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55-2:セイラの意思

 黒き布を頭に巻いた近衛兵団の団長アランが精悍な顔つきで歩いてくる。セイラに近づいてくる。セイラの心臓が早鐘を打つ。


「ここで何を。城の者以外は無闇に……」


 注意してもアランは足を止めない。セイラは踵を返して逃げようとした。が、後ろから手をつかまれた。


「どうしていってくれなかったんです」アランの声に雑多な感情がほとばしっている。


「……何を」


「生まれた子の耳。尖っていると聞きました。本当ですか」


 彼の手は力強く熱い。つながっている部分に意識が注がれる。どちらの手かわからないが大きく脈打っているのが伝わる。


 セイラは振り返った。アランの目鼻立ちのいい顔が目の前にある。胸が詰まる。こんなに近くで見たのは久しぶりだ。


 アランの顔もまた切ない表情に移ろいでいく。セイラは見ていられなく、まぶたを重くさせて、視線を微妙に下にずらした。


 彼とはどんなに想い合っても家柄のちがいから結婚することはできない。いずれ彼以外のだれかと結婚しなければならなかった。だから、なんとしても忘れようと思っていたのに。


 セイラは唇の内側を小さく噛んだ。彼は子の耳が尖っているかどうか尋ねた。つまり、彼が知りたいのは。


「あなたの子よ。まちがいないわ」


 彼はセイラのもう一方の手を取った。


「セイラ。一緒にこの領を出よう」


 セイラは目を見開いた。


「もっと早くにこうすべきだった。子供と三人で遠くへいって、一緒に暮らそう」


 彼の声から、表情から、両手から、たしかな熱が伝わる。セイラは言葉が出なかった。


 ロキサーヌ領を、出る? 一緒に暮らす? ただ一人愛した男性と、愛する我が子と、三人で。夫婦のしがらみを捨てて、今抱えている問題を置き去りにして。何もかも不都合なことは忘れて。


「――だめだわ」


 アランの手にぴくりと力が入った。「どうして」


「あなたが近衛兵団の団長をおりるなんて、それはだめだわ。兵士たちも領民も、皆がアラン団長を強く求めてるのに」


「自分の人生だ。自分が求めるものを追う」


「団長はあなたでなくちゃだめだわ。あなたの代わりなんていないのに」


「それは買い被りだ。団長候補はいくらでもいる」


「団長になるのはあなたの十五歳のときからの夢で――」


「セイラ。あなたはどうしたいんだ」


 アランの両手の力が増す。つないだ両手を通してセイラの胸がますます締めつけられるかのようだった。


「あなたの意思を知りたい。あなたが求めているのは何なのか。今でもこの手を求めてくれているのかどうか」


 セイラの視界には緑色の草と鮮やかな紅色の花が広がる。自分の、意思。求めているもの。


「セイラ。聞かせてくれ。そうでないと……頭がおかしくなってしまいそうだ」


 セイラは息を漏らして彼の顔を見た。彼もまたセイラが彼にしていたように目をそらしていた。彼も胸苦しいのだ。


 セイラは今すぐに彼の胸に飛び込んでしまいたかった。いつも黒い布を巻いて他人に見せることのない彼の耳。その耳の先に手を添えて、彼の唇に自分の唇を重ねたかった。しかし、その行動に出てしまったら最後、止められなくなってしまう。


「アラン」セイラは彼の名を呼んだ後、一呼吸置いた。「私が愛しているのは、今も昔も、あなただけ」


 一点の曇りもない素直な気持ちである。これほどまでに胸を焦がす相手は、この人生では彼のみであると、セイラは信じている。


「セイラッ……」アランはセイラを抱きしめた。


 情を通じ合わせた二人の炎は互いの熱に触れることによって燃え上がるのが自然だった。しかし不自然にもくすぶりの煙の気配に支配された。セイラは彼の首や背に手を回すことなく、直立不動の姿勢をとっていた。心が寄り添わない。アランはゆっくりと体を離し、顔立ちのよさを図らずも思い知らせる真顔で、セイラの目の奥をのぞき込んだ。


「ここを出るのは、無理だわ」


「……なぜ?」


「あなたの未来を潰したくない。君主一族の者を連れ去ったら、たとえそれが駆け落ちであっても、私の同意があったとしても、あなたは罪を起こしたことになる。お尋ね者として探し回されるわ。そして見つかってしまったら、あなたは処罰される」


 アランが口を開こうとしたが、その前にセイラが言葉をつづけた。


「それに、あたしがここを出れば、お母さんが一人になってしまう」いった瞬間、セイラの目から涙がこぼれ落ちた。「今、寝たきりになってるの。見舞いにいったあたしにいうの。エディル君主はどこか。自分の夫に会いたい。って。お父さんが亡くなった事実を受け入れられずに、意識が朦朧とした状態で、心身ともに弱っていってるのよ。そんな中で、あたしは遠くへはいけないわ」


 この話をすれば決まりがつくとセイラはわかっていた。若くして近衛兵団の頂点にまでのぼり詰めたアラン。英雄然とした精神を持つ彼が、何より心優しき彼が、この話を聞いて我を張るはずがないとわかっていた。


 セイラの頬を涙が伝う。セイラの両手には、彼の熱い手が添えられている。二人のあいだに沈黙が訪れた。


「――そこにいるのは、アラン団長ですかな?」


 セイラだけがびくりと体を震わせた。遠くからの突然の声と、足音。近づいてくる。セイラはアランの手から自分の手を離し、物音を立てずにそばの生け垣の裏に隠れた。


 歩いてきたのは大臣だった。「ああ、やっぱりアラン団長。どうしてこのような場所に?」


 大臣はセイラがいたことには気づいていない。セイラは生け垣の裏で胸を押さえながら、静かに呼吸を整える。


「たまたま通りかかりました」


「いや、ちょうどよかった。こうやって二人で話をしたかったのだ」大臣は声をひそめた。「実はアラン団長に相談したいことがあってな。息子のネイトのことなんだが」


 神妙な雰囲気である。大臣はまわりに人はいないと思い込んでいる。立ち聞きしてはならないと思ったセイラはそろそろとその場から離れた。庭園を出てからは走りだした。


 何が正しい選択なのだろう。どんな道を選べば大事な人を守れるのだろう。いっそ感情だけで、彼を好きだというひたぶる気持ちだけで、この領から出ることができていたらどんなに楽なことだったろう。いっそ、すべてを忘れられたら、どんなに――。


 城への階段を駆け上がっていたセイラはつまずいた。膝を打った。じんとした痛みにより、()()()に引き戻された。天から現実を思い知らされた気がした。


 セイラは膝をさすって泣いた。うっ、うっ、と声が漏れた。止まらなかった。そのままセイラは堰を切ったように号泣した。

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