54-2:モルゼリクの胸の中
翌日。太陽が頂点にのぼりきる前に、モルゼリクはネイトを呼び出した。
昨晩とは打って変わってネイトは意気消沈している。顔色が悪いのは二日酔いのせいだけではない。
裏庭の木陰で待ち受けるモルゼリクの前まで歩き、ネイトはまず謝罪した。「ゆうべはモルゼリク様に馴れ馴れしい振る舞いをしたようで……してしまい、申しわけございませんでした! 私は飲酒をすると前後不覚になることがありまして。ゆうべは特に、エディル様のご誕生を祝しての宴でしたので、飲酒の量が増えておりました。深酒したのちに、モルゼリク様と街中でお会いした喜びから気分が高揚してしまったのだと思います。大変失礼いたしました」
うだうだと弁解するあたりが団長になれない要因の一つなのだと、モルゼリクは思った。
「闇の勢力、非合法組織、無法者」モルゼリクは粛々と語った。「そういったならず者との付き合いは、近衛兵団の規則に違反する。そうだったな」
ネイトはじわじわと顔を引きつらせた。「あ、あの……。私、何か、しゃべりましたでしょうか」
「最も興味深かったのは、殺し屋の知人がいることか」
ネイトの指の先がぶるぶるっと震えた。モルゼリクは確信を深めた。この男が殺し屋を知っているのは本当であると。
「その点について、説明してもらう」
「あっ、の……。それは、つい――」
「つい嘘でも述べようものなら、お前の信頼は地に落ちる」モルゼリクはきっぱりといった。「君主一族に不正を撒き散らす兵士などいらん」
目の前の大きな図体の兵士は、腐っても大臣の息子である。自尊の念は人並み以上に強い。本当は自分が団長になるべき人材なのだと腹の中で思っている。よくいえば上昇志向が強い。そんな人間には、今のモルゼリクの発言は大打撃として効くのだと、モルゼリク自身が知っていた。
近衛兵団の人事にはお上の意向が大いに影響する。君主一族に――取り分け君主になる可能性のある男性に――嫌われるのは、近衛兵団での昇格の道を断たれることになりかねない。ネイトにとってはモルゼリクの信頼を失うことは痛手である。
「さて。説明せよ」
ネイトは荒い呼吸をしながら体を固まらせた。彼の頭の中がごたついているのは外からもわかる。
「ネイト。恐れる必要はない」モルゼリクは声を柔らかくしていった。「このロキサーヌ領がならず者の掃討に力を入れているのは知っておろう。しかしそういった輩はネズミのように身を隠す。なかなか奴らの居場所すら突き止められぬのが実情だ。大きな声ではいえぬが、ならず者との人脈を持つお前のような人間は、貴重な情報元となるのだ」
徐々にネイトの顔に光が差していくのをモルゼリクは観察していた。
ネイトは固唾をのんだ。「殺し屋というのは、私は、直接は知らないのですが……知り合いの知り合いに、いるようです」
安全なところに身を置いたな。モルゼリクは心の中でほくそ笑んだ。
「ネイトよ。お前がとるべき行動はわかっているな」
「ええと……」ネイトは顔に汗を浮かべている。目は不安定に泳いでいる。
「まずは何をすべきだ。ネズミを駆除する第一歩として、何が必要だ」
「居場所を……。知り合いに協力してもらって、その殺し屋の居場所を突き止める……。で、合っていますでしょうか……」
いい具合だ。本人からいわせることが重要なのだ。「そうだ」と、モルゼリクは肯定した。
ネイトはほっとした表情を見せた。まちがえた答えを出す恐怖が今、彼の中の中心にある。
「おびき出すのだ。知人をいいくるめて、私と殺し屋が会う機会を作れ。私の身分は知られぬようにな。そしてこの件は秘密裏に進めよ。表立てば貴様自身の首を締めることになるのを忘れるな」
青空の下で君主を囲む昼食会が催された。貴人の男性二十人ばかりの小さな会である。
ロキサーヌ領の伝統料理を食すモルゼリクは上機嫌だった。
大臣の息子のなんと懐柔しやすいことよ。人を意のままに操るのはこの上なく気持ちがいい。私には人を動かす力がある。だから君主にふさわしいのはこの私である――。モルゼリクは中央に座る赤ひげ君主を見据えた。
「どうした、モルゼリク」赤ひげ君主が気づいた。
モルゼリクはにこりと微笑んだ。「いえ。今度、ご一緒に鹿狩りなどいかがかと思いまして」
「ほう。鹿狩りか」
「故郷のセスヴィナ領では、父とたまにおこなっていました」だから君主の息子二人もいかがかと、モルゼリクは誘いをかけた。
「そういえば息子たちは狩猟の経験がなかったな。うむ。いい機会だ。話を進めておこう」
モルゼリクは笑みを浮かべてうなずいた。
実にいい機会となるだろう。父と息子の最後のお出かけになるかもしれぬのだからな。君主の息子二人には狩りの途中で不慮の事故に遭ってもらうのもいいかもしれん。親子三人が消えれば、君主の冠が一気に私のところまでおりてくる。おもしろい。おもしろくなってきた――。
昼食会が終わった。モルゼリクは大臣と狩りの話をしながら城の敷地を歩く。
「ほう。鳥人族ですか」
