53-1:【セスヴィナ領】
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話はサユリがレイル島を出ようとしたおよそ一ヶ月前にさかのぼる。
西大陸の南部、ロキサーヌ領では、新しき近衛兵団長の就任式が開かれようとしていた。近衛兵団はロキサーヌ領の花形である。注目度と重要性は極めて高く、その式典は城の正面広場にて盛大に開催される。城の周辺には朝早くからたくさんの群衆が集まっていた。
「セイラ」生まれながらに貴公子然としたモルゼリクが、左手を差し出した。
セイラは夫のモルゼリクの手に自身の細い手を重ねた。セイラが身に着けている赤いドレスは、ロキサーヌ領一の服飾職人が彼女のために仕立てた物である。
モルゼリクがセイラの手を引き、城の中道をゆっくりと歩きだした。門の近くまで歩を進める。門の外側の群衆は若き美しい夫婦の姿を一目見ようとひしめき合っている。
「はあ。素敵ね、モルゼリク様。見た目も性格も生まれも申し分ない。あんな方がロキサーヌ領にきてくれて幸せよ」
「本当に。すらりとされててかっこいいわ。セイラ様とお似合いね」
「セイラ様、やっぱり表情が優れないわ」
「そりゃそうよ。今の状態じゃ、とてもとても。以前のような明るい笑顔をずっと見てない気がするわ。お顔がおやつれになられた気もするわね」
広場に入れる身分の高い女性たち。その女性たちの慎ましやかなようで包まれていない会話が、モルゼリクの耳に届いていた。どんな声が聞こえようとも今は笑顔で群衆に手を振るのみである。
夫妻は中道を引き返した。広場の城寄りに設けられた席に着いた。
モルゼリクは整列している近衛兵団の一座を見渡す。たった今おこなわれたモルゼリクとセイラの行進は余興のようなもの。この後に式の主役が登場する。
「にぎわしい歓声ですな」
モルゼリクに話しかけたのは、彼の傍らに立って門の向こう側を細い目で眺めている中年の男。軍人上がりの顔の大きなその男は、大臣の職に就いている。
「モルゼリク様とセイラ様は、今や全領民の憧れですぞ」
「大臣。それより君主の具合は」モルゼリクは短く生えた口ひげをなでていった。
君主。ロキサーヌ領内における最高位の称号である。ここロキサーヌ領のように、領の長に当たる者を独自の称号で呼ぶ風習は世界各地で見られる。ロキサーヌ領の君主、つまりこの領の一番の権力者は、モルゼリクの義父である。内からも外からも絶大なる支持を得ている君主が、病気の療養により公の場に出なくなって、半年経つ。
「相変わらず、回復の見込みはない、との医者の見解で……。容態は悪化する一方です。最近ではお妃までもが体調が思わしくありません。心労が原因でしょう。本日も大事をとって休んでおられる。ご両親を心配するあまり、セイラ様までもが心身に不調をきたさなければよいのですが」
モルゼリクは妻のセイラに視線を向けた。セイラは女性のみが集う席の一つに座り、精気なくうつむいている。赤いドレス、装飾品、職人に整えられた長い豊かな髪。それらは、本人とは別の生き物のように豪華に輝きを発している。
君主夫妻は一人娘のセイラを心から可愛がり、またセイラも尊敬する両親を心から愛している。両親の不調を追うかのように、セイラはこのところ体調を悪くする機会が増えていた。
赤いひげを持つ侯爵が演壇に立った。彼は君主の弟である。赤ひげ侯爵は表に出られない君主の代わりに公での挨拶を務めている。赤ひげ侯爵の独特な声により、君主は今なお病気と闘っていること、いずれ必ず元気な姿を見せてくれること、吉報の先駆けとして本日晴れて新しき近衛兵団長が誕生すること、そしてロキサーヌ領がますます栄えること、が、詩句を交えて述べられた。側近が書いた文章をそらんじるのは、勉学に秀でる赤ひげ侯爵の得意とするところだった。
大きな顔の大臣は赤ひげ侯爵の挨拶に拍手を送りながらモルゼリクに話しかけた。「君主が流行り病に罹り、ロキサーヌ領は落ち込んでおりました。そんな中で、よくぞセスヴィナ領から婿に入ってくださった。このような不安定な時期において、早急に姫君の縁談がまとまり、それもモルゼリク様のような素晴らしいお方にきていただき、君主はじめ我々一同、大変喜んでおります」
