56-1:崖の上の廃墟
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ロキサーヌ領の中心地より北、人里離れた高地に、廃墟と化した砦の跡地がある。その石造りの建物の損壊ぶりといえば、まるで巨大な獣たちにうまいところだけをがつがつと食われたかのようである。食い散らされた残骸はそれでもなお砦の面影を維持しようと踏みこたえているようであり、あるいは土に帰れずにこの世に取り残されているようでもあり、なんともうら悲しくむなしい雰囲気を醸し出している。
冷風が吹きすさぶ荒廃としたこの場所に、四人の男たちが集っていた。小柄な男が一人と、若い子分が三人。それぞれがむき出しの階段や倒れた柱に座り、眼下に広がる崖道を見下ろしている。
「今日の獲物はどんな奴なんですか。黒蠍さん」子分の一人が尋ねた。
小柄な男、黒蠍は、小魚の干物をくわえたまま目の玉を動かした。子分たちは表には出さないが多少の緊張を胸に走らせる。親分の斜視は、相変わらずどこを見ているのか判断しがたく、独特の迫力と不安をあたえてくる。
「久しぶりの大物だよ」親分、黒蠍は答えた。
子分らはうなずいた。そんな気配はあった。
ふだんは呼ばれても一人、せいぜい二人。親分が単独で動くこともある。三人声がかかるのは珍しい。それなりの相手だろうとは見当をつけていた。
「なんでも今回はあれっすよね、近衛兵を介した依頼人だったとか」
「そだよー」黒蠍は軽く答える。
「ぶほほ。どこにでも腐れた奴はいるんだすね」
「オメーがいうなよ」子分同士で皮肉る。
黒蠍はくちゃくちゃ音を立てて干物を食べきった。髪はぼさぼさ。身なりはいつも汚い。
「素性を隠してたけど、あの依頼人、あの男、あれは相当な身分だね。そして本物の毒を持ってるね」
「本物の毒、ですか?」
「顔のほとんどを布で隠しててさあ。目だけを出してたんだけどさあ。そいつ、暗い暗い眼をしてたよ。思わずいいたくなっちゃった。君、自分でできる玉でしょって」黒蠍はきしきしと笑った。
子分たちは固唾をのんだ。この親分に本物の毒といわしめる人物。自分たちでは手に負えない男だろうと、会ってもいないのに負けを感じた。
低地へと吹き下ろす風は亡者の嘆きのような音を立てる。得てして廃墟という物にはよくない噂が立つ。人跡まれなこの場所にも真否を問わず様々な不穏な噂が存在する。
「そろそろ隠居したいなー」黒蠍が出し抜けにいった。
子分らは特に驚かない。親分が突飛な言動をするのは今に始まったことではない。
「隠居はお早いでしょう。黒蠍さんなら、まだまだ、三十年でもやれますよ」
「僕一人だけで静かに暮らしたい。呪われた地にでもいこっかなー」
「エデンレイル領ですか。たしかに人が住んでるとは聞きませんね」
「今回の大仕事が成功したら、いこっかなー」
「……それほどの大物なのですか、今回は」
黒蠍は急に口を閉ざした。子分はそれ以上追及しない。
「くるかなあ」一分ほど黙ってから黒蠍は歌うようにいった。「獲物を誘い出せなければ依頼人がくる約束になってる。そしたら今日のところは解散。さーて。獲物のネズミはくるかなあ、こないかなあ」
変化が生じたのは三十分が経過したときだった。
「あっ」子分の一人が声を上げた。「だれかきます」
子分三人は立ち上がった。ぽっきり折れた柱に身を隠してその人物に注目する。広い崖道を馬を連れて上がってくる、一人の男である。
「えっ!? もしや、あの男っ……」
「あっ、あっ、あっ? うわっ。本当っすか」
「本物だす……」
子分三人はその人物を見て色めき立った。
