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53-5:妻セイラ

「いえ。セイラ様にはご結婚前に家庭教師がおりましたんです。とても親しくされていた女性で、セイラ様の心の支えでもあられたんですが、突然の流行り病でこの世を去ってしまいました。そればかりか君主までもが同じ流行り病に侵されてしまい……。セイラ様にとって、ご心痛を計り知れないほどに、悪いことがつづいてるような時期がありましたので」


「家庭教師の話は初めて聞いた」


「大変仲がよろしかったのです。まだ心の傷は癒えておられないのでしょう」だから夫にも話せないのだろうという意向で大臣はいった。


 社交の場では君主の娘はよくも悪くも尊ばれる。城内の使いの者とも身分の差ゆえに心から打ち解けることは難しく、だから妻には仲のいい友人などいないと思っていた。初見から感じていた何かしらの力のなさ――活力、精力、目の力、そういうものが感じられないのが、友人を作れない一因かとも思っていたが、親友の死があったのならば、さらには親友を奪った病が父親に降りかかったのならば、ふさぎ込むのもあるいは無理からぬことかもしれぬ。モルゼリクは初めて妻に憐憫の情を持った。


「ようやくセイラ様にも希望の光が差したと。そう思っております。さあさ、早くお顔を見せてあげてください」


 大臣に促されてセイラの寝室へと向かった。懐にはブレスレットが入っている。たまには直接渡してみるかという気になってきた。


「モルゼリク様。お帰りなさいませ」


 セイラの寝室に入って驚いた。居合わせた二名の女中は満面の笑みで迎えるも、当のセイラはまだ日が落ちていないというのにベッドに横になっている。目を覚ましてはいるがぐったりした様子だ。


「どうしたのだ」


 ふふ、と女中の一人が肩をすくめた。「ご懐妊でございますよ」


 モルゼリクは言葉を失った。予想していなかった報告をされて頭の中が白くなった。セイラはモルゼリクを見ようとしない。


「先ほど、医師にセイラ様のお体を診ていただきました。三ヶ月前後であられるとのお見立てです」


「三ヶ月」モルゼリクはつぶやいた。


「おめでとうございます、モルゼリク様」


「お妃様もとても喜んでおられました。この後は君主にもお伝えをして――」


 わあっと抑えきれない感情が放出された。セイラが泣きだした。


「セイラ様。いかがなさいました」


「う、うれし泣きでしょうか」


「二人にさせてもらえるか」


 モルゼリクの落ち着いた声によって、うろたえていた女中たちも落ち着くということを思い出した。


「失礼いたしました。何かございましたらお呼びくださいませ」


 女中らは出ていった。妻と夫、二人きりになった。セイラは両手で顔を覆ってすすり泣いている。波が引くようにモルゼリクの心は冷めた。


「だれの子だ」


 この夫婦間では早かれ遅かれ提示されていた妥当な論題だった。モルゼリクの子でないのは当事者が一番わかっている。


「暴行か」


 セイラは激しくかぶりを振った。


「では相手はだれだ」


「――どうして、そんなに冷静でいられるんです」


 冷めているのだ。そして感心もしている。私に嫌われぬよう殊勝に振る舞っておきながら、不貞を働く度胸があったとはな。


「私はあなたを裏切ったのです。責めればよいのです」


「だれの子かと訊いている」


 抑揚なく突き放す態度は、責めの姿勢に出るのとは別の種の圧迫がある。セイラは顔にあてていた手を、涙を拭きながら離した。その目は赤い。


「かつてこの城を訪れた旅芸人と……。その一度きりです……」


 城には領内外から多くの客が出入りする。そういえば数ヶ月前に旅回りの派手な一座がやってきて演劇やら歌やらを披露していたと、じわじわと安堵に包まれゆく夫は思い出した。


 旅芸人。旅芸人か。モルゼリクは心の中でせせら笑った。


 欲心に負けて一夜の戯れに興じた結果、孕まされるとはな。なんともこの愚かな女に似つかわしい。


 腹の子の父親がどこぞの貴人でもあろうものなら、その男が君主の後継者候補に躍り出る可能性もあったかもしれぬ。しかし一介の旅芸人ならば心配は不要。どこにいるかもわからぬ馬の骨だ。セイラとて恥ずかしくて本当の父親のことは話せないだろう。妊娠三ヶ月前後といったな。時期としてちょうどいい。結婚して五ヶ月、子はまだかと急かす輩を黙らせるのに都合がいい。


 モルゼリクはセイラの頬に手を添えた。セイラはびくりと体を震わせた。夫に突然触れられた驚きを隠せなかった。


「私が悪かったのだ」


 私がお前など相手にしなかったのが悪かったのだ。


「故郷のみやげだ。お守りとして持つがよい」


 セイラは貝殻と水晶玉が交互に並ぶブレスレットを受け取った。


「元気な子を産むのだ。私の子として育てよう。セイラ」


 セイラは震える手でブレスレットを包み込んだ。そしてその手を自身の額へ持っていった。


「ごめんなさい」


 セイラの目から大粒の涙がこぼれ落ちるのを見て、モルゼリクはふっと笑った。ほんの少しだけ妻が可愛らしく思えてきた。

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