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52-3:船員クオグリス

 雨の日が訪れ、しかし屈託のない太陽が現れては地面を事もなげに乾かした。暑くもなく寒くもない爽やかな気候は、島民や来島者の気分を明るくさせる。


 そんな中、サユリの心はぐずついていた。初日にクオグリスと話したきり、彼の姿は目にしていない。豚の姿のときには会いたくないからむしろ避けるのだが、いざヒトの姿になって会話の一つでもしたいと望んでも、彼らが出かけたりサユリの仕事が忙しかったりして、かち合うことがなかった。


 彼らがレイル島を去るのは二日後の朝の予定。船員たちの手助けによって船の修理がうまくいった漂流者たちも、同じ日に出発する目処がついた。


 クオグリスと身近に接するのであれば今日が最後。けれども相変わらず大人数の食事を作るために、午後早くからシロハゴロモ亭の厨房にこもっているのが現状である。


 サユリは火にかけた鍋を杓子でかき回す。頭の中で金色に輝く洒脱な風を想像する。彼の顔を見たい。彼の声を聞きたい。彼と話したい。ふだんはどんな生活を送っているのか。家族は、きょうだいは。知っているのは独身なのと、ギターが趣味であること、くらい。彼のことをもっと知りたい。


「サユリ。調味料を入れんかね」


 金色の夢から覚めた。薄汚い厨房。サユリの背後の椅子に座る女将が、遠慮も慎みもなく指示を出してきた。


 厨房にいるのは三人。サユリと女将と、女将の夫であるシロハゴロモ亭の主人。柳のような風体の主人はしゃべり方を忘れたのも同然に黙々と調理の作業をするのみである。自然の成り行きよろしく、()()である女将の駄弁や小言はサユリに向けられるのだった。サユリのくしゃくしゃした気分が溜まる。


「まだ煮詰めないと」サユリは女将に背を向けたままいった。


「いや、もう入れるんだ」


 押しつける物いいがサユリを苛立たせた。


「もう少ししたら入れます」


「今入れるんだ」


 譲らないのね、この老婆は。と、サユリの顔半分がぴくりと動いた。


「まだです。いつも料理をしてるのは私ですから、私が決めます」


 言葉尻が強くなったことに少し気詰まりさを感じたが、しかし女将が深いため息をついたことによって、またいらいらが加速した。


「私は六十年と料理をしてきた。経験からいってるんだ」


「長けりゃいいってもんじゃないわ」サユリはつぶやくようにいった。


 女将はことさら深いため息をついた。いつもは惰性の要素があるにはあるが、今回は意図的なものだった。


 厨房は不穏な雰囲気に包まれた。主人は素知らぬ顔で果物の皮をむいている。


「あんたは人並以上にできる()だ。仕事だって速い」


 急に褒めに転じた言葉。決してよくはない前兆として、サユリは背中で受け止めた。


 女将はいった。「あんたの、人を見下す態度がよくない」


 サユリは手にしていた杓子をぎゅっと握りしめた。人を見下す態度? どっちが。人をこき使っておいて。第一、そう思うんであれば、下の者に敬われるようにすればいいのだ。


「それは――」後ろを振り返ったサユリ。思わず悲鳴を上げそうになった。


 直視しがたい現状がサユリの視界に入った。厨房の入口に、金色の髪をした若者が立っていた。クオグリスだった。


「すみません。小皿をお借りしたく」憂いを帯びた表情のクオグリスは、()()()()()いった。


 いつからいたのだ。入口付近なら会話は聞こえていたはずだ。サユリは女将とのしょうもないやり取りをつぶさに思い返した。顔から火が出そうだった。


 小皿は主人の手によって彼に渡された。クオグリスは小皿を借りただけにしては申しわけない様子で去っていった。


 サユリの手が震える。女将と主人に背を向けて鍋を見つめ、沸々とぐらぐらと感情を煮えたぎらせる。情けなさと、恥ずかしさ。そして、女将への怒り。


 クオグリスがいるのを知ってて、わざと吹っかけたんだわ。あたしに痛手をあたえようと思って。なんて意地の悪い老婆なの――。


 調理を早急に済ませたサユリは逃げるように外に出た。夕暮れの中を一心不乱に走った。


 一気に港まで駆け抜けた。息を弾ませ、係留中の大きな船を眼前に据える。


 クオグリスたちが西大陸から乗ってきた船。間近で見ると、堂々として、威厳があって気高くて、自由と力を感じる。――島の中でこせこせやってる自分とは、まるでちがう。


 サユリは鼻をすすった。


 よりにもよってクオグリスに見苦しいところを見られるとは。最悪だ。


「よう」


 太いしゃがれ声がした。船の上からサユリに呼びかける人がいた。


「あんた、シロハゴロモ亭のサユリ、だったな」


 日に焼けた体格のいい若者。先日、クオグリスとともに漂流者たちの小屋にいた船員だ。


「ええ」サユリは返事をした。


「何か用か」


 そういえばなぜここにきたんだろう、とサユリは思う。


「……船が見たくて」


「ふーん。興味あるのか? 乗ってみるか」


 意外な誘いだったが悪くなかった。サユリは二つ返事をした。


 船梯子(ふなばしご)を上がって乗船した。数人の男たちが船上で作業をしていた。サユリは船に乗るのは初めてだった。足場がゆっくりと揺れる新鮮な体感によって、滅入っていた気分が少しだけまぎれた。