モルゼリクがロキサーヌ領にやってきたのは五ヶ月前のこと。多大なる歓迎ぶりだった。君主はすでに椅子に座るのが精一杯なほどに弱っていたものの、一人娘の結婚相手のことは体中の力を奮い起こして喜びをあらわにして迎え入れた。君主の強い要望もあってモルゼリクとセイラの結婚式はすぐに執りおこなわれた。
「モルゼリク様がお早い決断をなされたのはやはり、セイラ様のお美しさあってのことでしょうな」
「大臣。このような場で話すことではない」モルゼリクはちらりと目の先を横へ流した。
モルゼリクの横には、少し距離を置いて赤ひげ侯爵の息子二人の席がある。規律正しく椅子に座る赤髪の二人はいずれも十代。少しばかりの男女の馴れ初めなど恥ずかしがる歳でもないが、モルゼリクは彼らを出しに使った。
「これは。失礼をばいたしました」大臣は洒落たようにモルゼリクに謝った。
式典はいよいよ要へと差しかかった。新しき近衛兵団長の名が呼ばれた。その名は、アラン。
太鼓の音が響いた。一糸乱れず整列する近衛兵一同が、勝ち鬨のごとき声を一斉に上げた。勇ましき様相に門の外の群衆がおおっと湧いた。君主を守り、城を守り、そして有事にはロキサーヌ領を守る、男だけの組織の近衛兵団。このロキサーヌ領において強き男たちの象徴である。
「大臣の子息も近衛兵団の幹部だったな」モルゼリクが大顔の大臣に話しかけた。
「はい。しかしあのようにアランがおりますゆえ、私のせがれなどはとても団長にはなれません」
そういう話はしてないが、とモルゼリクは思う。
「アラン。あの青年は並の人間とはちがうのです。貧しい家の生まれでありながら、その腕を買われ、異例の早さで昇進し、団長の地位までのぼり詰めました」
モルゼリクは大臣の手にわずかに力が入るのを見逃さなかった。
アランが登壇した。古株の前団長の手により、近衛兵団の旗がアランに渡された。そして赤ひげ侯爵からアランに闘牛の角を模した冠があたえられた。アランは頭に黒い布を巻いている。その黒い布の上に冠が載る。見栄えする凛々しき姿にどこからともなくため息が漏れた。
若き獅子のごときアラン。しなやかに引き締まった肉体。研ぎ澄まされた表情。肩まである長い黒髪はよい顔立ちを際立たせる。新団長である彼は、もはや古狸と化した前団長よりも、見る者の熱き士気を鼓舞させる風格を備えていた。
アランという男についてはモルゼリクもすでに知っていた。近衛兵団の中では、前団長を除けばやはり最初に名前と顔を覚えた軍人であった。一度だけ挨拶を交わしたことがある。ひと月前。アラン新団長の内定を祝う晩餐会が開催された。赤ひげ侯爵と彼の息子二人をはじめとする君主の一族の男たち――当然モルゼリクも含む――が主催となり、城からやや離れた大聖堂の広間に、領内の有力者と近衛兵団の上層部合わせて二百人ほどを招いて食事をともにした。黄金の神像が見下ろす中、女人禁制の格式張った宴は、水面下に思惑と神経の張り詰めを錯綜させながら進められた。
いずれは一族の男のだれかがロキサーヌ領の数十万の民の頂点に立つ。その権利と可能性は君主の娘婿のモルゼリクにもある。君主一族に気に入られようとするのは社交の場における人間の習性のようなものだ。大顔の大臣の息子などは父親に似て一族の機嫌をとろうと必死だった。ほかの軍人も大なり小なり媚び、あるいは緊張し、何かしら意識に変調をきたすところを見せていた。しかしアランだけは権力者におもねることもなければ萎縮することもなかった。会の主役なのにのぼせることなく、水が静かに流れるかのように己のやるべきことだけを終始淡々とこなして一人泰然自若としていた。その姿はモルゼリクの目に印象深く映った。
角の冠を被ったアランが、君主一族の男性が並ぶ席へと寄った。モルゼリクは立ち上がった。
アランは赤ひげ侯爵の息子二人と握手を交わしたのちに、モルゼリクの前までやってきた。
「このたびは実にめでたく」
