えました」
「ほう。何か根拠があるようだな」
「いえ」副団長は首を片方向に一振りした。「根拠といわれれば何もありません。今申したようにただの自分の直感です。アラン団長の表情なり様子なりから、自分が勝手に想像したに過ぎません」
副団長は団長のアランを尊敬している。年齢は副団長のほうが十も上ということもあり、いわゆるつるむような仲ではない。そもそも団長であるアランはだれともつるまない。アランの私的なことはまるっきり関知していないが、それでも同じ兵団の一番二番としての信頼関係があると副団長は固く信じているし、だれよりも団長のことを理解していると自負している。
「しかしヨランカの街にいたのであれば、ネイトは無関係かもしれません。アラン団長が向かったのは反対方向ですので」
「アラン団長は北の高所地帯に向かわれたそうです」ほかの兵士がいった。
「北の高所地帯?」モルゼリクは眉をひそめた。「私は実際に足を向けたことはないが、あの辺はきなくさい噂が立つ場所だと聞いている」
「はい。通常、人の寄りつかない場所です」
「なぜそんな場所に近衛兵団の団長が赴く必要がある?」
「詳細は話してはくれませんでした。アラン団長はただ、一人でいかねばならぬと、そういって早急に馬を出されました」
「急ぎの用だったわけか。突然の用事みたいに思えるが」
「はい。そう思います」
「何かきっかけのようなものはあったのか。たとえば不審な来客があったとか、たとえば変な手紙が届いたとか」
「いえ、そういったことは何も。我々が把握している限りでは」
しんと静かになった。
「団長が不在になっていることは、まだ、幹部の数名しか把握しておりません」
再び静かになった。情報は尽きた――彼らが知っているのはここまでだ――と、モルゼリクは確信した。