「どうだ。レイル島にある船とは比べ物にならないだろ」日焼けした船員は誇らしく笑った。


「ええ。すごいわ」


 ふと、船梯子をだれかが上がってくる音がした。金色の髪が見えた瞬間、サユリの胸は飛び上がった。


「あれ? クオグリスじゃねえか」


 クオグリスが甲板へと上がった。「ワムクン。もうすぐシロハゴロモ亭で宴会が始まる」


 日焼けした船員の名前がワムクンだったことをサユリは思い出した。しかしそんなことはどうでもよかった。クオグリスが現れて心が動揺している。


「ああ。ぼちぼち切り上げる。って、それをわざわざいいにきたのか?」


 聡明さを感じさせるクオグリスの目がサユリに向けられた。サユリはいちいち彼にどきりとさせられる。


「サユリさんが、あわてて走っていくのが見えたので」


「あ……」サユリは髪と服を手で整えた。


 かなり大きく腕を振り足を振り、シロハゴロモ亭から駆けてきたことを思い出した。またしてもはしたないところを見られてしまった。恥ずかしさはあるが、彼が気にかけて追ってきてくれたのはうれしかった。


「ふうん?」ワムクンには細かい事情など知る由もなかった。「まあいいや。俺はもうちっと作業があるから、クオグリスが相手してやってくれ。サユリだったな。せっかくだから自慢の船を見てってくんな」


 ワムクンはがに股で離れていった。がさつさはあれど、気立てがいい人間だ。クオグリスと仲がいいだけあるとサユリは納得した。


 それはさておき。


 さてどうしたものかとサユリは腰が浮く。不格好な現場から一転、こうして()()()()と並んで立つとは思ってもみなかった。


「サユリさんは、船に乗ったことは」クオグリスが穏やかな表情で尋ねた。


「初めてです」


「陸とはおもむきが異なるでしょう」


「ええ」先ほどの厨房での出来事に触れずにいてくれてありがたい、とサユリは会話をする傍らで思った。


 淡い青色の空と海を、沈みゆく太陽が目もあやに金色に染める。サユリの赤い髪を潮風が揺らす。


「こうやって船の上から海を見渡すと、まるで知らない土地にでもきたみたい。いつも見てる海なのに」サユリは悟り澄ましていった。


「海はいつもちがいます」


「そうなんですか?」


 クオグリスは遠くを眺めた。「私たちと同じく、海にも声がある」


「声……」


「私はそう感じています」


 クオグリスさんがいうなら、そうなんでしょうね。とは、サユリは口には出せなかった。「そうですか」


「海はいろんなことを教えてくれます。だから人は、海を見たくなるのでしょう」


 自然と港に足が向いた理由が、サユリの中でわかった気がした。


 黄昏に色づく海。まだ見ぬ広大な大地へとつづいている。このまま船がどこかへ進んでくれればいいとサユリは思い、そして深く息を吐いた。


 サユリはハッとした。女将と同じようなことをしている。自分が不快に思っていることなのに。


「ごめんなさい。悪い意味ではなくて……」サユリは焦って弁明した。


 クオグリスは微笑んだ。「ちょっと待っていてください」


 船室に入った彼はギターを抱えて戻ってきた。サユリは楽器にはまったく詳しくないが、それでもその木の艶めきから高価な品だろうとは想像できた。


「曲はいかがですか」


 しおれていたサユリにぱっと笑顔が咲いた。「ぜひ」


 クオグリスは背もたれのない木製の椅子に座り、脚を組み、ギターをかまえた。サユリは見惚れた。彼に似た化体族の男性を探そうと思ったものだが、今確信した。彼はだれにも似ていない。彼は彼。唯一無二の存在だ。


 彼の長い指が弦を弾く。さざ波と調和するようなゆったりとした速度、心を揺さぶる旋律、滑らかな指の動き。それらはサユリの心の(ひだ)慰撫(いぶ)した。聴いたことはないがうっとりとする曲だ。サユリの心が満たされていく。彼が励ましてくれているのは、後を追ってきてくれたことからも伝わっていた。彼は小屋に押し込まれている漂流者たちのことも気にかけていた。なんて温かい心の持ち主だ。こんな人は、いない。


 優しく光る夕暮れの海。切なく美しいギターの調べ。サユリの中でたしかなる気持ちがあふれていた。クオグリスが好きだと。


 ひとたび認めてしまえばもう、正当という名の岸まで流れ着くまでである。サユリは思った。好ましく思う気持ちに罪なんてないのだと。人間だろうが半人種だろうが関係ない。彼が彼であるその存在に喜びと敬意を覚えるのだ。過去に罰を受けた人間の男と天人族の女の何がいけなかったのかといえば、交わりという行為がいけなかったのだ。行為であって、感情は罪に問われるものではない。人を好きになるなんて、慈愛に最も近い、素晴らしいことではないか。

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