「獲物がきたようだね」黒蠍は舌舐めずりをした。
「黒蠍さん。こ、これは大変っす。ぜ、全員での奇襲に変更、なんてどうっすか」
「何いってんだお前。黒蠍さんを見くびってんのか」
「そんなわけねえよ。だがあの男。あいつと昔、武闘の大会で戦ったことがある。あれは並大抵の相手じゃねえ」
「だとしても黒蠍さんからすれば獲物でしかない。この黒蠍さんは今までどれだけの人間を消してきたと思ってんだ」
「人をそんなバケモノみたいにいって、人聞きが悪いなー。消したのなんてたった百人程度よー?」
「あ、ははは……」
以前は百五十人だったはずだが、と子分がほかの子分に小声でいった。正確な数を自身で把握していないのか、そらとぼけているのか、いずれにしても彼ののらりくらりとした態度は子分の体をにわかに薄ら寒くさせた。
「だーいじょうぶだよ。ここは僕のシマなんだから」
子分たちは顔を見合わせてにやりとした。たしかにシマと呼べるくらいには慣れた地である。一方、これから現れる人物にとっては慣れた地ではない。この差は大きい、特にこの砦の廃墟では。
黒蠍は腰を上げてゆっくりと前に出た。馬を引いて現れた人物と対面する。
「手紙をよこした黒蠍か?」馬を引く来訪者が尋ねた。
「黒蠍は僕だよ」
来訪者は名乗る。「我は近衛兵団団長、アラン」
「知ってるよ。漆黒のバンダナ」
その通称で呼ばれて、頭に黒いバンダナを巻いた来訪者アランは、目の力を強めた。小柄な斜視の男、見たことはないが、異様な雰囲気を放っているのは即座に感じ取った。まわりに手下らしき者が三人いるほかは人の気配はない。寂れた場所だ、とアランは状況を確認する。
「ふーん。噂どおり、いい男だね。ところで手紙って何ー?」
アランは黒蠍のずれた目を睨み、「これだ」と懐から手紙を取り出した。「近衛兵団の幹部一名が闇の勢力とよしみを通じていると。それを出しにして一味に引きずり込んだと。大事にしたくなければ団長一人でここへ出てこいとの内容。差出人は黒蠍。覚えはないのか」
黒蠍は腕を組んでこきりと首を鳴らした。
「該当の兵士は今朝から姿を消している。無断でいなくなったのは初めてのこと。奇しくも昨日、その兵士の父親から息子の黒い交際について相談されたばかりだった。何かが起きていると思うのが妥当だ」
「なるほどねえ。そりゃ奇妙だねえ」黒蠍はきしきしと笑った。
子分らが親分の笑いを盛り立てるように笑った。
アランは真っすぐ黒蠍を見据える。「ここで待ちかまえていた。それがすべての答えだと見る」
「そうだねえ。そういうことになるよねえ」黒蠍はにやける。「それで。君は手紙のとおりに一人でのこのこやってきたわけかい。部下思いだねえ。さすがは立派な団長様、漆黒のバンダナ様だよ」
「そんなことよりネイトはどこだ」
「ネイト?」
「とぼける気か。今話題にしている兵士だ」
「話は単純ではないんだ。まずは馬を結んでおいたらどうだい」
相手の流れに乗るのは不本意ながらアランはいうとおりにした。
「美しい眼をしてるね」
再び向き合っての黒蠍の第一声はそれだった。
「その眼光鋭い眼がたまらなく美しいね。君とやり合えるのはゾクゾクするよ」
「なるほど」アランは腰元の剣の柄を触った。「準備をしていなかったわけではない。だがその前に答えてもらおう。ネイトはどこにいる」
「そんな奴は知らないよ」
子分らがくくくと笑った。アランはじろりと睨んだ。子分らはアランの眼光にびくつき、そしてびくついてしまったことを内心悔しがった。
「自己紹介するね。僕は黒蠍。人の命を扱うのが仕事。君を殺してほしいと依頼があったから君を殺すね」