「昔からたまに目撃されている。同じ森でな。父も一度狩りの途中で見かけたという」
「なんでしょう。その森を別荘みたいにしているのでしょうか」
さてな、とモルゼリクは無造作に返す。
「ともあれ、父と子で狩りに出かけるというのはいいですな。エディル様とも狩りにゆかれる日が楽しみでしょう」
「大臣。いくらなんでも気が早すぎるだろう」
「ふふ。そうでしたな。早くて十二、三年後の話ですな」
などと話をしているうちに威勢のいい男たちの声が聞こえてきた。近衛兵団の野外訓練場の前を通りかかった。
兵士たちがずらりと整列し、笛の音に合わせて一斉に動きを変えていく。
壇上に立って兵士たちを統率しているのは、頭に黒い布を巻いている男。団長のアラン。ずいぶんと距離があるにもかかわらず、アランの放つ鋭い威光がモルゼリクの胸を突き抜けて背中をぞくりとさせた。
「いつ見てもアラン団長は真剣そのものですな」大臣が目を向けているのも同じくアランであった。
モルゼリクは息を多めに吸った。近衛兵団の訓練は今まで何度か目にしたことがある。アランがいるのといないのとでは、集団全体の引きしまり具合が目に見えてちがう。
「私のせがれももう少し気骨があればと思うのですが。どうにも甘いところがありましてな。もったいない」
もったいないというつぶやき。あの息子に期待を捨てきれてない証だ。子供可愛さに評価の適正が欠けてしまっている。
その大臣の可愛い息子を発見した。こちらに目ざとく気づいてちらちらと視線を向けてきている。
「昨日の晩、ネイトに偶然会ってな」
「え? せがれとですか?」
「あの者はひどく酔っていた。私に元天人族の輝きがあるなどと抜かしていた」
にこやかにしていた大臣の顔が固まった。
「先祖の種族の話を持ち出すのは、品がいいとはいえぬ。私は部外者だという気になった」
部外者のくだりはついでに付け加えただけであり、どうでもいいことであった。とにかく元天人族といわれることが不愉快なのだと伝えておきたかった。天人族の女が人間の男と情を交わして人間になった史実は、モルゼリクにとっては唾棄に値するもの。故郷が女系継承にこだわるのも天人族時代の名残があるからこそ。天人族に対する誇りや愛着が湧くはずがない。
「大変申しわけございませんでした。息子には決して大それた意図はなく、モルゼリク様の並外れたご風格への感慨を伝えたかっただけと考えますが、しかし、そもそもいち兵士がモルゼリク様に気安く口を利くのは無礼であり、しかもおっしゃるとおり、いくら酒に酔っていたとはいえ、息子の発言は品性が欠けた未熟なものであります」
大臣のうだうだとした弁解と詫びを耳に入れているあいだ、モルゼリクは壇上で一団を統率するアランを眺めていた。
――アラン団長。お前は自分自身や身内に劣等感を抱いたことはあるか。
ときに太陽のごとく兵士たちを鼓舞させ、ときに月のごとく凛とした静寂を支配する。天体が持つ神秘の力のごとく人々の目を引きつける。このような稀有な存在感を持つ男の中には、一体どんな深淵が待ちかまえているのだ。
「アラン団長は、どのような男なのだ」
急に話題が変わり、大臣は細い目をぱちぱちと開閉した。「アラン、ですか」
「私は堅苦しい場での彼しか知らぬ。ふだんの様子や細かな性格は知らぬのだ」
「ええと。そうですな」大臣は顎に指を添えた。「私が見てきた限りでは、ふだんも大差はないと感じます。あのように、いつも鋭く、抜かりなく、多くを語らず、若くしてどっしりとかまえている印象ですな」
つまらん情報だ。
「しかし、近衛兵団に入団する以前は、生意気といいますか、大人に強い態度で向かうような、そんな少年だったと聞いております」
「ほう」
「気を張っていなければならなかったのでしょう。というのは、生まれ育った家が貧しく、アランはお金を稼ぐために、武闘や剣術の大会にしょっちゅう参加していたようなのです。結果としてそういった経験があの男の剣の腕や肉体の能力をずば抜けて高いものにしたのでしょうな。いやはや。型破りな例ですな」
壇上で一団を主導するあの勇姿は、成り上がりの果てということか。
「近衛兵団に入る前から少年アランの名はすでに通っておりました。巷では〝漆黒のバンダナ〟の異名で親しまれもしていました」
「漆黒のバンダナ……。昔からああいった黒い布を頭に巻いていたわけか」
頭上を羽音うるさき鳥が飛び、モルゼリクは空を仰いだ。雲がまるで鳥を追いかけるかのように速く流れていた。
訪問先の大聖堂へ移動する馬車の中でモルゼリクは静かにおもんみていた。アラン団長。そこはかとない謎が匂い立つかのような男である。何かが引っかかるのだが、それはなんだ。
若き獅子のごとき風情。近衛兵団の団長。漆黒のバンダナ――――。
その影がふっと脳裏を横切った瞬間、モルゼリクの総身に闇のとばりがおりた。幻影であった。幻影で周囲が真っ暗になるほど、光とは逆の何かを――たとえば闇の照明というものがあるとすればそれを――激しく浴びせられたかのようだった。