「ありがとうございます」
晩餐会のときと同じだ。あっさりとした口ぶり。まるで君主一族と挨拶を交わすのも、貧しい身分の労働者と挨拶を交わすのも、なんら変わりはないようである。かといって礼儀に欠いているわけではない。長いものに巻かれることなどまるで興味なく、権力者の傘下に入らずとも自らの力で道を切り開く。アランという男はそういった信念で生きているようにモルゼリクには見えた。
モルゼリクは握手をしながら目の前のアランを観察した。長身のモルゼリクより背丈は低い。赤子のように透き通ったきれいな肌を持つモルゼリクより肌の色が黒い。垂れた目が色気があると評判のモルゼリクに比べると野性味のある鋭い目をしている。高貴さには身分相応の差がある。
身分は当然モルゼリクのほうが上だ。ロキサーヌ領の君主一族に加われるのは相応の生まれの者でなくてはならず、平民には越えられない壁が存在するのだ。身分はいわば天性の力。なのに、である。アランという男。君主一族を前にしてこうもひるまずに振る舞えるものかとモルゼリクは不思議に思う。戦闘の腕に関しては訓練している分だけ強みになっているにせよ、貧しい生まれの劣等感をこうも感じさせずに堂々といられる理由を問うてみたいくらいだ。赤ひげ侯爵の息子二人のほうが憧れの眼差しでアランを見ているではないか。整列している団員たちも、アラン新団長を見上げる顔つきには尊敬の色が表れている。
アランの毅然とした風格。その静かでたしかな自信に満ちた様子にモルゼリクの胸がさざめいた。表面的には敵でもなければ同じ舞台で競う相手でもないのに、海の底で眠る獅子の重厚な息遣いを感じているような、深層の領域での脅威を感じる。
さきほど大臣は、モルゼリク夫妻の行進が終わった際に、にぎわしい歓声だと感想を述べていた。そもそもはそれだけアランを祝福しに集った民衆の数が多いということ。
アランが門の近くまで行進をした。モルゼリク夫妻の行進に負けじと歓声が上がった。
その日の公務を終え、食事と交流の場への顔出しも済んだモルゼリクは、自身の部屋へと歩いていた。城内は夜の落ち着きを放っている。街へと出た近衛兵団の面々は、今頃は式典の大成功を祝して酒場で盛り上がっている頃だ。
セイラの寝室の前に六人の女中が待機している。モルゼリク夫妻専従の女中たちである。
「下がってよい」
寝室の掃除や身の回りの世話をする女中は、モルゼリクの許可をもって一日の仕事が終わる。女中たちは一礼して廊下を歩いていった。
セイラの寝室へと入った。鏡台の前に座っていたセイラが立ち上がった。
「モルゼリク」
妻の呼びかけを無視して横を通り過ぎた。モルゼリクの足音だけが鳴る。部屋を出る前に立ち止まり、ついでに振り返って妻を見据えた。公の場ではすることのない、冷えた表情を妻に向ける。
「なんだ」
「……なんでもありません」セイラはモルゼリクから視線をそらした。
モルゼリクは間仕切り扉を経て隣の寝室に進んだ。自分の寝室へは廊下からも入ることはできる。それでもしばしばセイラの寝室から出入りするのは、人目をごまかすためである。
妻のセイラとの関係は、彼女に向ける表情と同じく冷えきっている。だが表向きはいい夫婦に見えるよう努めている。セイラの両親にも、大臣にも、女中にさえも、真の夫婦の関係は見せない。悟らせない。
セイラが好きで結婚をしたのではない。ロキサーヌ領が好きでこの領へと婿入りしたのではない。故郷では叶えられぬことを叶えるためにやってきたまでのこと。貴様は、とモルゼリクは隣の部屋にいる妻を心の目で睨んだ。
貴様は初対面で私に一目惚れをして結婚を即決した。私とて同意したのは、貴様との結婚は都合がよかっただけのこと。貴様のような女など愛おしく思うはずがない。君主の娘に生まれただけで高貴な服を着せてもらえる。髪から足の爪まで立派に整えてもらえる。政は男にまかせ、身繕いしては、安穏と暮らすのみ。殊勝な態度で私の機嫌をとり、私に嫌われぬよう物事を主張せず、物事の成り行きに身をまかせて生きている。そういった惰弱な人間には虫唾が走るのだ――。




