54-3:疑惑
モルゼリクは城に帰ったその足で目的の場所へ向かった。
風を切って通路を歩く。モルゼリクがこの場にいる珍しさはちょっとやそっとのものではない。
ここは近衛兵団の幹部の宿舎。君主一族の者が立ち入るには汗くさい場所である。宿舎の兵士たちは何事かと色めき立つ。
彼らの視線を気に留めることなくモルゼリクが向かった先は、最も位の高い階の浴場、の前。
一人の兵士があわてて浴場の入口の前に立った。「モルゼリク様。今はアラン団長が入浴しています」
「用がある」
「しかし。入浴中はだれも通すなとの団長の……」
「私と近衛兵団の団長。どっちが上だ」
物柔らかな印象のあるモルゼリクに凄まれて兵士は言葉を失った。
モルゼリクは兵士を押しのけて中に入っていった。
脱衣所を通り、浴室に通ずる戸を開けた。湯気が立っている。中にいるのは、一人のみ。
湯に浸かっていたその影は、いったん体を上げようとするもやめ、浴槽の中から声をかけた。「何か緊急ですか」
まぎれもない、アラン団長の声。
こつ、こつ、と靴のままで洗い場を歩くモルゼリク。沈着な足取りで前に進んでいく。濡れた黒髪のアランの顔がはっきりと見えたその瞬間、モルゼリクは「ハッ」と口を広げて吹き出し、そして声を出して笑った。
出し抜けの奇妙な笑いに湯船の中のアランは身構えた。
戸はしっかりと閉まっている。通路にいた兵士は入ってこない。お上の私的な用事となれば入ってこられない。
「さすがに入浴中は一糸まとわぬ姿か」モルゼリクは浴槽の縁に座った。
浴槽の縁はびしょびしょに濡れている。高貴な服を着ているにもかかわらず、べったりと尻をつけている。不可解な言動を見せるお上にアランの表情が曇る。
ふだんは決して見せぬ、アラン団長らしからぬおぼつかない表情。そういう表情が見たかったのだ。モルゼリクはアランの濡れた肩に手を置いた。びくりと体を震わせるアランに顔を近づける。
アランは素早く顔を横に振り、唇が触れるのを回避した。「何を……」
浴室はぼんやりとして本来は頭が冴えるのと逆にあるような場所。しかし近衛兵団長アランは右手を口の前で熊手のようにかまえて不可解な相手の出方を神経鋭く探る。彼はたしかに警戒していた。
「安心しろ。試したまでだ」モルゼリクはおもむろに足を組んだ。「アラン団長は出世のために権力者の男と寝ている。そんな疑惑を耳にしてな」
アランの眉に力が入った。彼の右手がすっと下がった。「どこのだれがいったのかは知りませんが、事実無根です。完全なる嘘です」
モルゼリクはわずかに目を細める。アランの顔は鋭いながらも一方では無防備に見えた。洗髪して濡れた髪が、黒き滝のように肩まで真っすぐ垂れている。その黒き滝に触ろうと手を伸ばしたが、アランの手にぴしゃりとはじき飛ばされた。それはとても反射的だった。
モルゼリクとアランは互いの目を見据える。
「貴様は女性が好きなのか」
「まちがいなく」
モルゼリクはふっと鼻で笑った。「これで口実が一つ減ったな」
「口実?」
「アラン団長よ。私とセイラの子、エディルは、どんな子だと聞いている」
「……どんな?」突然の質問にアランは眉をひそめた。「元気な男の子と」
近衛兵団まではまだ例の部位のことは伝わってはいないようだ。まあ、話題としてそこまで魅力があるようなことでもない。何も関わりがない者にとってはな。とはモルゼリクの考え。
「放っておいてもそのうち耳に入るだろうが、一足先に教えておく。我が子は少し変わった特徴があってな。悪魔のような特徴だ」
凛々しきアランの目にちがう種の色が宿った。
「耳の先が尖っているのだ。――貴様と同じくな」
何かが目を覚ました気がした。それは海の底で眠っていた獅子か。それとも獅子の気配を感じていた自分自身か。今のモルゼリクにはその答えはどうでもいいことだった。
妻の寝室に入った。椅子に座って赤子を抱く妻と、そばに女中が一人。笑顔だった彼女らはモルゼリクを見て表情を変化させた。
「モルゼリク様。お召し物が濡れていらっしゃいます」
女中の声を無視し、モルゼリクは部屋の中を進む。
「お着替えをご用意いたしますか」
モルゼリクは何もいわぬまま妻のセイラの前に立った。セイラは不可解さがにじむ表情で夫を見上げる。
「妻と二人にさせてくれ」モルゼリクはセイラの手を取り、彼女の細い腕にはめられているブレスレットを優しくするりと外した。
妻の腕の中の赤子エディルはモルゼリクをじっと見つめている。頭の地肌はまだ透けて見える状態ながらも、芯のある黒い髪の毛が生えてきている。その眉は、毛といえるほどの代物にはなっていないが、うっすらながらもたしかな形を色づかせている。ぱっちりした目は精神の鋭さを窺わせる。そして先の尖った耳。ますます疑惑が強固になっていく。
セイラは夫を凝視したのち、女中に向かっていった。「エディルを別室へ」
「かしこまりました」女中はにやついた顔で赤子を抱くと、いそいそと若き夫婦を残して寝室から出ていった。
女中の気配が消えた後、モルゼリクはいったん寝室の戸を開けた。廊下にだれもいないのを確認して戸を閉めた。
戸に触れたほうの反対の手の中には、妻のブレスレットが収められている。貝殻と水晶玉が交互に並ぶブレスレット。故郷のセスヴィナ領で拾った物だ。故郷から帰り、妻の妊娠の話を聞かされた際にお守りとして渡した物である。セイラはその日以来ずっとこのブレスレットを身に着けていた。それをモルゼリクの手によって外したのであれば、夫婦に関する重大な転換点が生じていることは語らずとも語れることなのである。
夫婦はやや距離を置いて立った。セイラはだれもいない方向に目を向けている。緊張しているかどうかは外側には表れていない。
「アラン団長の」モルゼリクがその名を出したところ、彼女の首にまるで稲妻が走るかのように一筋の線が描かれた。体のどこかに力が入ったのだ。何かあると思うには十分な反応である。「耳の上部が鋭く尖っていた。猫や獣の耳のように。――あの赤子のように」
今日馬車で移動をしていたとき、アラン団長が常に漆黒のバンダナを装着していることについて、ふと何か劣等感となるものを隠している可能性が浮かんだ。布が覆い隠している箇所は、頭部と、それから耳の上部も対象となる。もしやと思ったモルゼリクは、彼の生まれたままの姿を見るために風呂場に乗り込んだ。湯気の中を進み、予想どおりの耳が彼に付いているのを確認し、腹の底から毒々しい笑いが込み上げたのだった。
あんな耳は珍しい。探そうと思って探せるものではない。それが近場で発見されたのだ。偶然というには白々しい。
「子の父親は、アラン団長か」モルゼリクは妻に問うた。




